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「来たか」


 書類と睨めっこをしていた祥吾は顔を上げ、手にしていたペンを置く。

向かいのイスに座るよう促し、後ろに設置してあるコーヒーメーカーに手を伸ばす。


「近衛に迎えを頼んでおいたが、彼女には会えたか?」

「うん、さっき一緒にいた。ありがとう、わざわざ彼女に案内させてくれて」

「気にするな。秘書課でお前と一番親しくて、尚且つ今回の一件に左右されていないのは彼女だけだったからな」


 近衛以外の秘書課の人間だったら、きっと心無い暴言を吐きかけられていたことだろう。それを考慮しての祥吾の判断に、蒼斗は感謝で心が苦しくなった。

 コーヒーを受け取り、砂糖とミルクをたっぷり入れて胃に一口分おさめる。やはり隊長だけあって、用意された豆は上等のものだ。美味い。毎日飲んでいるインスタントコーヒーなんて目じゃない。

 本来であれば正規の取り調べを行わなければならないが、事情が事情がなだけあり、コーヒーを飲みながら蒼斗の聴取は行われ、思いの外早く終わった。


「なぁ蒼斗」


  まとめた書類をファイルに挟みながら、祥吾はそう口を開いた。


「家に戻ってくる気はないのか?」

「……こんなことになって、義父さんたちに合わせる顔がない」

「お前がどれだけ努力してきたかは、俺たちが一番よく知っている。だからそこまで気にする必要はないんだぞ」

「それでも、隊長として命令に背いたことに変わりはない。そもそも、何処の誰かも分からない拾われ者が人の上に立つこと自体、おかしかったのかもしれない」

「……記憶が未だに戻らないことを気にしているのか?」


 孤児となった蒼斗は桐島家に引き取られた。

 それから同僚たちとの共同生活や訓練を繰り返すうちに、自分の中の景色が新しい生活で彩られるどころか、むしろ色褪せていく違和感を抱いた。

 蒼斗は自分の存在について疑問を抱き始めた。

 治安維持局の情報機関を駆使しても、『蒼斗』という名の男に関する情報は手掛かり一切見つからなかった。

 何のデータも見つからず、まるで世界に存在していないような……そんな不安感が蒼斗の胸中を占めた。


 ――僕は一体、誰なのだろう。


「おい、元気出せって。記憶のこと気にしているんだろうけどよ、そんなの何かの拍子でコロッと思い出すかもしれないだろ?」


 十年も一緒に暮らしていせいか、蒼斗の考えていることが分かったらしい。祥吾は下がった肩を大きな手で叩いた。


「それに、俺たちがいるから大丈夫だ。お前は、ちゃんと存在している」

「……あぁ。そう、だな」

「そういえば蒼斗、お前がいつでも帰ってきていいように部屋を掃除していたらこんなものを見つけたぞ」

「これは……?」


 手をポンと叩き、祥吾がデスクの引き出しから取り出して見せたのは、一冊の本だった。

 本のタイトルは『忘却の国』。



【忘却の彼方】

 彼の国では独裁体制の政治が行われていた。

 日常茶飯事となった人種差別、迫害行為。逆らえば末路は死という絶対的な力の前に抗うことも出来ず、多くの民は悲しみ怯え、時に怒り震える。時には己の無力さに涙した。

 ――そんな時、一世一代の巨大な反乱が起きた。

 健やかな生活のために人々はたった一人の先導者の元に集まった。

 後世のために多くの民が傷つき血を流し、息絶えていった末――、ついに何年も続いていた独裁体制は崩れた。


 国は二つに割れた。

 誕生したのは、差別のない自分たちが未来を決定することが出来る平穏で、新たな民主政治体制がしかれた国。

 平和に傾きつつある中で、彼の国の残骸ともいえる国は、次第に人々から……世界から忘れ去られた。

 その時を生きてきた人々は後世にその存在を伝えなかった。

 そしていつしか――彼の国は忘却の国となった。



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