第5話

扉一枚の隔たりを越えた先に待つのは、静寂に包まれた安らかな空間であった。

予想していたよりも何の変哲もない部屋ではあったが、ミネルヴァにとって海水に浸かっている部屋の外よりは、比較的良い気分に浸れる。


「お水しかありませんが、いかがです?」


ディアナが気を遣ってくれたのか、モナンの持っているお盆から、【ヴィエルジュの水】とチープなラベルが貼られたプラスチックの容器や、作りたてのかき氷がてんこ盛りにされた発泡容器を、テーブルに三人分並べていく。


「私も手伝……」


その様子にミネルヴァも慌て、お盆を受け取ろうとモナンに近寄るが、「無用だ」と突っぱねられてしまう。


「今日はミネルヴァが主役ですから、ね? モナン」


絶やすことのない笑顔でモナンを見つめ、互いを理解しあっているのだと、微笑ましい光景を目にした。


「そう言うことだ。変に気を回さなくても良い。あとで守衛を通して、何か気の利いた物も頼んでおく」


「……ありがとうございます」


ディアナとモナンが向かい側のソファに腰を下ろしたのを確認した後、ミネルヴァも席に着いた。


「祭壇から溢れる海水を、丹念に濾過<ろか>させたモノです。召し上がれ」


「いただきます」


プラスチック容器のキャップに口をつけて喉を潤す。


「……」


「どう?」


「え、ええ。中々……」


一般の水と大差ない味に、飲み終わった後に陳腐は答えしか返せなかった。

視線をそらすミネルヴァを観察し終わると、ほっと胸を撫で下ろしたディアナ。


「よかった……長い月日をかけたものだから、自信はあったの」


「そうでしたか」


何か一つ、気の利いた言葉を返せないものだろうか、と上手く当てはまる表現を探していると、そんなそわそわしているミネルヴァを見兼ねてか、モナンとディアナの表情に笑みが零れた。


「ふふっ」「ははは」


「……どうしました?」


「いえ、不快にさせてゴメンなさい。滅多に同い年の女性とお話しする機会が無いものだから、嬉しくて嬉しくて……普通の水ですから安心して下さい」


「すまんな。昔からこういう奴なんだ」


白光りするモナンの歯をひけらかされ、唖然とするミネルヴァ。

武神と恐れられたとして面接でも一度対面していたが、いままでにない陽気な笑顔だった。


「いえ、お陰で気分が落ち着きました。常に身を強張らせていては、いざ、という時行動に移せません。お気遣いありがとうございます」


「……真面目なお方なんですね」


「明後日の方向に構えるなよ、ミネルヴァ」


「……」


善も悪も感じない二人の雰囲気に、不安な気持ちを密かに抱いていた。

想像していたよりも、ずっと軽い空気。

しかし、想定内だった。

国に干渉されずに『遺産』を護るもの達は、大賢者の意思に導かれて集った選士。ただ厳かな振る舞いをすることだけが、パラディンではない。

そう自分勝手に二人のイタズラを、良き方へ解釈<かいしゃく>し一人で納得する。


「では、お巫山戯<ふざけ>はやめて本題に……モナン」


ディアナの物静かな目線に頷くモナン。


「そうだな……ミネルヴァよ、お前に一つだけ理解してほしい事がある」


「は」


「実はだな、お前が以前から遺産が如何なるものか興味を示していたところ、言いにくいのだが……」


先程までの柔らかい雰囲気が打って変わり、ディアナとモナンの表情に真剣味が増して、緊張感ある雰囲気になっていくのを肌で感じる。


「ーー我々は、遺産を目にしたことがない」


「……え?」


思わず素の反応で聞き返すミネルヴァだが、瞳を閉じて腕を組むだけでモナンは口を閉ざしてしまう。


護る形あってこそ、パラディンや神官の生業が成り立ち、存分に力を発揮出来るもの。生まれてこのかた、蜃気楼<しんきろう>の如く実体のない対象を護ることなど、ミネルヴァには考えられなかった。


にわかに信じ難い、という表情を浮かべてしまうと、ディアナが付け足すように語る。


「母からは、あの扉は天の国へ繋がっている、と聞いたことがあるだけなのです……」


「天の国……」


「私達の魂は『遺産』によって導かれ、空へと還る。その果てに行き着く常世<とこよ>の国。俗世では【上】と称して様々な噂を立てているようですが……」


噂。

またもや曖昧<あいまい>な響きであった。

申し訳なさそうに喋るディアナに内心動揺が隠せず、言葉に詰まる。


「……失礼を承知で……その、遺産について、御二方はどこまで……?」


気まずい空気を割いて、途切れ途切れな口調でミネルヴァは話を切り出すと、自信がなさそうに眉をひそめるディアナ。


「この地にある『遺産』については、その程度の知識しかありません。他の遺産では……西の地方にある聖なる山の頂にて、鐘を鳴らした者がおり……その際、空を覆うような巨大な回転翼が現れた、という『噂』を聞いただけ……」


