FILE1 死を視る青年



 真っ赤な世界に取り囲まれた。

 肌は焼けるような熱さで痛み、全身に波紋のように広がる。息をするたび鼻腔から入り込んで肺に充満する火薬と血肉が燃える臭いと、視界に掠る――目を剥き、身体から血を噴き出し絶命する肉の塊が胃の内容物を込み上げさせ、不快だった。


 そんな眩暈にも似たむせ返る悪臭の中でただ立ち尽くしていた。地面に根付いたように指一本も動かすことが出来なかった。


「こんな……っ、こんなはずでは……」


 パチパチと小気味のいい音を立てて灰となって朽ちていく建物。

 ただ呆然とその音を聞き流し、光を失った視線を宙に漂わせていると、鼓膜が息を潜めた浅い呼吸を捉えた。

 勿論その呼吸は自分のものではない。同時に両肩を掴まれ、身体が条件反射で強張る。爪が食い込んでピリリと痛む。


「いいか、お前だけは……お前だけは、せめて……っ」


 ――男の声がした。


 焦燥に満ち、恐怖が見え隠れした震えた声だった。顔はよく分からない。まるで霧がかったようにそこだけが見えなかった。

 けれど男がどんな状況下にあるのかは、その声と肩に込められる握力だけで十分把握できた。

 こっちを見ろと言わんばかりに男の大きな手が両頬を掴んだ。少し、痛い。

 頬にざらつきと生温い濡れた感触。それが彼の血だと考える間もなく、掠れた声に耳を傾けた。


「忘れろ、忘れるんだ――何もかも」


 脳に植え付けるかのように、何度も何度もその言葉を紡ぐ。

 口を開こうとした刹那、大きな爆発が近くで起こった。

 その際、吹き荒れて広がる紅蓮の炎の明るさで見えた瞳に息を呑んだ。


 それはまるで――




 ◆




 ――バタン!


 ドアが勢い良く閉じられる重々しい音に、意識を引き戻された。

 跳ねるように目を覚ます。

 窓枠に身を預けながらそっと伺うように音の出所を辿れば、開きっぱなしだったドアが閉まっていた。


「……風、か」


 ――どうやら居眠りをしてしまっていたようだ。


 傍らには空になったスナック菓子の袋と大きめのマグカップ――意識が遠くなる以前のまま。


 桐島蒼斗は空っぽの人間だった。

 いや、厳密には、何もないただの人の形をした一つのにすぎなかった。

 息を吸い、身体中の細胞が目にも留まらぬ速さで酸素運動を起こし、二酸化炭素を吐き出す。そこに思考は微塵も存在せず、何となく在った。

 やりたいことも、なりたい夢も、生きる活力を与えるようなものもなく、置物のように狭いアパートの閑散とした一室の窓辺に腰掛けていた。


 人は蒼斗を『負け犬』と嗤った。

 されど蒼斗本人からすれば、自分の現状を少しでも都合の良いように解釈するための、下らない人間の、実に滑稽な見栄張りにしか見えなかった。

 加えて、自分のことをまともに知らない人間にどうこう突かれようが、気にする要素は微塵も感じられなかった。



 黒いセロファンが一面に張り巡らされたような薄暗い空は、正直面白みのあるものではなかった。

 濁った青、黒染みた赤――そして、全てを飲み込んでしまいそうな深い闇。

 一日、二十四時間中、蒼斗は世界の背景の一部となって存在していた。


「……腹、減ったな」



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