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「お疲れ様です」
警備員がぴしりと姿勢を正し、頭を下げた。
彼の言葉に無言で手を挙げて答え、颯爽とその横を通り抜ける。
――やはり、この姿は便利だ。
消毒の臭いが立ち込める施設へと入っていく。
ところどころで紺の上着を着た男たちに頭を下げられ、そんなやり取りを繰り返して行く内にある一室に辿り着いた。
ポケットからカードを取り出してリーダーに通し、ドアの前に取りつけられたキーのランプが赤から緑に変わったのを確認。
白いカーテンに囲まれた、ベッドの上で酸素マスクをつけて深く眠る大倉を見た。峠は越えてもまだ麻酔は切れていない。
誰もいないことを確認し、ズボンの裾の下に隠しておいたサイレンサーをホルダーから抜き取り、安全装置を外した。
手が多少震えているが、息を深く吸い、もう片手を支えに銃を向けた。銃口を定めた時には既に迷いはなかった。
――静かな発砲音が病室に木霊した。
大倉の額には一つの穴が開く。血が噴き出し、純白のシーツをじわじわと赤く染め上げた。瞬きよりも早い作業を終え、止めていた息をゆっくりと漏らし、肩の力を抜いて銃を持つ手をだらしなく下げる。
「……これであとは――」
「あと一体、何をするというんだ?」
第三者の声に息を呑んだ。
何故なら――その声は殺したはずの大倉から発せられたものだったから。
血みどろになった大倉はその隙を見逃さず、左足を蹴り上げ、サイレンサーを弾き飛ばす。
「銃を確保しました、亜紀さん!」
床に転がったサイレンサーを咄嗟に拾って叫ぶ蒼斗。呆気に取られる相手に対し、大倉は上体を起こし、意地の悪そうな顔をして笑った。
「何故……」
「俺に変装するなら、撃つのに躊躇するのはいただけねぇな――辰宮」
全てのカーテンが開き、銃を構えた警官とAPOC捜査官が二人の亜紀が対峙する奇妙な個室を取り囲む。
大倉は自身の顎下を指先で掴み、一気に引き上げる。
皮膚がゴム状に引き伸ばされたことでその顔が晒された。その下には血糊袋が弾けており、さらに剥がすと亜紀の顔が現れた。
亜紀――否、亜紀に化けた辰宮は、ベッドの上で片膝をついてふんぞり返る姿を見て何も言葉が出なかった。
これまで慎重に物事を進めてきた彼女が、初めて調子を崩された瞬間だった。
「どうだ、辰宮? 俺の変装も中々だろう?」
「……大倉は?」
「奴なら数十分前に死体袋に入れられて別の場所に移送された。勿論、生きているがな」
辰宮はここに来る途中で擦れ違った担架を思い出した。目の前の目的に囚われ、周りに気を配ることを忘れていたことを今になって後悔する。
「辰宮……本当に、君が……?」
蒼斗の言葉に辰宮は何も言葉を返せずにいた。それが、彼女がこの一連の事件の犯人であるという証拠だった。
辰宮はがっくりと項垂れた。
しかし、捜査官らが取り押さえようとした時――辰宮の眼光が鋭くなった。
亜紀が離れるよう注意する間に辰宮の拳が風のように捜査官一人の顔面を殴り、膝で腹を蹴り上げた。
神業ともいえる動きに捜査官らは怯み、辰宮はその隙を突いて間を縫うようにすり抜け、窓から外へと飛び出した。
「辰宮!」
ここは七階。いくら辰宮でも無事では済まされないと背筋が凍った。
慌てて窓の外を見下ろせば、辰宮は落下途中で巨木に着地し、幹を伝って地上に降り立つとそのまま振り返ることなくその場を走り去った。
亜紀はすかさず無線から奈島の名を呼んだ。蒼斗から預けておいた馴染みの上着を受け取り、経過報告をする。
「ターゲットはここから北に向かって逃走中だ」
「了解した。……ターゲット捕捉、追跡を開始する」
「卯衣ちゃんの作戦が上手く行きましたね」
「アイツは亥角の代理とはいえウチの参謀だからな」
この辰宮捕縛計画は卯衣が考えたもの。
しかし、亥角の穴埋めとして務めているがまだ高校生の身。現場に一人で向かうなど出来ない代わりに、零号館のシステムを取り扱い、知恵を与えるAPOCの頭脳の役割を果している。
今回は安全地帯の奈島、東城に同行させている。
「俺たちも行くぞ、蒼斗」
「はい! ……何か本当に亜紀さんの相棒になったみたいだ」
「あ? 何か言ったか?」
「何でもないです!」
用済みになった病室を飛び出し、無線から入る辰宮の逃走ルートの報告を頼りに、辰宮に気付かれないようサイレンを鳴らさずに車を飛ばす。
いつもより数倍速く流れる景色を眺めながら、蒼斗は未だに現実を目の当たりにしても辰宮が黒幕だったとは信じ難かった。
そんな蒼斗に、亜紀は千葉から受け取っていた資料を膝元に投げて寄越した。読めと言っているのだろう、蒼斗はすぐに中の資料に目を通した。
「コレって、辰宮のカウンセリングの結果報告……」
「精神が正常か否かの判断レベルは五段階で決められる。一が異常なし、お前のような結果だ。そして五はレッドゾーン――所謂狂魔予備軍だ」
「予備軍って……じゃあ、辰宮は狂魔だっていうんですか!」
辰宮の資料にはレベルの段階は五――浸蝕状態が最悪の状況にある、又は既に堕ちているかもしれないと記されていた。
辰宮は幼い頃、放火事件で両親を亡くした――彼女を守る為に、建物の下敷きになって。そしてゼロ・トランスでたった一人の兄を失った。
彼女は心を病み、親戚に連れられ逃げるようにこのペンタグラムにやって来た。
その後彼女は高校を卒業すると親戚から早くに独立し、APOCの一員となった。
「辰宮がこんな過去を抱えていたなんて……。でもいいんですか、勝手に見て?」
「本来、診断結果は守秘義務で非公開にされるが、核の許可は下りている。まぁ今となっては関係ねぇだろうが」
例外として、患者が犯罪行為に及んだ場合、担当医は公開することが出来る。
「亜紀さん……僕には辰宮を斬れません」
「いいか、蒼斗。これからお前が目にするものは、全て現実だ。それを頭の中に叩きこんでおけ、絶対に逃げるな」
亜紀の横顔はいつもより険しく――でも、怒りの矛先が何処か別の場所に向けられているように見えた。
根拠はない、それでも無意識に、本能的にそう思ったのだ。
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