第23話 罪の帽子 2
「連絡をいただいて――正直驚きましたわ!」
麗しきバイオリニスト・
「まさか、こんなに早く帽子が出来上がるなんて……」
注文をして三日後のことだ。
サトウ帽子屋の店内の一角。テーブルの上に
―― どうぞ、ご覧ください。
「……」
―― どう思いますか?
帽子制作者の問いに高木陽那は首を傾げて
「……とっても綺麗。見たことがないくらい素敵だわ。でも――わからないわ! 一体これの何処が罪の帽子なの?」
―― まさか
「と、兄は申しています」
―― お話したと思いますが、僕はかぶる人を
「と、兄は申しております」
眼前の帽子は――
型はキャプリン。クラウンの上部が平らで大きなプリム(つば)に特徴がある。
そのプリム部分を持ち主の好みで折り曲げてかぶる。アンバランスに調整したほうがより魅力的だ。
素材は銀色のシルク。片側、かぶった人の右サイドに繊細な意匠の飾りがついている。
波打って自在に顔を縁取るプリムの裏地は表側より微妙に濃い銀鼠色で、そこにも美しい模様が銀の糸で刺繍してあった。その細かい模様が見る角度でキラキラ煌めくのだ。
光の吐息のようだ、と思わず、高木はため息を漏らした。その後でキッと頭をもたげて帽子製作者を見つめる。
「認めるわ。確かに素晴らしいお帽子ね! それにしても――
高木は帽子を手に取ってしげしげと見入った。
「このサイドの飾りは弓矢と蝶ね? 蝶はコサージュのようにも見えて凄く素敵だし、弓矢は銀細工でブローチ仕様なのね? どちらもデザインとしては最高よ! だけど――」
音楽家はキュッと唇を噛んだ。
「これで〈罪の象徴〉だ、などと言うのなら、正直言ってがっかりです。薄っぺらすぎる。この程度の子供
パチン!
ここで鳴ったのは漣の指。
―― では、詳しくご説明いたしましょう。
まず、今あなたが指摘されたクラウン片サイドの飾り。弓矢と、蝶。
正確には蛾ですが。
弓はギリシャ神話の女神アルテミス(英名ディアナ)を、蛾は中国の女神
つまり、この帽子は〈月の帽子〉。月を象徴しているんです。
高木は目を細め、掠れた声を上げる。
「悔しいけど、本当に綺麗……見惚れてしまうわ。でも、どうして〈月〉なの? 私は(罪〉の帽子を頼んだのよ。あ、ひょっとして――」
眉間に皺を寄せて、まず接客係の
「聞き間違いではないですよね? つ
素晴らしい笑顔で帽子屋は首を振る。
―― 聞き間違いではありません。
実はね、メソポタミアの神話では月の男神の名をシンというんですよ。
同時に、シンは英語で罪=SINでしょう?
「呆れた!」
今を時めく美女バイオリニストはあんぐりと口を開けた。
「
帽子職人は決して慌てなかった。微笑をたたえたまま、
―― シャレと仰いますが、高木さん、洋の東西を問わず、言い換え・翻訳は破邪の魔法。最も簡単で最強の呪術ですよ。
身近なところでは……例えば、部屋に南天の色紙や掛軸を掲げている年配の方が多い。それは同音の〈
兄はここでそれまで通訳をしていた妹の方に顔を向けた。
一つ
そのさざめく指の言葉を、一瞬、旋律のようだと音楽家の高木は思った。
姿勢を正して聞き入る。耳を――心を――澄ませた。
―― この店の前代の経営者だった僕たちの両親はあなたのお母様同様既に亡くなっています。
私事ながら、〈月の石〉が縁で出会い結婚したんです。僕はいわゆる、ハネムーンベビーでした。
6月22日生まれの蟹座。誕生石はムーンストーン……出来すぎでしょう?
両親はとても喜んだそうです。
「それは素敵。あなたは罪のないご両親の愛の結晶でお幸せね?」
高木陽那の返答には明らかに棘が混じっている。
漣は宙に手を止めて指を一本立てた。
――
あなたは海外公演で外国へもよく行かれるから今更言うまでもないでしょうが、英語圏では蟹座の蟹=キャンサー=が癌をイメージさせるので避けて、ムーンチャイルドと呼ぶほうが一般的ですよね?
これも言い換えの魔法です。
更に、何故、蟹座がムーンチャイルド……月の子供なのか?
西洋人は月の模様が蟹に見えるからです。僕ら日本人は兎なんだけど。
それで、この帽子のプリムの裏側には世界中の月の文様を
よく見なければわからないですが、気づくとなかなか面白いでしょう?
確かに。
蟹(欧州)や兎(日本、朝鮮)……このほかにも、蛙(中国)、ライオン(アラビア)、ロバ(中南米)、犬 (モンゴル)、大樹と木陰の人 (ベトナム)、ワニ(インド)、トカゲ(米大陸)、読書中の老女(北欧)、水汲みの少女 (カナダ)、乙女の横顔(欧州)……
いづれも流麗なタッチで刺繍が施してある。
―― 長々、あれこれお話しましたが。わかっていただけたでしょうか?
僕がお伝えしたいのは、言葉の翻訳、想いの翻訳。
嫌なモノ、マイナス要因を良いものに転化しようという姿勢は人間の生きる知恵だと思いませんか?
「……要するにあなたは〈罪の帽子〉を美しいものに変えたと言いたいのね?」
高木は手の中の帽子をいったんテーブルの上へ戻した。改めてまじまじと眺める。
―― この翻訳……僕の試みが成功したかどうかはわかりません。
何故なら、最後の仕上げはかぶった人がするから。帽子とはそういうものです。
僕の力が及ぶのはここまでです。
でも、僕は全力を込めましたよ。
納得いただけましたら、お受け取りください。お気に召さなかったなら……
置いてお帰りになって結構です。
「――」
どのくらい時間が流れただろう。
高木陽那は
遂に立ち上がると、帽子を受け取って、そのまま無言で店を出て行った。
カララン……
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