第19話 旅する帽子 1


 ここは神戸。古い港町の風情を残す乙仲おつなか通り。その一角に店を出すサトウ帽子屋のオリーブ色のドアを押して今日もお客様がやって来る。特別な帽子を探して……



   カララン。



 その客が入ってきた時、少々違和感があった。

 年の頃は20代後半から30代初め。黒縁の眼鏡、きっちり分けて整えた髪。スーツの上に濃紺のコートを羽織っている。商社マンだろうか? 斜め掛けのショルダーバッグのほかに紙袋を下げていた。


「いらっしゃいませ!」

 にこやかに迎えた一華いっかに、男は緊張した面持ちで一言。

「帽子のオーダーメイドをお願いしたいんです」



「何分、この種のお店に入るのは初めてで……」


 店の共同経営者兼帽子製作者、れんの運んできた美味しい紅茶を飲んで幾分気分がほぐれたようだ。男は話し出した。

「はじめまして。僕の名は溝口純也みぞぐちじゅんやと申します。Y新聞社神戸総局で記者をやっています」

 彼が口にした新聞社の建物はJR元町駅から2、3分の場所にあったはず。

 名刺を差し出しながら溝口純也は続けた。

「今日お伺いしたのは、恋人、いえ、同僚に帽子をプレゼントしたくて……その贈り物用の帽子を作っていただきたいんです」

 帽子制作のイメージの参考になれば、と言ってスマホを操作して写真を見せてくれた。

「これが帽子を贈りたい僕のこいび……同僚の萩原茜はきわらあかねさんです」

 そこには、はちきれんばかりの笑顔の女性がいた。こちらをまっすぐに見つめる揺るぎない視線。煌めく瞳は背景の空の青より澄み渡り、ショートカットの髪を風が優しく吹き過ぎて行く……

「僕と彼女は同期入社で、僕は社会保障部、彼女は社会部でした」

でした・・・?」

 思わず反応した一華に記者が笑い返した。苦い微笑。

「全てお話したいと思います。聞いていただけますか? 僕は今年、彼女に求婚するつもりでした」

 いつも励まし合って来た二人も入社5年目。もう新米とは呼ばれなくなった。貯金も溜まったし、これならそろそろ安心して家庭を築けそうだ。すると、新年を迎えてすぐ彼女から電話があった。大切な話がある。私、社に辞表を出して来たの。

「グッドタイミング! 以心伝心と僕は思いました。彼女も同じように考えていたんだな! そりゃ、仕事を辞める必要はないと思ったけど、専業主婦で子育てに専念したいなら、それはそれで構わない。一家の大黒柱になる決意をみなぎらせて会いに行った僕が聞いたのは全く予想外の言葉でした」




「私、日本を出て行くわ!」


 萩原茜は目を輝かせて言った。

「ひとまずスイスのジュネーブを拠点にしようと思ってるの。国連事務局で空席だった募集試験に合格したのよ。でもこれはスタートに過ぎない。ISは果たしてこのまま無力化するのか? 欧州に溢れる難民たち……イギリスのEU離脱の行く末は? 〈一帯一路〉構想を掲げる中国は遂にアフリカから中欧諸国制覇へと舵を切った……小さなロケットマンを制御できるのは誰?

 ねえ? 私たちは激動の時代を生きているのよ! だから、私、これからもっともっと、世界を自分自身の目で見て回るつもり」




「彼女が言うには、それが子供の時からの夢だったそうです。大学でジャーナリズムを専攻し新聞社へ入社したのも全ては計画の一環。十分に貯金を溜めたし、これで数年は海外でやっていける資金的な目途がついた。

 それで、僕は言いました。『おめでとう! 感動したよ! 君のその夢に乾杯!』

 彼女は言いました。『ありがとう! 同期の仲間のあなたにそう言ってもらえて嬉しいわ! 勇気百倍よ! これで思い残すことなく旅立っていける!』 ……」

 

