第四十四話 スクラッチイズ

 去勢手術、と松久は復唱した。「それを……受ける気は、ないか、だって?」

 そうです、と愛咲は言い、頷いた。

 数秒間、松久は沈黙した後、ははっ、と小さく笑った。「何を馬鹿なことを……受けるわけないだろ、そんなもの」

 そうですか、残念です。そう愛咲は言い、ため息を吐いた。

「だいたい、何なんだ突然、去勢手術って……なんでそんなもの、俺が受けなきゃならない?」

「汚らわしくなるからですよ」愛咲は語気を強めていった。「兄さんが、汚らわしくなってしまうからです」

「汚らわしくなるって──」

「セックスするじゃないですかっ!」

 松久の言葉を遮り、愛咲がそう叫んだ。その気迫に、彼は、びく、と体を震わせた。

「男性器がついたままだと、兄さん──小秋さんと、セックスするじゃないですか」彼女は、はあ、はあ、と息を荒げながら言った。

 松久は、ぽかん、と口を開けた。「まあ、そりゃ、するけど」と呟く。「年頃の女子が、あんまり、セックスセックス言うもんじゃ──」

 それが嫌なんですっ。愛咲は彼の言葉を遮り、そう叫んだ。「兄さんには、セックスや自慰どころか、射精もしてほしくない。もっと言えば、Hなことを考えてもほしくない。そのためには」しばし間を置いた。「去勢してもらうしか──男性器を、切除してもらうしかないでしょう」

 あまりに勝手な物言いに、だんだん、腹が立ってきた。「俺が何しようが、俺の自由だろうが」と、幾分か語気を強めて言う。「お前が、性的なものを苦手としていることは知っているが、だからと言って、俺にまで押しつけんなよ。俺には関係ねえだろ」

「いいやっ。兄さんには、深い関係があります」

「どういう関係だよ」

「頭ですよ」

「頭あ?」

「私が性的なものを見て、気分を害した時、兄さんに頭を撫でてもらっているでしょう。あれが──」愛咲は自分の頭頂部をさすった。「あれがなければ、私は今頃、発狂するか、鬱病になるかしていたかもしれません」

 松久は目を瞠った。「そんなにか」

「そんなにですよ。それなのに──兄さんが、小秋さんとセックスしているとなると、汚れた手で触られることになる。精神を即座に安定させる、唯一の手段が、う、うし、失われてしまうっ!」

 愛咲はそう叫ぶと、両手の指十本の爪を、両頬に立てた。そのまま、ゆっくりと下ろす。音もなく皮膚が剥がれ、赤い肉が見え、黒ずんだ血が流れ出た。

「な、何してるんだ、愛咲っ!」

 松久がそう叫ぶと、彼女は手を顔から離した。中腰になって息を整えた後、ポケットから取り出したハンカチで流血を拭きとって、言う。「とにかく、そういうわけで、兄さんには、去勢手術を受けてもらわなければなりません」

「受けてもらわなければなりません、って……だいたい、ついこの間まで、そんなことぜんぜん、気にしていなかったじゃねえか。なんで今になって、喚くんだ」

「知ってしまったからです。兄さんが、小秋さんと、セックスしているということを。二週間前、彼女が、うちに泊まりにきた時に」

「知ってしまったって……お前の部屋は防音だし、俺の部屋はドアや窓だって閉めきって、カーテンを引いたってのに──」

 隠しカメラですよ、と愛咲は言った。「隠しカメラを仕込んでおいたんです。それで、兄さんと小秋さんがセックスしている様子を、撮影しました」

 松久は、あんぐりと口を開けた。怒ることも忘れ、何しているんだよお前、と呟く。

「そもそも、私は最初から、兄さんを疑っていました。小秋さんと付き合うことになった、と聞かされた時から。彼女とセックスしているのではないか、と。それで財布を調べたら、コンドームが出てきました」

