第2話

 窮屈そうに揉み合う花の悲鳴に、ニナは顔をあげた。


「あら、やっぱりアユムね」


 難しい顔をして、くちをへの字に曲げていたニナは、大きな生き物の羽根をはたはたとゆらしながらふり向いた。


「花の匂いで判るわ。あんたの作る匂い袋は、すぐになくなってしまうのよ。今度は何が欲しいの?」


 耳の傍で小さな袋をゆらしていたアユムは、板切れを接ぎ合わせただけの粗末なカウンターから頭だけを出して、ようやく覗けるニナの後ろを指差して言った。


「靴」


 首をくいっと前に出したニナは、カウンター越しにアユムの足元をちらりと覗いた。つま先立ちをする必要がないくらい、ひょろりと痩せて背が高いニナは、その昔、裕福なお嬢さんたちが身に着ける物をまとい、立派なお屋敷でお披露目する仕事をしていたのだと事あるごとに自慢している。


「匂い袋ひとつと靴一足じゃあ、割に合わないわねえ」


 足首を紐で結わえただけの、靴とも呼べない海の生き物の表皮でくるまれた足から、十本の指が露わになっているのを見たニナは、少々意地悪そうに言う。


「アユムったら……しばらく見ないと思ったら、また海に行ったのね」


 小さなアユムは、肩を大袈裟に上下して溜め息をついたニナの言葉を無視し、指差した腕を更に思い切り伸ばした。


「あれが、いいの」


「ああ、あれね……ちょっと重いかもよ」


 ニナは示された靴に一度も眼を向けず、カウンターに頬杖をつくと、問いかけるようにアユムの瞳を見つめた。言われたことを理解しているのか、いないのか、アユムは大きな眼でニナを見返している。しばらく頬杖をついたまま、片手の羽根でカウンターの埃を掃いていたニナだったが、まばたきもせずに瞳を逸らさないアユムに根負けしたように、後ろの棚へと首をひねった。


 カウンターの奥には、ブロック片に板を渡しただけの棚が作られていた。並んでいるのは、生き物の骨やごわごわとした毛皮ばかり。その中でアユムが指差していたのは、歪な金属の塊が並ぶ、棚の一番下だった。ぴかぴか光る金属製の長い靴を片方ずつ両手で抱え、ニナはカウンターに置いた。ぎしり、と薄い板のたわむ音がする。アユムがすぐに手を伸ばすけれど、靴は板に吸い付いたように動かない。ひとつずつ抱きかかえてカウンターからずり落とすと、もろくなった地面がひび割れた。


 しゃがみ込み足首の紐を解き、ところどころ鱗の残る表皮を剥ぎ取ったアユムは、互い違いの方向を向いて地面に刺さる長く重い靴に、小さな足を突っ込んでみる。地面から生えたようながっしり動かない靴に、ゆらゆらと平衡感覚を失い倒れ込む。両手をついて前屈をしたアユムの、ねじれた膝が今にも折れそうだ。バランスをとりながら起き上がり、なんとか足を動かそうとするアユムを、ニナは馬鹿にした眼つきで見下ろした。


「もう、よしなさいよ。海に行くのは」


「……だ……だって……あそこにしか、咲いていないの」


 腰をふりながら膝を擦り合わせるアユムに、ニナは呆れて首をふった。とんとんとカウンターの上で遊んでいた指が、放られた羽根に伸びると、乱暴に棚の埃を掃う。ぱたぱたとわざとらしく音をたてる羽根ばたきが、棚の一番上で止まったとき、ニナの手はやわらかい毛皮に触れた。その手を一度は引っ込めたニナだったが、思い切ったように頷くと毛皮を掴んだ。


「約束よ。行かないでね」


 言ったところでアユムが聞きやしないことは重々承知している。どうせ、この娘は海に行くのだ。あの、忌々しいほど透明で、この世の全てを呑み込む海に……。


 いつまでも重い靴と格闘するアユムの眼の前に、細長い袋状に縫い合わされた毛皮がぶらさがっていた。カウンター越しに、ニナが掴んだ靴をゆすっている。アユムは釣られて顎を持ち上げると、


「匂い袋。今度は、もっとたくさん作ってくる」


 受け取ったやわらかく軽い毛皮を履いた。太ももの上まで引っ張り上げ、ずり落ちないように膝の前で紐を結わえる。


「いいわよ、別に」


 哀れむようにニナは言った。


 その毛皮だって、あんたが拾ってきた物なのに……


「ありがとう。我楽多屋のニナ」


 満足した顔で頷くニナの前で、アユムはぴょんぴょんと跳ねまわり、新しい靴の感触を確かめていたけれど、ふと何かに気づいたようにぴたりと動くのをやめた。ニナは空を見上げた。

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