第20話 旅する帽子 2

「えーっ! これが? サトウ帽子屋の帽子第一号?」

「つまり、サトウ帽子屋ウチの原点……始まりの一歩ってことなのね?」

 妹と弟は揃って目を見開いて叫んだ。


 その夜の三階リビング。夕食を終えたテーブルに兄が置いた箱。

 身を乗り出してしげしげと見つめる二人にれんは厳かに告げた。


 ―― そうだよ、これがサトウ帽子屋の始まりとなった一番最初の帽子だ。


 いつにもまして兄の繊細で美しい指がさざ波のように優しくさざめいている。


 ―― 僕が服飾デザイン専門学校を卒業したその朝、父さんと母さんが僕にこれを見せてくれた。そして、この帽子の来歴を教えてくれたんだ。

    一華いっかそう。きっとおまえたちにも父さんと母さんは〈最適な時〉を選んで話すつもりだったと思う。だけど、あんなことがあって……


 その両親の夢は果たされなかった。

 サトウ帽子屋前代オーナー夫妻は異国フランスで不慮の死を遂げた。


 ―― だから、僕はいつの日か、父さんと母さんに代わって僕自身がこれについて語ろうと思っていた。

   今日はまさにそのよい機会だ。この帽子について聞いてほしい。

   この帽子は《旅する帽子》と名付けられている……



   **********************************************


              ♦


 青年は下ばかり向いて歩いていた。このところまともに食事をしていない。空腹で目が回りそうだった。と、突然、耳に響いた声――


「きやー……どいてくださーーい! あぶないーーーっ!」


 イキナリ突っ込んで来た自転車。

「え? うわっ!」

 顔を上げる間も有らばこそ! 重なり合って倒れる。

「すみません。大丈夫ですか?」

 青年はすぐさま謝罪した。


「Êtes-vous bien?」

  あなたこそ、大丈夫?


「Je suis désolé Je suis mauvais……」 

  申し訳ない、僕が悪いんです。

  全く前を見ていなかった。空腹で意識もうろうとして……


「まぁ! 異国の方?」


 娘はすぐに言語を切り替えて、流暢りゅうちょうなフランス語で、


「Je me sens vraiment désolé 」

  本当に申し訳ありませんでした。


 海老茶の袴に矢絣やがすりの着物。腰まで長く垂らした髪には純白のリボン。編み上げブーツと来れば……

 女学生! 最先端のデートン色の自転車を駆る良家の子女に間違いない。


 ※以後、二人の会話はフランス語としてお読みください。


「まぁ! 大変! 御手から血が――」

「何、構いません。大した傷じゃない。かすっただけです」

 逆に吃驚して慌てる青年に女学生は懐からレースのハンカチを出して素早く縛った。蝶蝶結びに結びながら、

「お美しい御手ですこと!」

「ああ! お嬢さん、あなたこそ――」

 青年はその先の言葉を飲み込んだ。

 すぐに立ち上がり自転車を引き起こして点検する。

「良かった! どこも壊れてはいません。さあ、お乗りなさい」

 自転車のハンドルに置こうとした娘の手が止まる。たもとを探って取りだしたものは、これまた可愛らしいレースのハンカチに包まれたチョコレートだった!

「よろしければこれを。お腹がお空きと仰っていましたでしょ?」

 青年は笑いだしたくなるのをこらえて首を振った。

「いただくわけにはいきません。レディのおやつ・・・を横取りするわけにはいきませんからね!」

「あら、ご心配なく! 私は十分いただきました」

 女学生は素晴らしい微笑みとともに包みを押し付けると自転車に飛び乗り去って行った。

「では、ごおきげんようーーーーーー」

 ああ、娘さん、あなたこそ!

 見送りながら先刻胸に収めた言葉をつぶやく。

 あなたこそ、なんて美しい黒い瞳! まるで絵のようではないか!

