忌み仔の子守歌

 世界の半分、死に最も近い時間。光を紡いだ白銀の綿糸のヴェールは冷たく澄んだ水晶のような輝きを闇の中に差し込んだ。森に生きる獰猛な獣たちも息を潜ませ、月夜の住人たちが愉しげに踊り出す。木々は身を震わせて雄大に唄い、草花はその調べに合わせて優美に香り立つ。

 深い森の奥、人の穢れを知らない大地に一軒の家屋があった。外壁に這い回る蔦は小さく可憐な花を咲かせて、見る人に生命の美しさを感じさせる。周囲に植えられた樹木はたわわな果実を実らせて、味わう人に豊穣の喜びを思わせる。

人が忌み嫌う闇の世界には、人のために作られた家がひとつ建っていた。

 閉じられた木戸から漏れる暖色の光は一人の少年の為に灯されている。

蜜蝋の火に照らされる二人の影、未だあどけなさの残る少年は私の腕の中で穏やかな寝息を立てていた。きっと寝しなに語ったシルフィーに春の高原へと導かれているのだろう。ペガススを駆って風を手繰る姿は見まごう事なき一端の勇者で、彼が迎える姫君はきっと月華にも愛されるヒトなのだろう。

 私の頭にはヒトにはない角があり、手足は獣も恐れる鋭い爪がある。そっと爪先で少年の頬を突いてみるとむず痒そうに私の胸に顔を擦り寄せた。所詮はヒトに似せた身体。彼の感じるものは命の温かさではない。初めは雨に打たれる姿を哀れに感じ、母親の真似事と思って飼ってやった少年だが、今ではこの身に生まれたことを口惜しく思うくらいの愛情を感じる。

 想いが溢れ、知らずに強く抱き締めてしまっていたのだろう。少年は胸元で生まれたての小鳥のように唸り出す。

「あら、ごめんなさい」

溺れる少年を解放すると彼は天を仰いで、胸を膨らませて呼吸する。顔を真っ赤にして喘ぐ姿はとても可愛らしく、彼を虐めたい私の本質とも呼べる欲望が湧き上がる。

この夢と現の狭間、淫欲に誘いかけたなら彼はどれほど淫れるのだろうか。嗜虐心が首をもたげるが、冷静になってその気持ちを嗜める。彼はヒトだけど玩具じゃない。私は妖精である前に彼のお母さん。

「良い夢見の邪魔をしてしまったかしら?」

傷付けてしまわぬように優しく髪を撫でてやる。ぼんやりと薄目で私が隣にいることを確認すると、蝋が溶け落ちていくようにように眠りへと堕ちていった。

私は彼の額に口づけをする。どうか良い夢が見れますように。



 とても良い夢を見た気がする。内容は覚えていないけど。

目覚めたのはまだ暗い時間だった。厚く天を覆う雲が星の輝きを隠し、森は一層深い闇に囚われている。寝入った時はまだ日が沈み切っていなかった。今もさほど遅い時間ではないだろう。

 彼女は名を呼べばいつもすぐに来てくれる。僕の後ろに立って脅かすように抱きしめてくる。彼女がすぐに来ないときは僕が暖炉の火を背にしている時だけ。だから今はすぐに来てくれるはずだった。

「クラオエ?」

彼女の返事はない。気配はいつも無いけれど、彼女の臭いもしなかった。

まるで初めから僕以外の誰もいなかったように、彼女は何処にもいなかった。

僕は服を着替え、外套に身を包むと外へ足を踏み出す。

死の静寂に包まれた暗い森。人に忌み嫌われ、誰一人として踏み入らず、誰一人として戻らない森。

大人は妖精の姿が見えないと言う。見えるのは転生したてで存在が霊体に近く、惑わされやすい子どもだけ。世界の純粋な姿を知る人も見えると言うけれど、それはまた別のお話し。

僕は一晩の内に大人になってしまったんだろうか。微睡の記憶の中に残る彼女の笑みは別れを知らせるものだったのだろうか。

そんな事はない。きっと彼女は夜の森に何かを探しに行ったんだろう。彼女はいつも僕を喜ばせようと素敵なものを森から拾ってきてくれる。今夜もきっとそのはずだ。彼女が何も言わずに僕を置いていくはずが無い。

 僕はそう信じ込もうと思いながらも胸の中で大きくなる不安を無視できなかった。

寝しなの、彼女の唄った物語を思い出す。探し物は世界にそよぐ風の妖精が知っている。一度家に戻ると蜘蛛の巣が被っていた真鍮のランタンと彼女の黒い羽、いざという時の為の鉄の短剣を持ち出した。そして、死よりも暗い森の中を手元の明かりを頼りに進みだした。

