第五十二話 エンプロイズ

 翌日、日曜日。

 柚田小秋は、松久の家のインターホンを鳴らした。「はい」という、愛咲の声が聞こえる。

「私よ。愛咲ちゃん、あなたに伝えたいことがあるの。開けてちょうだい」

「伝えたいこと? 何ですか?」

「詳しくは、中で話すわ」

「……わかりました」

 そう返事が来てから、しばらくして、扉が開いた。愛咲の姿が目に飛び込む。小秋は玄関に入ると、靴を脱ぎ、廊下に上がった。彼女に話しかける。

「今、松久君は家にいないのよね?」

「ええ、ワイニング・ファンタジーのイベントに参加するとかで……」

「都合がいいわ。まあ、でも、念のため、愛咲ちゃんの部屋に行きましょう。そこで話をするわ」

「わかりました」

 昨日のギャンブルの最中、松久は雷神百貨店のガラス張りの壁を割り、グランドピアノを落として変電所を破壊、辺り一帯を停電させ、終いには昇降籠を落下させた。愛咲も、非常用エレベーターの扉の窓や、天井の入り口を壊した。普通なら、大騒ぎになるところだ。

 しかし、願がそれらを揉み消した。変電所の職員は買収し、余計なことを喋らせないようにして、停電の原因は装置の故障ということにした。デパートは、エレベーターや窓が修理されるまで開店を延期させるらしい。よくもまあ、あそこまでの権力があるものだ。

 しばらくして、愛咲の部屋に入った。あちこちに段ボール箱が置いてあり、その中には書籍やゲームソフト、衣類などが詰め込まれている。彼女は勉強机の椅子に座り、小秋はベッドに腰かけた。

「引っ越しでもするのかしら?」

「ええ、独り暮らしをと思いまして……兄さんを去勢できない以上、一緒に過ごすのは耐えられませんから」

 そう、と小秋は返事をした。「じゃあ、訊くけれど、松久君がセックスさえしなければ、あなたは、彼と過ごせるのかしら」

 愛咲は首を縦に振った。「そのとおりです。でも──するでしょう?」

「いいえ」小秋は首を横に振った。「しないわよ」

 愛咲は目を見開いた。

「でも──あなたに頼みたいことがあるわ。それを引き受けてくれるなら、松久君とはセックスしないであげる。それに、これ」

 小秋は、ポケットから小さなビニールの袋を取り出した。中には錠剤が入っている。

「何ですか、それ?」

「性欲減退剤よ。これを松久君に飲ませれば、彼はオナニーもしなくなるわ。この薬を、あなたにあげる。もちろん、これだけというわけではないわ。足りなくなったら、追加で渡すから、言ってちょうだい」

 小秋は袋をそばに置いた。愛咲が、「それで、頼みたいことってなんですか?」と訊いてくる。

「簡単よ──私の、協力者になってほしいのよ」

 協力者、と愛咲は反復した。

「スパイ、といってもいいわ。松久君が、浮気をしていないか、私と別れようとしていないか──とにかく、私の不利になるようなことをしていないか、監視してほしいの。もちろん、そういうような行為を発見したら、報告してちょうだい」

 やっと言えた──小秋は、そう心の中で呟いた。愛咲に、松久とのセックスをやめるのと引き換えに、自分の協力者になるよう依頼するのは、昨日、エレベータースゴロクを行う前から、考えていたことだった。

(そもそも、彼らが行うギャンブルの内容を、「エレベーターを使ったスゴロク」に決めたのも、そのためだったわ)

 なぜ、エレベータースゴロクなのか?

(それは、「時間を稼ぐため」)

 ギャンブル中、プレイヤーはサイコロを振った後、「何階移動するか」を考えなければならない。十五分という制限時間はあるものの、そうやすやすと決められることではないだろう。

(他のギャンブルでは、すぐに勝負が決する可能性があったわ……それだけは避けなければならなかった)

 なぜ、時間を稼ぐ必要があったのか?

(それは、「イカサマの証拠を捏造するため」)

 エレベータースゴロクでの不正といえば、「相手がどの階にどの特殊マスを仕掛けたかを知ること」だ。これが不明であるからこそ、ギャンブルが成り立っている。

(私は、ルール説明を終えた後、「サイコロを調達してくる」と言って、雷神百貨店を離れた……実はその時、早々に近くのおもちゃ屋で適当なダイスを買った後、こっそり、ユズタCG制作スタジオに行ったわ。イカサマの、証拠の捏造のために。社内には、「ユズタ・ピクチャーズ社長の実妹」という立場を利用して入った)