 客は紅茶を飲み乾すと静かにカップを置いた。


「僕は思い知らされました。自分がどんなに浅墓で矮小な人間だったか。恋した人と結婚して暖かな家庭を築く。でも、そんなのは僕の独り善がり、勝手な妄想に過ぎなかった。いや、それ以前に、茜は僕のことを同期の仲間、戦友くらいにしか思ってなかった。まぁ多少好意があったとしても、その結末に結婚なんてカタチは彼女にはなかった……

 僕たちは全く別の夢を見たいたんです」

「それは、その、お気の毒です……」

「あ、僕は大丈夫です。お気遣い無く」

 大きく左右に首を振る溝口純也。

「流石にその夜は一晩泣き明かしましたよ。お恥ずかしい話ですが。で、朝日の中で決めたんです。彼女を望み通りの広い世界へ送り出してやろう! その背中を押して力いっぱい言うのだ、『良い旅を!』」

 ぐっと背を伸ばしてから、深々と頭を下げた。

「そう言うわけで、僕の想いを込めた帽子を作ってください! どこまでも彼女と一緒に世界を旅する帽子・・・・・。非力な僕は多分一生ここに居る。この場所くにを離れることはないでしょう」

 少し声が低くなる。

「ええ、わかっています。出来上がった帽子は、同時に、僕にとっては別れの帽子……別離の帽子でもあります。でも、いいんです。僕は彼女のしがらみになるべきではない。潔く身を引きます」

 紙袋を押し出して、

「これ、茜の帽子です。以前、僕の部屋に忘れて行ったものですが――これでサイズがわかるのではと持参しました」


 ―― 今、何とおっしゃいました?


「え? にいさん?」


 ―― 確かにあなたは言われましたよね? 〈旅する帽子〉と?


 帽子職人の兄の質問を改めて妹に確認してもらってから、溝口純也はうなづいた。

「ええ、そうです。確かに言いました。旅する帽子。旅立ちを祝して――つまり、そんなカンジの帽子と言う意味です」


 漣の指がパチンとなった。


 ―― 了解です! その帽子、作らせていただきます!




「いいの、にいさん? そんな安請け合いして?」


 溝口が去ったとたん、一華は漣を振り返って問い質した。

「〈旅する帽子〉なんて、今回も難解なテーマよ?」


  カラカラカララン!


 ここで、数人の女子が束になって店内に雪崩なだれ込んで来る。

「キャー! 素敵なお店! 小さいけど」

「帽子専門店ですって! こんなの初めて見た!」

「お洒落じゃない! わあ! どれも可愛い! みてみて!」

「目移りしちゃう! どう? これ、私に似合う?」

「私はこっちがいいかな~」

 一華は兄を置いて客たちのそばへ走らねばならなかった。

「いらっしゃいませ! サトウ帽子屋へようこそ!」





 さっきの賑やかな客たちは帽子を一点づつ買ってくれた。

 ありがたいことだ。その上、また来ると誓って、お互いの帽子を褒め合いながら帰って行った。

「ありがとうございましたぁ!」

 丁寧に送り出した後、一華がアトリエの小窓から中を覗くと――

 そこに兄の姿はなかった。

「いやだ、にいさん、何処へ行ったのかしら? ほらね、無理な帽子制作を引き受けるから。考えあぐねてまた海でも見に行ったかな?」


 否!

 その時、兄・佐藤漣さとうれんは妹の頭上にいた。すなわち、サトウ帽子屋ビルヂング3階の一室に。


 ―― 確か、この辺りにあったはずなんだが……




 漣が立っているのは佐藤家の納戸だ。

 サトウ帽子屋ビルヂングは大正初期の建築。阪神大震災を持ち堪え、その後、耐震工事を施し、今に至る。(余談だが却ってこの頃の建物の方が骨組みが頑丈なのだとか)

 その納戸の片隅、重厚な年代物のコファーの蓋を漣はゆっくりと持ち上げた。

 中に入っていたのは幾つかの古い額、そして、色褪せた帽子の箱――

 箱に印されている、ほとんど消えかけたロゴは現在のそれと同じだった。



      〈chapeauシャポー  サトウ〉



 ―― これだ。これこそ……!



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