第7話

「ぐっぜぇえ……」


アルカイオス港付近の廃れた水路に侵入した義眼の男は、生暖かいカビやコケの織りなす磯臭い風のお迎えに堪らず鼻をつまむ。

背後から微かな線状になって差し込む夕陽の明かりを横目に、今からでも引き返そうか、と踏み出した一歩に躊躇いが出始めていた。


「(本当にクレアシオンに繋がってんかココ。放水路だって聞いてたけど)」


頭部に取り付けた照明器具で、コケに支配された景色を延々と見せつけられると、自然と表情にも沈鬱さが増してきてしまう。


「(うっわ……虫か? アレだよな絶対)」


薄茶色の羽根をバタつかせている気味の悪い生物を発見し、身の毛がよだつ。

だが、冒険家たるもの、遺産を見ずして逃げ出すわけにはいかない。

決心すると深いことは考えず、暗闇の先へと進もう忍び足で歩きだす。


が、まるで狙いすましていたかのように横切る義眼の男の頬目掛け、バタバタと羽音を立てながら虫が飛翔する。


「ッうぉおお!」


半狂乱で両腕を振り回しながら悲鳴を上げ、ひたすら目的地の見えないトンネルの奥へと走り去っていった。


§


「いらっしゃいませお客様、どの女の子になさいますか?」


「そうですね」


パープルのネオンライトに染まる一室にて待機中のところ、ボーイが愛想良く柔和な笑顔を向けて話しかけてくる。


「アルテさんは、掲示板にいないんですか」


『賢者のひととき』、と可愛らしい丸文字で綴られた店名の下に、目の周りを覆う蝶々の仮面をつけた下着女性の全身絵がたんまりと貼られた掲示板がある。

タチバナは行儀よく上から順番に視線を配らせたのち、ボーイに尋ねてみると、好き者を見るような眼差しに変わり、ニヤリとタチバナにいやらしく微笑んだ。


「……かしこまりました! 大賢者アルテちゃんですね? 出勤してますよ! 三番の個室へどうぞっハイどうぞっ」


「分かりました」


§


「ーーあ、すごくお綺麗ですね……失礼ですけど、殿方ではないのかと」


「ふふ、貴女こそ。情報にそぐわぬ容姿端麗な御方です……わざわざ足を運んできた甲斐がありましたよ」


極限まで細めたアルテの、艶かしい純白の下着を舐め回すように眺めた後、含み笑いをしたまま四畳半部屋隅の壁フックに灰色のスーツを掛ける。


「(あ……)」


服の上からでも分かる、くびれたウェストと引き締まったヒップには色気を感じさせられ、アルテはついうっとりと、その妖艶で目を引く美しい身体に見惚れてしまう。


「それにしても驚きました。神聖娼婦の習慣は続いてたんですね」


スーツズボンから一枚のコインを取り出して、アルテの足元目掛け親指でコインを弾く。


「……え?」


乾いた金属音にはっとした顏で我に返ったアルテは、自身の爪先に視線を落とす。


「ディアナさん、ソレが貴女の望むものなんですか?」


唐突なタチバナの指摘に身体をびくん、と跳ねらせた。


「いきなり何をおっしゃっているのか……」


か細い声で呟きコインを拾い上げると、Gと彫られた平たい金貨を見つめて言葉を失ってしまう。


「こうして、毎晩ひっきりなしにやってくる下衆から得たものに、貴女が望んでいるものなんて何一つ無かったでしょう?」


「私は……」


気の毒な様子に見兼ねてアルテの側に寄り、肩を優しく掴んで、右手をアルテの小さな顎にあてがい、そっと引き上げる。

仮面から覗かせる、澄み切った紺碧の瞳の最奥をじっと凝視する。


「何を……」


「ーー神官なんて、私の望んだことじゃない。こんな、穢らわしい」


台詞をそのまま読み上げたような言葉に、アルテは動揺して瞳孔が広がる。


「やめて」


「自由が欲しい。普通の女の子として生きたかった。『誇り』なんて、穢れる私から目を逸らし……」


「ーーやめてッ!」


涙を浮かべた瞳を閉じ、喋り続けるタチバナを両手で突き飛ばすと、その場に頭を抱えてしゃがみ込む。

衝撃でつけていたアルテの仮面が外れ、隠していた素顔が露わになった。


「薄汚い風習なんて、よくある話です。秘密裏にしてきたんでしょう。おおかた街の邪気を抑える為、または月夜の下で精神を高める……なんて」


ネクタイを緩ませてから背後を向くと、タチバナは掛けていたスーツポケットからハンカチと一枚の紙を取り出し、嗚咽を漏らしているディアナの前にそっと置いて、耳元で囁く。


「取引しませんか……?」


「……」


「近々ヴィエルジュへ視察に伺いたいのです」


薄っぺらい紙を手に取り見てみると、ディアナ自身が店に入る瞬間の場面を写し取った、一枚の『絵』が目に入る。

本物に違わぬその絵に、真実が浮き彫りにされてしまう。


「こ、これは……機械都市の……」


「ーーモナンさん……でしたよね? 彼の許可も得たいので、都合の良い時間帯を聞かせて下さい」


俯いたまま反応を見せなかったディアナが、モナンの名前を出した途端に血相を変えて平手打ちをする。


「断ればソレを……公開するのでしょう」


憤然とした面持ちで、キッと赤く泣き腫らした眼で睨みつける。


「そうなります。ただ、協力して頂けるのであれば、貴女を鳥籠から解放して差し上げますよ」


叩かれた頬をさすりながら、約束は守る、とディアナに誓言する。


「……」


口をつぐみ、黙りこくっているディアナの背後に回り込んで、か弱い小さな背中を優しく抱き締め身体を擦り合わせる。


「いつ頃が都合宜しいのでしょうか? ふふふ」


心を洗い流す甘美な呟きが、ディアナの精神をゆっくりと溶かしていく。


§


神殿のぽっかりと抜け落ちた天井の穴から、柔らかな月明かりが入り込み、祭壇上の溢れ出す噴水から階段をつたい、流れている海水をやんわりと照らしていて、神殿内を幻想的な景色で魅力的に引き立てている。


「(ディアナ……)」


天井から覗かせるささやかな月夜を見上げてディアナの帰りを待つモナンは、不穏な空気にざわざわと胸騒ぎを感じていた。


「(……ん?)」


噴水以外の雑音が入らない、粛然たる空間に響く、悲痛な男の叫び声を耳にしたモナンは、違和感の出処である祭壇へ耳を傾ける。


「ーーあばだばあッ」


「な?! 何だ!?」


突如祭壇から勢い良く噴き出してきた男が、口から海水を吐き出しつつ、階段をずり落ちてくる。

間抜けな様を目にしたモナンは、咄嗟に拳を構えて臨戦態勢に入った。

やがて男が大理石の床に腹這いになって、浅い水面にぶくぶく泡を立てている。

男の身につけているポーチからは小さな玉が飛び出してしまっており、辺りをひっ散らかしている。


「(身なりからして……他所者か。)」


盗賊にしてはあまりにらしくない、薄茶の布地の服と、日焼けしていない白い肌。観光気分に浮かれた他所者が迷い込んだのだとモナンは推測する。


「げほッ! ごほ! 」


咄嗟に上半身を起こし、しきりに胸を叩いてむせびかえっている男に声を張り上げ怒声を浴びせる。


「おい!」


「あ、ども……けほッ! こんちわ」


仏頂面になっているモナンに気付き、申し訳なさそうに引き攣った笑顔を向け、挨拶をする。

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