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 ◆



 どれくらい眠っていたのだろうか――? 


 鈴を転がすような虫の音が、泥のように眠っていた蒼斗の意識をそろそろと覚醒させた。

 額に置かれたタオルは体温ですっかり生温くなっている。それを剥がし、常温に戻る洗面器に浸ける。


「そんなに時間は経っていないはずなのに、やけに身体が軽い……」


 それだけ負担がかかっていたということか――。

 蒼斗は組織を抜けても安らぎなど微塵も得られていなかったのだと痛感し、ひとり自嘲の笑みをこぼす。


 上体を起こし辺りを見渡せば、外はもうすっかり日が傾いていた。障子は閉められ、室内は薄暗い。

 卯衣と近衛は何処にいるんだろうか、とスタンドライトを頼りに襖に向かう。


「――で、どうするんですか?」


 意見を求める卯衣の声がはっきりと襖越しに届いた。取り込み中だったかと襖にかけた手を放して様子を伺う。


「言われた通り確保はしましたけど、ちゃんと事情を説明しないと面倒くさいことになりかねないですよ」

「それはボスの一存ですから。生かすも殺すもあの人自身です」



 ――生かすも、殺すも?



「そうですけど……こんな風に野放しにしておいて平気なんですか? だってあの人、なんでしょう? 一応連絡を入れておいた方がいいんじゃ……」


 ぞわり。背筋が凍りついた。どうやら彼女らが自分を保護した理由は、人助けという単純なことではないようだった。



 このままここにいては、いずれ祥吾たちに突き出されてしまう――! 



 そう思った蒼斗は、咄嗟に周囲を確認し、部屋の片隅に近衛のらしき荷物から銃が顔を出しているのが目に留まった。

 治安維持局の方で使用していないものが鞄の中に入っていることにやや疑問を感じたが、申し訳ないと心の中で謝罪し、銃を手に取り、そのまま後ろのズボンとベルトの間に挟む。

 それからできるだけ気づかれないよう気配を殺し、姿勢を低くしながら庭から逃げ出した。もちろん靴は指先に引っ掛けている。ゆっくり履いていられるほど、蒼斗の心中は穏やかではなかった。


 起き抜けのせいで時折躓きながら、静かな暗闇の中を走り続ける。

 ある程度離れたところで蒼斗は立ち止まり、息を荒くしながら持っていた靴をアスファルトに落とし足を突っ込む。

 その間にも追っ手が来ているのではないのかという不安が拭えなかった。


「それにしても……なんだ、この空は?」


 空に昇る月を仰ぎ、首を捻った。

 黒セロハンが被ったような濁ったものではなく、優しく、それでも自己主張するように静かに放つ光は今まで見たことがなかった。

 空だけじゃない。他にも、空一面に輝く無数の小さな光、間隔をあけて立っている街頭の明かり、綺麗な家並み――ありとあらゆるものが曇りなく見えた。


 ここは本当に、オリエンスなのかと疑いたくなった。



「――っ、また……!」


 前触れもなくやってくる頭痛。こめかみに手をやり、砂嵐で埋もれた映像に意識を傾ける。



 ――最初に視えたのは、特機隊の軍服を着た男だった。


 具合が悪いのかフラフラと足どりは覚束なく、スパンコールが散らしたような空の下を歩いている。この景色は、決して初めて見たものではない――これは彼の視点なのだろうか?

 そして進む先に一般人の姿が映り、背筋が凍った。

 仕事帰りなのか買い物袋を提げた女性はこちらをみて息を呑み、悲鳴を上げて後退した。

 手元の銃の感触に心臓の鼓動が早まり、彼女の危機を悟った。


「彼女が危ない……!!」


 こんな住宅街で発砲事件など起こればきっと大変なことになる。

 蒼斗は頭を振り、ビジョンにあった目印になるものを思い返した。

 あの場所が、今現在自分が立っている通りだということは家並みから判断できる。あとは月の昇る位置と角度から、具体的な場所を特定する。


「きゃああああ!!!」


 すぐ近くで女の悲鳴が木霊した。

 弾かれるように一目散に駆け出し、銃に手をかける。相手が銃を持っていることは明確。

 もしものことがあったら、使うしかない。



「――やめろっ!!」


 突き当たりの通りを右に曲がり、銃を構える。


「た、助けて……っ!」


 案の定、女が買い物袋の中身をぶちまけ、腰を抜かして怯えきっていた。

 幸い蒼斗の方が女に近く、急いで背に庇って対峙する。男は特機隊の制服を身に纏っていた。


「桐島?」


 蒼斗の登場に男は銃口を女から外した。

 逆光で見えなかった顔がさらされ、蒼斗は目を見開いた。


「副島、君……?」



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