第五十一話 アライヴズ

(使えなくするといっても、何も、破壊したわけではありません──扉を開けた後、近くにあった消火器を、床に置いたんです。昇降籠とフロアの二つに、跨るようにして)

 障害物があるせいで、ドアが閉まらない。閉まらなければ、動くことはできない。

(ギャンブル中に、非常用エレベーターの動作を妨害するような行為をすれば、ルール違反──失格です。しかし、私が消火器を置いたのは、勝負が始まる前──兄さんが、カフェに行っている間。よって、反則ではありま──)

 愛咲がそこまで、心の中で呟いた、その時だった。

 轟音が、彼女の思考を劈いた。

 思わず、びくっ、と肩を震わせる。何か重たいものが、何か堅いものに衝突したような、そんな音だった。

 轟音は、後ろのほうから聞こえた。愛咲は、くるり、と振り返った。しかし、具体的にいったいどこから生じたのか、まではわからなかった。

(……兄さんが何か、策を講じたのかもしれません──五階から一階まで、移動する策を)

 しかし、講じたとすると、いったいどんな策なのか。少なくとも彼女には、思いつかなかった。

「愛咲様のターンです。フロアを移動してください」

 肥後の声が、思考を遮った。もう、十五分経ちましたか。そう、心の中で呟いた。

(まあ、いいでしょう。五階から一階まで移動する策なんて、私には思いつきませんし。先程の音も、何か別の原因で発生したのかもしれませんからね。

 それより、このまま制限時間が過ぎるのを待っていれば、二人ともパスしたとみなされます──兄さんは五階、私は二階。一階に近い私の勝ちです。……が……)

 いや。やはり、油断は禁物だ。できることなら、ここはパスせず、きちんと一階にゴールしよう。

(よし──非常用エレベーターを使いましょう)

 愛咲はそう考えると、その場所へ向かった。しばらくして、到着する。

 ポケットから白・赤・青・黄のサイコロを取り出した。もし、エレベーターに用意してあるものが、壊れるなり傷つくなりして使えなくなったときのために、と、あらかじめ持たされていたものだ。茶碗は嵩張るので、床で振っていい、と言われていた。

 地面にダイス四つを投げる。出目は【白6】【赤6】【青6】【黄6】だった。

(おっ……ここでゾロ目ですか……まあ、二階にいる以上、どんな目が出ようが、一階に到達できますが……縁起、いいですね)

 愛咲は、きょろきょろ、と辺りを見回した。一階と同じ位置に、消火器を見つける。

 彼女はそれを手に取ると、非常用エレベーターの扉の窓を割った。くぐって、シャフトの中に入る。昇降籠の上に立った。

 しばらくして、四角い枠を見つけた。おそらくこれが、中への入り口だろう。愛咲は消火器で、それを何回も殴りつけた。しばらくして、推測どおりフタであったそれは落下した。

 昇降籠の中に入る。いちおうこれも、エレベーターを使ってフロアを移動したことには違いない。ルール違反にはならないだろう。

 ちょうど、仕掛けておいた障害物に引っ掛かった扉が、両サイドに戻ったところだった。愛咲は消火器を避けると、一階に降り立った。食料品売り場を通り、正面玄関に向かう。

(これで、私の勝ちです)

 角を曲がり、正面玄関に到着した。

「よう。遅かったな」

 松久が、立っていた。


「なっ、なっ、なっ……」愛咲は震える指で松久を差した。「にっ……にっ……」

「なんだなんだ、なにぬねの、とでも言──」

「兄さん?! どうしてここに……」

「どうしてって、決まっている。さっきのターンで、五階から一階に移動したんだ。ちゃあんと、エレベーターを使ってな」

 いったいどうやって。そう愛咲は叫んだ。「どうやって、動かしたんです?! 停電で、動かないはずじゃ……」

 まさか、停電時自動着床装置用のバッテリーを使ったとでも言うのですか。しかし兄さんに、そんな技術はないはずでは。そう心の中で喚いた。

「違う。停電時自動着床装置用のバッテリーを用いたわけじゃねえ」松久は愛咲の思考を見透かしたように言った。「簡単な話だ。エレベーターを動かしたといっても、電気によるものじゃねえ──位置エネルギーによるものだ」

「位置エネルギー?」

「そう」松久は頷いた。「つまり俺は、エレベーターに乗ってから、それを落下させたんだ」


 どうやって、と愛咲は呟いた。もはや叫ぶ気力もない。どうやって落としたんですか、と、ぼそぼそと喋る。

「簡単だよ」青足松久はそう言った。「昇降籠を吊るすワイヤーを切ったんだ。五階の園芸用品売り場で手に入れた、高枝切り電動チェーンソーでな」

「し、しかし、エレベーターには非常止め装置がついているはずでは……」

「そう! それが問題だったんだ。そいつが働いて、二階や三階で停まったら、敗北が確定するからな。

 装置の仕組みについては、八階の書籍売り場で調べたよ。大変だったぜ、なかなか、エレベーターの仕組みについての本がなくて……最終的に、子供向けの学習本に救われた」

「で、具体的にどうしたっていうんですか」

「それも簡単だ。昇降籠にはガバナロープっていうやつがついていてね。こいつが、移動速度を、マシンルームにある調速機って機械に伝えている。これが、一定以上のスピードを感知すれば、非常止め装置が作動する、って寸法だ。

 そのロープを、チェーンソーを使って、エレベーターから切り離したんだ。そうすれば、調速機が速度を感知することも、装置が作動することもねえ」

「でも、五階から一階に落下した昇降籠の中なんかにいたら、大怪我を負うでしょう」愛咲は松久の全身を眺めた。「なんでそんなに、ぴんぴんしているんです」

「別に、大したことじゃねえ。要するに、クッションを用意すればいいだけのことだからな。

 八階には、家具売り場もある。布団やマットレスの類いも売っていた。そいつらをエレベーターの中に、大量に積み重ねて敷いただけの話だ。後は、天井のフタを開けて、高枝切り電動チェーンソーで、昇降籠の内部から、ワイヤーを切るだけ」

 愛咲は、なるほどです、と呟いた。それだけだった。その後、無言で、正面玄関近くに設置されているベンチに近寄ると、どすん、と腰かけた。俯き、顔を両手で覆う。

「俺の勝ちだ、願」松久は彼女のほうを見た。「約束どおり、ワイニング・ファンタジーの、ロマネ・コンティを、俺のアカウントに送ってくれ」

 願は、わかったよ、と言った。スマートホンを手に取り、松久のアカウント・ナンバーを教えてくれ、と言う。

 彼も、携帯電話を取り出すと、ワイニング・ファンタジーを起動して、番号を確認し、二十桁の数字を言った。一分後、ロマネ・コンティが送られてきた。

 誤って破棄しないよう、ロックをかけてから、戦闘用パーティメンバーに入れる。あの、ロマネ・コンティが、自分のパーティにいる──なかなか、信じられない光景だった。

「よっしゃあっ!」松久はガッツポーズをした。

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