「……」


全くもって想像の域を超えてしまっている話であり、強調されている噂という前提もあって、彼女の霧がかった話がミネルヴァの頭の中に残らない。


「そもそも考えが及ばない領域だ。私やディアナも試すことは試してみたが、彼処の部屋を開けることは叶わなかった。それならばそれでも構わない、と開き直るしかなかった。むしろ『遺産』がそこにあることを裏付けていたからな」


「そう、私達は先代より受け継がれたこの使命を尊重し、ただ全うしているだけ」


「使命……」


紅く濁ったミネルヴァの瞳に、光が宿る。

己の使命はあくまで護ること。それ以上もそれ以下もない。

その対象が皆無であろうと、あの扉の先にある聖地を護ることには意義がある。


「だがな、我々が守護しているのは、脈々と受け継がれてきた意志であり、『誇り』なんだ。それだけは理解してもらいたいのだ」


「……私達に幻滅しましたか?」


俯き押し黙るミネルヴァに、罪悪感を抱いたディアナが恐る恐る尋ねると、弱々しくかぶりを振って返事を返す。


「いえ、決して。お恥ずかしい。私は観光気分でした。私もパラディンとして、『遺産』を、お二人の『誇り』を護り抜いてみせます」


凛々しい顔つきで見上げ、胸中を素直に打ち明けるとディアナとモナンの硬い表情に綻びが出来た。


§


「一点の陽光が差す先に置かれた、水受けに溜まる生命回帰の水。それがヴィエルジュ神殿に眠る、遺産の『一つ』だ」


ミシムナ城の最上階にある、寝室のベッドに寝転がって頬杖をつくタチバナに、物語を聞かせるように遺産について喋り聞かせた。


熱気が篭る蒸し暑さに、アルカイオスは気怠くベッドから立ち上がって、丸みのある木製のアーチ型窓に近寄り、開け放つ。


ーー間髪入れずに入り込む高所の風は、冷んやりとしていて汗も引いていく。


「ふふ、随分とお詳しいですね? 神官すら遺産については定かでないハズなのに」


「友が教えてくれた。余すことなく、な」


弧を描く王国の活気付いた街並みや、果てなく広がる空と、それを映し出したような海に浮かぶ島々を遠目に眺める。


「……幸か不幸か、奴の妻は魔の血を継いでいた。忌まわしき血がもたらす魔眼の力には、奴らにしか見えない『何か』があるらしい」


「『象形文字』のことですか……ふふっ、確かに神経が集中する箇所には、必然的に精神力も集まりますからね……」


タチバナは包まっていた布団から抜け出し、ベッド横に置いてあるポールスタンドにかけていた灰色のスーツを手にとる。


「問題はいかにして神殿に入るか、だ。ディアナめ。母親以上にしきたりの奴隷とは恐れ入った」


早々に上手く事は運ばない。

焦燥に駆られた表情で嘆きながら振り返ると、アルカイオスは左手奥にある戸棚に向かい、一冊の古びた手帳を取り出すと、パラパラと無造作にページをめくっていく。


「秘密を知る者は、貴方と私だけです。何も問題はありません。習わしにも穴がある。そして、遺産の眠りを覚ます鍵も、今や貴方の手中に……」


「ミネルヴァ」


似顔絵師に描いてもらった一枚の、後ろ髪が跳ねた少女のページで手を止め、生気を感じさせない瞳の部分を爪でなぞる。


「辛かったでしょうね。家族や友人を奪った、同じ魔族という血を継ぐミネルヴァさんを育てていくのは」


「ーー知った口をきくな。貴様には理解出来まい。下等な魔族に、魔族ごときに、騎士としての誇りを仕込む俺の気持ちがな!」


手帳を床に投げつけ、タチバナに怒声を浴びせながら抑えていた怒りを露わにする。


「『何故サリアじゃないんだ』『何故貴様に、貴様などに』と幾度と無く思ったことかッ!」


激情に駆られ、床に落ちている手帳を蹴飛ばし両手で顔を覆う。哀哭の声をあげてつつベッドまで向かうと、ふらついた足取りで腰を下ろす。


「扉を開く為に耐えてこられたのでしょう? 象形文字が解読出来ているのなら、彼女は成魔を迎えています。もう少しの辛抱ですよ」


アルカイオスの目の前にひざまずき、そっと膝に手を添えると、心を溶かすような甘い声色で包み込むように喋りかける。


「【上】から滴る雫が、貴方に奇跡をもたらす。その奇跡を手繰り寄せる為に私は参りました。ご安心を」


「……哀れみのつもりか?」


弱みを見せる前に目頭を拭うと、苦々しい笑みでタチバナの手を払う。


「ふふ、私は貴方の望むモノを与えているだけですよ」


「俺が慰めを求めていると?」


問いかけには答えず、無言で肩をすくませたタチバナは、窓まで後ずさりすると一礼し、そのまま飛び降りていった。

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