第21話 旅する帽子 3

「でも、待ってよ、れんにぃ! 確かに感動的な物語ではあるけれど、今の話にはオカシなところがある」


 サトウ帽子屋次男坊・佐藤颯さとうそうはピシリと言いきった。

秋月あきづき家の令嬢とともに旅だった帽子が、何故、今、ここに――我が家・・・にあるのさ?」

 流石、文学マニアの読書家。膨大な物語を読んでいる弟、そうだけのことはある。

「確か、令嬢は言ったはずだよ。帽子は2度と手離さないって……」


『何処へでも持っていきます。この帽子は常に私とともにあるでしょう』


―― いい質問だ。では、おまえが指摘した謎について語ろう。



   **********************************************



           ♦♦♦♦♦



 最愛の娘は去り、恋はついえた。

 春の夕暮れ、母国の雪さながらに舞い散る桜の花びらを金の髪に乗せたまま青年・レクセイが駆け込んだのは、元町は明治16年創業の老舗洋装店テーラーだった。

 破れた恋の代わりに手に入れたものがある。将来の夢、進むべき道……!


 ―― 素敵なお帽子!


 令嬢が絶賛してくれた帽子。それを作る技術ワザをレクセイは本格的に習得しようと決心した。それには神戸一番の店で腕を磨こう!

 零落したとはいえ元貴族の血統と品の良い容姿が幸いした。雇ってくれたテーラーで昼は店員として客の応対を、夜は寝る間を惜しんで裁縫や裁断――基礎技術の習得に励んだ。

 5年後、独立するやテーラーではなく帽子屋を始めた。一等地など望むべくもないので、仲買人で賑わう乙仲おつなか通りの倉庫を借り受ける。カーテンで仕切って後ろ半分に寝台を置き住居スペースに、前半分が作業場だ。作業台の前の壁には二枚のハンカチを飾った。自分がこの職に就く出発点となったあの日……今となっては夢のような邂逅。冷嬢からもらったハンカチだ。一枚は自分の傷ついた手を包み、もう一つはチョコレートを包んでいた……!

 通りに面した窓の下には外から見えるようにいくつか帽子を並べた。

 そんな、とても〈店〉とは言い難い小さくて粗末な店だったが、それでもレクセイは幸せだった。歩いていた人が帽子に目を止めて買ってくれたり、また、それをかぶっている人を見て自分も欲しくなった、とやってくる人もいた。少しづつではあるが客は増えて行っている。

 その日も窓の下に並べる新しい帽子を作っていると、耳にいつもと違う風の音が響いて来た。

 気のせいだろうか? 自転車の音に聞こえる。それも猛スピードの。

 キキッー! ブレーキ音とともに勢いよく開いたドア。そこから飛び込んで来たのは――


「センセイ!」

「……初音はつねさん?」


 しばらく声が出ない。またたきだけで精一杯。それと息をするのとで。

 欧州の水に磨かれて可愛らしい女学生は今や何処から見てもあでやかな貴婦人だった。

 最新流行のローウェストのドレスにハイヒール、髪型はシネマ女優さながらのボブカット……

 だが、その頭上に一つだけ、見覚えのある、懐かしいものが――

 忘れもしない、あの帽子、自分が見よう見まねで、悪戦苦闘して作ったバラ色の帽子だった!

 今改めて見ると赤面するくらい拙くて未熟なものだ。でも不思議な輝きを放っているのは、かぶっている人の魅力と、そして自分が込めた熱い想いのせい?