 青年はかつて見た母国の画家の傑作を思い出していた。


   Неизвестная

 

 見知らぬ女……忘れ得ぬ人……!

 

 また眩暈めまいがした。先刻のそれは空腹のせい。そして、今は、恋のせい……



             ♦♦



「喜べ、レクセイ! 仕事を見つけてやったぞ!」


 大声で名を呼びながら従兄弟いとこが入って来た時、青年はまだ夢心地で狭い部屋の天井を見つめていた。

「全く、おまえときたら、料理はできない、お菓子作りは言うに及ばず、パンの焼き方も知らない。その細い体では力仕事も無理というものだ。この異国で僕たちだって・・・・・・働かなきゃ生きて行けないと言うのに! おや、何処で拾って来た? 懐かしいな、オーストリアの老舗、デメルのチョコレートじゃないか!」

 傍らの包みを目ざとく見つけ口に放り込む従兄弟。噛み砕きながら、 

「だが、感謝しろよ、おまえにぴったりの仕事を見つけて来てやった! フランス語の家庭教師だ。3か月だけの短期契約だが贅沢は言えない。明日、ここを訪ねて行ってみろ」



  〈秋月秀麿あきづきひでまろ男爵邸〉



 従兄弟に教えられてやって来たそこは堂々たる豪邸――かつての自邸には比べようもないが、今となっては別世界に見えた。

 豪奢な応接間で紹介された〝生徒〟を見て青年は飛び上がった。

「あ、あなたは……!」

「――まあ、Ma victime……私の犠牲者様?」


 娘の名は秋月初音あきづきはつね。秋月男爵の一人娘だった!

 令嬢は女学校卒業後に欧州留学が決まっていた。容姿端麗・頭脳明晰な娘をこの上なく愛する父男爵は、広く世界を見て新時代の婦人となるよう最高の教育を授けたいと望んでいた。欧州の名門校に学ぶことはその第一歩である。

 3か月だけの臨時教師となった青年は言った。

「ご心配には及びません、男爵! お嬢さんのフランス語は完璧です。僕とすれば最後の仕上げをすればいいだけです」

「ほう! そうかね!」

 満足そうに口髭を撫でる秋月男爵。視線を戻し、じっと令嬢を見つめて青年は言った。

「では早速、訂正箇所を。僕を〈犠牲者〉と言うのは間違いです」

「まぁ、では、何と言えばよろしいの?」

「〈幸運者〉」


 だが、実際のところ、合っていたのだ! 僕は恋の犠牲者……Une victime



            ♦♦♦



 その犠牲者による最初の授業で初音はつねは訊いた。


「先生はフランス人でいらっしゃいますの?」

「いや、僕はロシア人です」

「ロシア人ですのに、何故こんなにフランス語が堪能なのでしょう?」

「それは……僕の所属するグループでは母国語と同じように日常生活でフランス語を使用していたからです」


 1917年、大正6年に勃発したロシア革命で〝青年の所属するグループ〟――すなわち貴族階級はことごとく国を追われた。翌1918年、日本に流れ着いた白系ロシア人は8000人を超えたと記録にある。

 無一文の異国人ながら男爵が家庭教師として採用してくれた理由も、実にここにあったのだ!

 身分と教養はあるが金はない、身一つで逃げて来た貴族たち。だが、命があるだけ幸運ましというものだ。彼らの頂点、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世は幼子に至るまで虐殺された。青年もまた親族で無事逃げおおせたのは従兄弟と自分、二人だけ。


 さて。3か月の授業……幸福な時間は飛ぶように過ぎた。


 皮肉なことに、青年が失った財産を心から悔やんだのは初音との別れが近づいた時だった。

 この恋はとっくに諦めている。今となっては身分が違い過ぎる。だがせめて、別れの日に旅立ちを祝して贈り物をしたかった。

 自分と云う存在を――ほんの一瞬でもいい――思い出してくれるような特別の品を!