風のそよぐ大木はそう遠い所ではない。僕の足でも火が消える前に十分にたどり着く距離だ。しかし、月の見えない今では正確な位置が分からない。

「お困りかな。小さな人間?」

 暗闇の中でもはっきりと浮かび上がる小さな緑服の女の子。蝶のようにひらひらと僕の目先で踊り出す。シルフィーに聞こうと考えていたけど、彼女が来たなら丁度良かった。

「クラオエの居場所って分かるかな?」

「クラオエって、でっかいかぎ爪を持ってるやつ?」

彼女は手足の爪を獣のように立てて見せる。

「多分そう。目が覚めてから姿が見えなくて困ってるんだ」

紅い髪をした小さな妖精は世の理なんてあざ笑うかのように宙を舞い、ちょっと考え事をするそぶりを見せる。しかし、次の瞬間には屈託のない笑顔を僕へと向けていた。

「そんなのお安い御用だよ! ささ、はぐれない様についておいで」

闇の中を頼りない灯りと妖精の光を頼りに歩き進む。

次第に僕の周りには小さな光が集まり、クスクスと楽し気な笑い声が聞こえてきた。

「今日はみんな出てきてるんだね」

「当然だよ、小さな人間。今は月が出てないし、何より君がいるからね」

ランタンの火を消すと光が瞬く森はいつにない幻想的な美しさを誇っていた。木々は唄い花は踊り、どこからか鈴の音のような調べが聞こえてくる。僕はそれに心奪われて、胸の中にあった不安も気付けばどこかへ消え去っていた。

「私たちは人間が好き、つい悪戯したくなっちゃう。人間の中でも子どもが好き、私たちにとても近くてとても遠いから」

次第に調べは遠くなり、森を抜けてたくさんの灯火が視界に広がる。

「クラオエはもういないよ。君を捨てたから」

赤毛の妖精は突然冷たく言い放つ。びっくりして彼女の顔を見ると、相変わらず屈託のない笑顔がそこにあった。

「じょ、冗談を言わないでよ。森の外に出ちゃったみたいだけど、クラオエは何処にいるの?」

妖精は前方の光を指し示す。

「君は捨てられたんだよ、人間だから。今日まで君を可愛がってたのは君が子どもだったから。もう子どもじゃない君に用はない」

彼女が示す先にあるのは、人の住む村の光だった。

「君も分かってるんでしょ? 君は人間でアイツは妖精。家族ごっこなんてバカバカしいってさ!」

耳元で鈴の音のような笑い声がけたたましく響く。

人とは違う、忌み子。妖精の子。悪魔の子。そうして僕は森に捨てられた。

僕は人に嫌われて、僕は妖精に捨てられる。

激しい頭痛と耳鳴りの後、訪れたのは静寂だった。

背後に茂るのは妖精の住まう森。森の中で彷徨えたならいいけど、きっとすぐここに戻されてしまうんだろう。僕は絶望に押しつぶされる。あの時、一歩踏み出さなければ――――温かい家に匿われて、彼女の帰りを待っていれば良かったんだ。

 僕は彼女の羽を握りしめていた。僕に残る彼女の印、彼女の温かさ。

風が強くそよぐ。僕を温めてくれるものは何もない。彼女の温もりを思い浮かべながら自分の体を抱きしめる。

――――貴方の探し物――――――…………

耳元でそんな声が聞こえた気がした。

風が強くそよいでいる。空を見上げれば白銀の月が顔を覗き、闇夜を綺麗に照らしている。

「僕の、クラオエを探して」

彼女の欠片を手放すと、風に踊りながら夜の森の中を遠ざかっていく。

僕はそれを絶対に見失わない様に、もう決して手放さない様に懸命に追いかける。

躓いて転び、枝に引っかかれ、何度も置いていかれそうになりながらも走り続けた。

やがて、湖にたどり着く。

大木の根元に広がる碧い水面。シルフィーが踊り、草花が咲き乱れる妖精の湖。

滾々と湧き上がる水は良く澄んでいて、縁には数々の動物の足跡が残っている。死の闇の中で、ここは命の輝きが満ちていた。

僕は力の限りに彼女の名を叫ぶ。

「ここにいますよ。貴方の傍に」

僕の後ろから鋭い爪と黒羽に覆われた腕が回され、大きくて柔らかいものが押し付けられる。

「全く、心配したんですよ」

彼女の腕が僕をきつく抱き留める。その分だけ彼女の想いが強く伝わる。

「水浴びしてたみたいだけど?」

彼女の体はしっとりと濡れ、まるで死人のような冷たさだ。

「初めはただ身を清めていただけだった。でも貴方が私を探して、人里にたどり着いてどちらを選ぶのか確かめたかったの」

「僕は人間だから?」

「私は貴方のお母さんではないから」

水に濡れているからか、彼女の声には湿り気があるように感じる。だから僕は、彼女の手をほどいて向き直る。

硬質な角、尖がった耳、宝石のような瞳、肌は絹のように滑らかで、破れてしまいそうなほど柔らかい。手足は触れる人を傷つけて、獣ですらも恐れをなす。

僕は腰に差さった短剣を手に取ると月明かりに照らした。

「僕は確かに人間だよ、誰に何を言われようと。でも、僕は確かに僕で僕の帰る場所はひとつだけ」

投げた剣は森の中、闇の奥へと消えていく。

「お母さんでも妖精でもない、クラオエの元だけだよ」

僕は彼女を抱きしめる。全ての思いが伝わるように強く、強く。

そんな僕に答えるように彼女は僕が傷つかない様に優しく抱きしめる。

暗い森は僕らを祝福するように雄大に、壮麗に調べを奏でたのだった。

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