「ただいま帰りました!」

 ハツラツとした明るい声で秋月令嬢は言った。

「センセイの、このお帽子とともに、世界を見てまわってまいりましたわ!」

「それは良かった! さぞかしたくさん学ばれたことでしょう」

「もちろんです。だから、そのあかしをセンセイに真っ先にお伝えしようと思って、着岸した埠頭から自転車を借りてすっ飛ばしてきましたわ」

 息も継がずに秋月初音あきづきはつねは言った。

「センセイ、私をお嫁さんにしてください!」

「――」


 まさかの逆プロポーズ……


「イヤ、しかし、僕は、その、あなたに値しません。ご覧のように没落貴族。しがない駆け出しの帽子屋です」

「まぁ、センセイ! なんて前近代的な考えですこと! 今や世界は男女平等。職業に貴賤はないし、結婚とは、家がするものではなく愛しあい信頼しあう二人が心と力を合わせて築くものですわよ」

 初音の黒い瞳がまっすぐに青年を見つめている。

「私が学んだことは間違っていますか? センセイが作ってくださったこのお帽子とともに世界を旅して私が学んだことは間違っていますか?」

「――」

「ほら! 現代は女性からだって好きな人に求婚できてよ?」


 憐れ、秋月男爵は帰国した娘の暴挙に衝撃のあまり卒倒した。とはいえ、男爵は娘を心から愛していたので、ショックから立ち直るや膨大な持参金とともに娘を望むとおりの相手へ嫁がせてやった。

 二人は乙仲通りの地所を買い取り、素敵な帽子屋を開店した。

 見よ! 最新型コンクリートの三階建てのビルヂング。真新しい看板を揺らして風が吹き渡る。あの日、恋した人を世界へ送り出した時、涙にぬれた青年の頬を吹き過ぎたのと同じ匂いの海風が――



     **********************************************





 ―― こうして我がサトウ帽子屋は開業した。レクセイ曾曾曾曾……爺さんが作った最初の帽子、この《旅する帽子》が我が家にあっても何の不思議もないだろう?


「でも! まだ一つ、整合性のない箇所があるよ!」

 末弟は譲らなかった。

「ウチはサトウ帽子屋だよ? その〝佐藤〟の苗字は何処から来たのさ? 令嬢の名は〝秋月〟初音さんなんでしょ? 言いたくないけど、どうしたってもう一人登場人物が必要だ。〝佐藤〟という名の〈第2の女〉が!」

 ゆっくりと漣は首を振った。


 ―― いや、この物語にキャストはこれ以上存在しない。いいかい、颯?

   サトウ帽子屋のサトウが何故カタカナなのか? 謎を解く鍵はここにある。

   サトウ帽子屋のサトウ。これはね、正式な帰化申請に際してレクセイが自分の旧姓から採ったからだ。

   ロシア貴族苗字年鑑にも載っているレクセイの苗字を、その一番近い響きを持つ日本の苗字に置き変えたからなんだよ。


   レクセイの正式名はレクセイ・サルトゥイコヴァだ。

   サルトゥイコヴァ……サルトゥ……サトウ……

   な?


「えー、そうなの? し、しらなかったああああ!」

 颯の絶叫に続いて、一華いっか

「私もよ! ご先祖にロシアの血が入ってるのは薄々知っていたけど、姓はてっきり母方からもらったんだとばかり思ってた!」


 ちなみに、戦前、読売巨人軍で沢村栄治さわむらえいじとともに実力を絶賛され、人気を競った大投手、スタルヒンもロシア革命から逃れた貴族――彼は伯爵の嫡男――だった。

 日本名は、やはり旧姓から採って〝須田〟――須田博すた ひろし

 更に言及するなら、こうして日本を新たな故郷としたロシア人も少なくない。

 製菓業のモロゾフ(現コスモポリタン)、ゴンチャロフ……

 また関東大震災で被災した東京神田のニコライ堂の修復や神戸ハリストス正教会の創建にも彼ら白系ロシア人は尽力した。




 ―― これがご注文をお聞きして作らせていただいた《旅する帽子》です。


 受け取りに来た溝口純也みぞぐちじゅんやに漣は説明した。


 ―― 帽子のタイプとしてはクラッシャーと言います。柔らかい素材で作られ、丸めても畳んでもすぐに元の形に復元する。ポケットやカバンの隙間など容易に滑り込ませられるので何処にでも携帯できます。元々は軍隊用だったのですが、女性用と言うことで素材はベルベット、外観はマッシュルーム型にしました。


