刺激的な恋愛小説 直人side②
◆
セシリア社をあとにし、俺は最寄り駅から世田谷に向かう。
世田谷には先祖代々受け継いだ実家がある。母は三年前、父は二年前に相次いで亡くなり、一人息子の俺は古い屋敷と両親の残してくれた遺産全てを相続した。
お陰で多額の相続税を支払うはめになったが、作家として未だ無収入の俺は、残った預金を切り崩し細々と生計を立てている。
世田谷駅前にあるスーパーKAISEIは、俺の家から徒歩五分。
入り口で、赤いカゴを取り店内に入る。
食事の支度は一人分だから苦ではない。剪定をしていない木の生い茂る庭の片隅に家庭菜園を作り、季節の野菜を作っているから、食費も殆どかからない。
初めて俺の作品が出版社に売れた。
まだ何も書いていないが、取り敢えず売れた。
今夜は祝杯だな。たまには牛肉でも買って、すき焼きでも作るとするか。
すき焼き用の食材と牛肉を摑みカゴに入れる。すき焼きといえば新鮮な卵だ。卵の棚に近付いて手を伸ばし、パックを取る。Lサイズにするか、Mサイズにするか若干迷う。
俺の隣で、脚立に上った女性店員が値札を貼り替えている。どうやらタイムサービスに突入したらしい。
一パック幾らになるんだ? モタモタしてないで、早く貼ってくれよ。
「お客様、あわわ、危ない!!」
「は?」
声のする方を見上げたと同時に、頭上から女が降ってきた。
黒縁眼鏡を掛け、長い髪をひとつに束ねた地味で冴えない女だ。
「きゃあー」
こともあろうに、脚立を踏み外したドジな女は卵の陳列棚に激突し、俺の頭上に卵のパック諸共落下した。パックの中の卵は割れ、床に薙ぎ倒された俺は生卵でネバネバだ。
床に這いつくばる女の顔から眼鏡が転げ落ち、束ねた髪がハラリとほどけた。
生卵を被った女。頭から黄身が垂れ下がっている。毎日スーパーで見掛ける冴えない風貌の女だったが、眼鏡を掛けていないと黒目がちの大きな瞳が際立ちまるで別人に見えた。何の変哲もない白い卵が、床に落ち木っ端みじんに割れたと同等の衝撃だ。
「お客様、申し訳ございません! 申し訳ございません!」
女は慌てて立ち上がろうとするが、生卵に足を取られ、氷上でツルツルと滑っている未熟なスケーターのようにも見える。
そうこうしているうちに、周囲に人が集まってくる。俺が最も苦手とする好奇の眼差し。これはドッキリカメラでも、バラエティ番組の収録でもない。
「きゃっ」
ぬるっとした感触。不意に女と俺の手が触れる。
「御園さん、何やってるんですか! お客様、申し訳ございません。クリーニング代をお支払い致します。事務室までお越し下さい」
「問題ない」
俺は滑らないように足を踏ん張り立ち上がる。
「お客様! 申し訳ございません。後日お詫びに伺います。お名前を……」
「作家の只野だ」
「作家……?」
「作家だ。俺の名は只野直人、失礼」
彼女は俺の背後で男性店員に怒鳴られている。卵を頭から被り、顔を真っ赤にして、まるで卵かけご飯のようだ。
「……くっ……くく」
思わず声が漏れた。愉快だ。
この世に、あんなドジで冴えない女が存在するとは。
彼女に恋人はいるのだろうか?
彼女はどんな風に男と恋をするのだろう?
彼女はどんな顔で男に体を許す?
どんな顔で男に抱かれる?
作家としての興味。これは欲望ではない。
『プロローグはインパクトのある刺激的なものにしないと』
小生意気な編集者の言葉を思い出す。
刺激的か……。
ストーリーが浮かばないなら、疑似恋愛をすればいい。そうだ、その手があった。
タイトル『生卵の女』いや違うな。『卵オンナ』『ネバネバのオンナ』、悪くない。だが、果たして恋愛小説に相応しいタイトルだろうか?
俺は卵のパックをひとつカゴに入れ、赤ワインを摑みレジで精算を済ませた。レジの店員と客が俺を異様な眼差しで見ている。
「あの……お客様。失礼ですが、頭に卵の殻が……」
「俺は作家の只野だ。問題ない」
俺はたった今、卵から頭を突き出した雛のように、恋愛小説作家として生まれ変わった。
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