 コンドーム、と口にする時でさえ、愛咲は嫌な顔をした。

「しかし、決定的な証拠が欲しい。そこで、こっそりとアルバイトをし、溜めた金で母さんと父さんを旅行に行かせました。いわば、小秋さんがうちに泊まり、兄さんとセックスする機会を作ったのです。そうしたら」ぎりり、と音がした。歯を食い縛っていた。「セックスしてやがっ。失礼。セックスしておりました」ふう、と息を吐いた。

 松久はしばらくの間、呆然としたような表情で、愛咲のことを見ていた。だが、やがて、ぶるぶる、と両肩を震わせえると、「ふざけるなっ!」と、大音量で叫んだ。「そんな──そんなふざけた理由で、去勢など、するわけがねえだろっ!」

「そう言うと思いました」怒鳴ったというのに、愛咲に、動じた様子はまったくなかった。「そこで、一つ提案があります。私と、ギャンブルで勝負しませんか?」

「勝負?」

「ええ。兄さんが負けたら、去勢手術を受ける、という条件で。立会人は、願さんが引き受けてくれました」

 願は、こくり、と頷いた。松久は、「じゃあ、俺が勝ったら、何してくれるんだよ」と言った。

「愛咲から聞いたけど、あんた、ワイニング・ファンタジーにはまっているんだってね?」

 願が、松久にそう訊いた。彼は、そうだけど、と答えた。

「じゃあ……ロマネ・コンティってキャラ、相当欲しいんじゃないかい?」

「そりゃ、欲しいぜ。でも、なにしろスペシャルガチャ限定で、出現確率もかなり低い。出るわけねえ」

 願は、懐からスマートホンを取り出すと、それを操作し始めた。しばらくして、手を止め、ディスプレイを見せてくる。

 それは、ワイニング・ファンタジーのゲーム画面で、その中央にロマネ・コンティがいた。

「んなっ?!」松久は大声を出した。思わず、願からスマートホンをもぎ取る。「なっなっなっ……出たのか?! ロマネ・コンティが?!」

「あたいは金に糸目をつけなくてもいいし、ガチャを引くのも、強運の小秋に任せたからね。だいぶ投資はしたけれど、なんとか出せたよ」

「そう言えば、なんか延々とガチャを引かされたことがあったわね」という小秋の声が聞こえたが、気にしている場合ではない。食い入るように、スマートホンの画面を、より正確にはロマネ・コンティを見つめる。しばらくして、願が、「そろそろ返しておくれ」と言ったので、すまんすまん、と謝りつつ渡した。

「あんたが勝ったら、こいつをあんたのアカウントに贈ろう。念書も用意したさ」

 願が指を鳴らすと、近くにいた黒スーツ姿の女性──肥後瑞希が、懐から一枚の紙を取り出した。「柚田願は青足松久にワイニング・ファンタジーのロマネ・コンティを渡すことを誓う」と書かれている。彼女のサインと、拇印もあった。

「もちろん、あんたが勝たなきゃ、こいつはシュレッダー行きだけどね」

 松久は腕を組んだ。ううん、と唸り、考え込む。

(ロマネ・コンティは正直、すごく欲しい……ものすごく欲しい)

 だが負ければ、性器を失う。

(この勝負、受けるべきか、拒否するべきか……いや)松久は、ぶんぶん、と首を横に振った。(拒否すれば、ロマネ・コンティは、自力で獲得しなければいけなくなる。一回二千円のガチャで、出現確率〇・〇〇〇〇〇一パーセントのキャラを出すことと、愛咲と勝負して勝つこと、どちらのほうが、成功する可能性が高いか……)今までしてきた賭博を思い出す。拳銃ジャンケン、チョコスティックゲーム、北風と太陽の麻雀。(どう考えたって、ギャンブルのほうだ)

「で、どうするんだい?」願が苛立ったように言う。「この勝負、受けるか、拒否するか」

 松久は腕を解いて、言った。「受けよう。ギャンブルだ」

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