「素晴らしい……!」

 溝口は感動のあまりしばらく言葉が出なかった。

「正直言って……僕はコレを贈る際、何と言って渡そうか、未練ぽくならないか、あるいは惨めに見えないか、などとあれこれ悩んで考えていたんですが――」

 黒縁眼鏡を持ち上げて顔を寄せ、うっとりと見つめる。

「もうそんな言葉はいらないな! なんて美しい帽子だ! バラの蕾みたいじゃありませんか! この帽子を見た瞬間、言葉など吹っ飛んでしまいました。そう、この帽子が僕の想いのすべてを見事に語っている!

 ありがとうございました!」


 ―― あ、まだですよ。


 仕舞い込もうとした溝口のその手を制す帽子職人。

「はい?」

「そのお帽子は未完成品だと兄は申しております」

 帽子の裏側を指し示して接客担当の一華が言う。

「ご覧ください、ここに、ポケットがあります。もし、よろしければ――」

 一華の言葉を最後まで待たず溝口が叫んだ。

「あ! 何故わかったんです? 僕、ここへ来る前に生田神社に参って……もらって来たんです……」

 慌てて上着のポケットからそれを出した。お守りだ。


 ―― 少々お待ちください。すぐに終わりますから。


 針と糸を出して目の前で縫い始める漣。兄の――先祖譲りの美しい指がリズミカルに、歌うように動くのを見つめながら一華は解説した。

「ご安心ください。ドミット芯……柔らかな芯を挟みますからかぶり心地に支障はありません」


 ―― 洋の東西を問わず、愛する人を送り出す人間の考えること、その思いはいっしょです。さあ、これで完成です。どうぞ!


 そうなのだ。およそ100年前、レクセイ・サルトゥイコヴァも同じことをした。

 初めて作った帽子には隠しポケットがあって、そこにレクセイはしっかりと縫い付けたのだ。母国のお守り、幸運のチャーム、馬蹄型のамулетそれを。


   カララン!


 飛び出していく客を追って一華の明るい声――こちらはきっと男爵令嬢譲りに違いない――が響く。

「あ、お待ちください! 忘れ物! この間お貸しいただいたお帽子……って、まぁいいか。別の日にまた取りに来るわね」

 では改めて、

「ありがとうございましたっ!」




 関西空港、国際線ロビー。


 溝口純也は萩原茜はぎわらあかねに贈り物を差し出した。

 思いがけないプレゼントにはじける笑顔。

「ありがとう、純也じゅんや! 私、私ね……」

 みるみるその瞳が涙でうるんだ。

「ホントは私、あなたにもっと別の言い方するべきだった。だって、私にとってあなたは特別の存在だったもの。だからこそ、決心が鈍るのが怖くて、それで、私――」

「いいんだ、何も言うな」

 遮る溝口。

 言葉はイラナイ。特にそれが謝罪の言葉なら。

 それは旅立つ日に一番似合わないものだから。

 選び取った未来、夢へはばたくこの時に、笑顔だけを見つめて、一言。

「良い旅を!」

 これでいい。先のことはわからない。今、わかっているのは、この帽子はこれから君と世界中をめぐるだろうということ。

その旅の果て、最後に辿り着くのは何処だろう?

 

 だが、今は、心を込めて、

「ボンボヤージュ! 良い旅を、茜!」

 

 真新しい帽子をしっかりと深くかぶって旅人は敬礼した。


「行ってまいります!」







 Bon voyage! Ma précieuse personne!

  良い旅を! 大切な人!


 Merci! Mon prof! Je pars…

  ありがとう、ワタシノセンセイ! ……






          第七話 《旅する帽子》 ――― 了 ―――



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