第59話 万年筆と言うカメラ(ジャン・コクトー)
「映画カメラは、私にとって、視覚のことばで何かをいうための方法である。インクと紙とでそれを言う代わりの。」 ジャン・コクトー
また、この時期に、マルセル・マルタン(フランス 1955年 映画言語 著)は、この世の多々なる言語の中にシネマによる言語を認めようとした。その後、この映像言語、またはグラマー(文法)は定着された。
語られる言語、印刷される言語、そして、映像言語も並んだといわれた。
映画の発明(動く映像)は、グーテンベルグによる印刷技術とその重要性を対比させたのは、
ベラ・バラージュ(1886-1951)である。
複製芸術の時代、それは、そこに、あたかも、本物の世界があるかのように、人の知覚を知り尽くして完成されて1つの理論構成であろう。
「カメラ=万年筆」(アレクサンドル・アストリュック 批評家)彼は、ペンをカメラに代えて、映画の監督を試みた。
詩人 ジャン・コクトーも、その当時、そうした。
そして、サルトルが、シナリオ「賭けはなされた」を執筆した。
そのようなプロセスを経て、「カメラ=万年筆」の理論は展開された。
それは、言語としての映像が、ヒトに何を伝えるか、また、意思、思想の表現、多様性に満ちた手段だが、その本質、そして、ヒトに対しての映像の働きは、問い返せねばならない部分も多々あろう。
参考:現代映画芸術(岩崎 昶)
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