第6話
『宿舎の周りに張られた、魔法障壁を通る為のパスカードです。ご武運を』
スーツの懐から紅の薄っぺらな厚手の紙片を取り出したソレを、冷や汗でずぶ濡れになった手でタチバナから受け取る小柄の兵士。
顔色は青白くなり身震いは止まりそうにもなく、彼のひくつかせた表情は次第に歪み崩れていった。
『今夜から楽しみだなっ ぐふ、ぐふ、ぐふ』
吸い寄せられそうなタチバナの妖しい瞳と、いかがわしい想像でぶくぶくの腹部を膨らませ、ぼてった唇から涎を撒き散らして大笑いしている巨漢の兵士の声が彼の頭の中に染み込んでいく。
「(ーー早くしないと日が暮れちまう)」
虫の羽音まで聞こえてきそうな程に静寂と化した女性宿舎内。
床の軋みすら立てぬよう意識を研ぎ澄まし、一歩、また一歩とすり足でミネルヴァの部屋に向かって歩を進める。
人気が無い為か、はたまた聖域に足を踏み入れる経験がないからか、小柄の兵士は自身の宿舎よりも、果てしなく広く、そして距離があるように思えた。
「(……暑っ)」
今の時間帯は宿舎の寮母がいるだけで、他の女性兵士や騎士達は城内や街内の見回りに出払っている。
質素倹約。宿舎内は冷気の風も吹いてはおらず、窓から差し込む橙色がかった直射日光がジリジリと床に照りつけ、気温がみるみる上昇する中、淡いシャンプーの薫りと焦げくさい臭いが混在している宿舎の廊下を、情けなく腰を引いて歩いていく。
「(ここか)」
ミネルヴァと力強いフォントで書かれたドアプレートをまじまじと見つめてドアノブに手を掛ける。
万が一に見つかる可能性に恐怖し、デッサンの狂った引き攣り顏で扉を開けた。
「(助かった……)」
部屋の中は綺麗に整理整頓され、尚且つ必要最小限に抑えられた家具の配置にミネルヴァらしさを垣間見る。
「(クソ、こんな目にあったんだ。せめて何か見返りが欲しい……)」
理不尽なお使いに腹ただしくなりながらも、金が貰えた以上、仕事はこなさなくてはならない。
四角い窓の脇に置かれたベッド横にある、一人分の幅くらいのクローゼットを横目に握りしめていた眼球のような物体を真上に投げ捨て、天井にぶつけると平たく潰れて同化するように溶けていってしまった。
§
「俺の義眼ちゃん返せ!暗黒三姉妹め」
「やだよ」「やだね」「返さない!」
端末から外された義眼をキャッチボールしてはしゃぐ三姉妹に近寄って取り返そうとするも、巧みな連携プレーによって良いように遊ばれてしまっている。
「上等だ……トレジャーハンターから物を盗むたぁ、分かってんだろうな……」
ぜぇぜぇと肩で息をしながらも減らず口を捻り出し、腰に巻いたポーチを開いてビー玉程の小さな球体を摘み三姉妹目掛けて転がしていく。
「(喰らいやがれ、魔法爆弾っ)」
畳の上を滑らかに転がる小さな玉を三姉妹の一人が踏んだ途端、足元の畳が泥のようにぬかるみが増し、近くにいた二人までぬかるみが広がると、みるみる内に膝下まで沈んでいって身動きが出来なくなってしまう。
義眼の男はぬかるみの範囲外にて、少女が手に持つ義眼を余裕綽々たる態度で取り上げる。
「あ、ズルいよ」「ズルい」「クールだ!」
二人揃って不満気な表情で頬を膨らませ、したり顏で右眼を嵌めている義眼の男にブーイングする。
「へへーん! どんなもんだいっ」
「大問題ヨ!」
いきなり背後からワングに勢い良く蹴飛ばされ、ぬかるむ畳にべちゃりと音立て倒されてしまう。
「あはは」「ふふふ」「あーあ」
三姉妹共に笑窪を浮かべた、愛々しい笑顔で義眼の男を指差し高笑いしている。
「日も落ちるシ、早くワタシのドウグ持ったら港へ行くヨロシ!」
「へい……」
口に入った畳をぺっぺっと吐き出し、弱々しい声で自分の体を起こすよう、ワングに助けを懇願する。
§
「ミネルヴァの武器はレイピアでしたね。モナン」
「承知」
ソファの下に手を伸ばすと、細長い強固な金属ケースを取り出しテーブルに置く。横に掘られた小さな窪みにモナンの親指を嵌めて開錠し、ミネルヴァに中身を見せる。
「こちらを貴女に差し上げます」
「これは……」
薄っすらと輝く美しい翡翠色のレイピアに息を呑み、ミネルヴァは思わず手に取り恍惚とした表情で見つめる。
「『コキュートス』刺突すればアナタの精神に呼応して、氷結魔法がほとばしります」
「……素晴らしい」
「鞘もお忘れなく」
コキュートス専用の瑠璃色に塗り潰した金属鞘をディアナより貰い受ける。
「有難く頂戴致します」
深々と頭を下げてから、コキュートスを受け取った鞘に納め、黒革の帯剣用ベルトを腰に巻きつける。
「重ね重ね忠告します。コキュートスの魔力はミネルヴァ、貴女の精神エネルギーを媒体にしています。くれぐれも過度な使用は控えるように」
「留意致します」
「……では、私は用事がありますのでこれにて」
長身の古びた時計をちらりと横目に、そそくさとソファから立ち上がって部屋を退室してしまうディアナ。
「……」
「……」
取り残された二人の間にどうにも気まずい空気が流れている。沈黙の中で響いてくるのは古時計が刻む一定のリズムだけ。
「……モナン殿」
15分毎の時報がミネルヴァに口を開かせるきっかけとなった。
「モナンでいい。何を聞きたいのかは大体見当がつく。が、深夜過ぎまでディアナは戻らんとだけしか分からん。教会に立ち寄っているとは聞いているが……他言は無用だぞ」
ミネルヴァに警告すると、彼はもうそれ以上は深く語らず、溜息ついてから瞳を閉じる。
「どこにでも話せない事情はある、か。呼び止める間も無く出て行かれたので……」
黒焦げた頭を自身で撫でながら気まずそうにしているモナンに、会話を引き延ばす行為は互いにやめておくべきだと察して口をつぐむ。
「……ミネルヴァ、お前も今日は早く帰れ。深夜の見張りは俺だけで充分だ。初日からずっと泊まり込みは辛かろう」
パラディンに就いて間もないミネルヴァに気を遣い、手で彼女を払いながら見せ帰るように促すが、わずかに口元を緩めながらすっと右手を左右に振り丁重に断られる。
「大丈夫です。お二人の負担を無くす為にも仕事を覚えておきたい」
「……無理はするなよ。一通りの設備は他の部屋に備わっているから、好きに使え。疲れたらすぐに帰るんだぞ?」
「は、心遣い感謝致します」
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