 こればかりは運頼みだったが、幸いにも、休日出勤中の社員たちがいた。小秋は彼らに、「とあるギャンブルにおける不正の証拠を捏造することに協力してほしい」「報酬として大金をやる」と言ったのだった。

(具体的には、雷神百貨店の近くにあるビルの電光掲示板が映っている動画を撮影して、それを加工してほしい、と頼んだわ。後で連絡する、松久君の設置した特殊マスの内訳がそこに表示されるように、と……)

 また、「イカサマの証拠の捏造がしやすい」というのも、エレベータースゴロクを提案した理由である。例えばチンチロリンだと、サイコロへの細工、ポーカーだと、トランプへのガンつけや相手の手を知ることなどが不正と言える。しかし、巧妙に細工されたサイコロやガンのついたトランプなど、即座に用意できるものではない。また、ギャンブルの様子を撮影し、その動画を加工するにしても、編集できるのは勝負が終わってからのため、時間が限られる。

(ところが、エレベータースゴロクなら、近くにあるビルの電光掲示板に、松久君の仕掛けた特殊マスの内訳が表示される動画を作ればいいだけ……映像加工のプロなら、ユズタCG制作スタジオにいくらでもいるし……会長の妹という立場と、大金という報酬を使えば、容易に従わせられたわ)

 では、なぜ、イカサマの証拠の捏造をしたのか?

(それは、「ギャンブルで松久君が負けた時、負けを無効にするため」)

 彼が敗北したら、去勢されてしまう。それはすなわち、愛咲の目的が達成されることを意味する。

(それでは、松久君とのセックスを控える代わりに、協力者になるよう、彼女に交渉できないわ)

 仮に彼が負けた場合、小秋は願をいったん引き止め、ユズタCG制作スタジオから映像を手元のスマートホンにでも送ってもらい、敗北は無効だと言うつもりだった。当然、願と愛咲はイカサマを否定するだろう。

(それに備えて、願の部下を一人、買収しておいたわ……私が不正の証拠を突き付けたら、「独断で個人的にやりました」と、白状するように、と。もちろん、引き換えに大金を支払う約束をして)

 愛咲は「そんな電光掲示板など見ていない」と言うだろうが、「見ていないという証拠」などあるわけない。こちらも、「イカサマをそんな簡単に認めるわけがない」と言えば済む。水掛け論だ。

(願は映像を調べようとするでしょうけど、ユズタCG制作スタジオの社員たちは全員、買収済み)

 あるいは、社員たちが買収されていることを予測して、他の会社・機関に調査を依頼するかもしれない。また、エレベータースゴロクでの敗北が無効になっても、他のギャンブルで再戦ということになるかもしれない。

(けれど、それでもよかったわ……どちらにせよ、時間はかかる。その間に、愛咲ちゃんと交渉し、協力者にしてしまえばいい)

 最初から彼女に取引をもちかけなかったのは、合意してもらえるかどうかわからなかったからだ。松久が勝てば、応じてもらえる確率はぐっと高くなる。

(けっきょく、停電のせいで、偽イカサマ証拠動画作成はおじゃんになったけれど……その時にはもう、松久君の作戦に見当がついていたから、焦りはしなかったわ)

 いや、こんなこと、考えている場合じゃない。早く、愛咲の答えを聞かないと。

「それで、どうかしら? 協力者、引き受けてもらえる?」

 愛咲は、ふう、と溜め息を吐いた。「本当に、兄さんと、セックスしないでもらえるんですね?」

「本当よ。なんなら、松久君と一緒にいる間、ずっと、盗聴機や隠しカメラを所持していてもいいわ。あなたは別の場所にいて、私たちの会話を聴き、様子を見ていればいい。セックスが始まれば、すぐ気づくでしょう?」

 そうですね、と愛咲は返事をした。腕を組み、数秒間、ううん、と唸った後、「わかりました」と言う。「引き受けましょう。あなたの、協力者になります」

 小秋は、にこっ、と笑った。「ありがとう。そう言ってもらえると思っていたわ」

 じゃあ、連絡先を教えてよ。そう小秋が言った後、二人は電話番号とメールアドレスを交換した。その最中、彼女は、愛咲の勉強机の上に、「SKYDIVER」の主人公の二頭身デフォルメフィギュアが載っているのを見つけた。

「ところで、愛咲ちゃんも、『SKYDIVER』を見ているの?」小秋はスマートホンをしまいながらそう言った。

「ええ、まあ。面白いですよね、あれ」

「そうよね。私、昨日録画した第四話、まだ見ていないの。楽しみだわ」

「いや、残念ですが、見られないと思いますよ」

「えっ……どうして?」

「『SKYDIVER』の始まる直前に、兄さんがここら一帯を停電させたので」

 小秋の絶望声が、部屋にこだました。

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