 だが、自分には何もない。そもそも秋月家に養ってもらっている現状でまともな贈り物などできるはずもなかった。

 ああ、本当にみじめで情けない。今ここに母や祖母の装飾品の一つでもあれば。いや、自分が引き継いだであろうはずの財産、その全てを、初音になら捧げてもいいというのに!

 実際、現実に青年が所有する金銀財宝のたぐいはなにもなかった。

 秋月令嬢……初音さん。僕の忘れ得ぬ人……

「!」

 ふいに思い出した。

 あの絵、イワン・クラムスコイが描いた〈 Неизвестная 〉 見知らぬ女。

 懐かしいサンクトペテルブルグのアニチコフ橋の上、停めた馬車の中からこちらを見つめる美しい女の姿。

 その人が纏っていたドレス、被っていた帽子がまざまざと脳裡に蘇る。

 ドレスは無理だ。持っていない。だが帽子、あの小さなものなら、ひょっとして……



            ♦♦♦♦



 旅立ちの日。

 神戸港、新港埠頭には大型客船が静かに出帆の時を待っていた。

 船は横浜~神戸~門司~上海~香港~シンガポール~マラッカ~ペナン~コロンボ~スエズ~ポートサイド~マルセイユ~ロンドン~アントワープの順に寄港する予定だ。この時代の欧州航路はほぼこの航路コースである。

「ああ! 来てくださったの! 私のセンセイ! ありがとうございます!」

 見送りの人の群れを掻き分けて駆け寄る令嬢に青年はそっと差し出した。

「どうぞ、これを――受け取ってください」

「まぁ! 素敵なお帽子!」

 冷嬢は感嘆の声を上げる。

 バラ色のベルベット、蕾のような帽子……!

「こんな美しいお帽子見たことがないわ! 先生のお国のものですか?」

「いえ、その、僕が作りました」

 初音は目をみはった。その美しい黒い瞳を。

「センセイがお作りになった? その美しい手で? この美しい帽子を? 信じられませんわ」

 が、すぐに大きく首を振る。

「いえ、だからね? だからこんなに美しいのね、このお帽子!」

 令嬢は自分の帽子を脱ぎ捨てるや新しい帽子を被って微笑んで見せた。

「似合いますか?」

「ええ、思い描いた通りだ! 大変よくお似合いです」

 あなたのその黒い瞳に……!

「ありがとう、センセイ! このお帽子、大切にします。2度と離さないわ。何処へでも持って行きます。このお帽子は常に私とともにあるでしょう」

「本当ですか? そう言ってもらって……その言葉で僕の思いは報われました」

 唯一、手元に残っていた母のショール。ベルベットのそれを切り裂いて、見よう見まねで、悪戦苦闘して、縫い上げたのだ。

 針を持つのは初めてだったから、手袋で隠した手は傷だらけ。最悪だ。初音が褒めてくれたような美しい手ではない。

「では、ごきげんよう! お元気で!」

「センセイも! お元気で!」

 汽笛が鳴って出港の銅鑼ドラが響き渡る。船上と埠頭を結ぶ色とりどりのテープもやがて虹のごとく解けてちぎれて波間に消えて行く。

 今度こそ、恋する娘は去ってしまった。

 あの日、自転車で風を切って駆けて行ったように、今日は大型客船に乗って水平線の彼方、遠い世界へ。

 だが、これでいい。

 旅立つ人へ愛を込めて Bon voyage ボンボヤージュ! 良い旅を!

 Adieu! 二度と会えぬ貴女あなた、サヨウナラ……



    **********************************************



「ステキ! そんなロマンチックな物語がこの帽子に隠されていたのね!?」

 感動のあまり涙ぐむ姉。反して佐藤家末弟は首を傾げて言った。

「でも、待ってよ、漣にぃ。確かに胸を打つストーリーではあるけれど、今の話には明らかにオカシなところがある……!」



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