第四十二話 クーペレイツ

 松久は上半身を起こした。ベッドの上に座っている形となった。

 時計を見る。午前五時。セックスし疲れた小秋が眠ってから、三時間が経過している。顔を見てみると、当然ながら、未だに夢の中のようだった。

 もっとも、松久は彼女とは違い、今に至るまで、まったく寝てはいなかった。寝るわけにはいかなかったのだ。

 体を動かし、パジャマを着て、車椅子に座る。一連の動作は、小秋を起こしてしまわないよう、音を立てず慎重に行った。

 車輪を回し、彼女の部屋から出る。松久が大怪我を負い、意識を取り戻してから、数週間が経過していた。願に恋人付き合いを認められたため、二人は大っぴらにいちゃつくようになっていた──無論、彼にとっては不服そのものであったが。昨日の土曜日も、小秋の家に泊まりに来たのだった。

 廊下は、照明がわずかに点けられていて薄暗く、また、クーラーが効いていて少し肌寒かった。彼はゆっくりと進み、しばらくして、目的地に到着した。願の部屋だ。

 この家にはエレベーターがないため、階段を上り下りするには、他人に抱きかかえられなければならない。彼女の部屋が小秋と同じ階にあって助かった──松久はそんなことを心の中で呟きながら、扉を開け、中に入った。

 壁のスイッチを押し、電気を点ける。扉を閉め、天蓋つきのベッドに近寄った。願は、「んんん……」と呻きながら、瞼を、ごしごし、と右手で何回か擦った後、目を開けた。

「……青足君じゃないかい」ふああ、と欠伸をする。「なんだい? 夜這いにでも来たのかい?」

「いいや。違う」松久はゆっくりと首を横に振った。「あんたに、話したいことがあってきた」

「話したいことお?」願は上半身を起こしてから、二回目の欠伸をした。「いったい、何だい、そりゃあ」

「俺は小秋と、恋人関係を解消したいと思っている。彼女と別れるのに、協力してくれ」


 願はしばらくの間、目を点にしていた。「どういうことだい、そりゃあ」と呟く。「小秋と……別れたい、だって?」

「そうだ」松久は頷いた。「別れたい」

 願は俯いて目を瞑り、額に手を遣った。「んー……」と唸る。「どうして、別れたいんだい?」

「元より俺は、小秋のことを、好きでも何でもない。むしろ嫌いなぐらいだ。しかし彼女に脅され、無理矢理恋人にされている」

「脅されている? どうして?」

 松久はため息を吐いた。「以前、小秋の胸を揉んでしまったことがある。

 いや、誤解しないでくれ──胸に触ったのは、事故だ。ただ、その後、昂っていた性欲のせいで、我慢できずに、揉んでしまったんだ。

 それで、その時、性欲が昂っていたのは、小秋の仕業なんだ──俺は、彼女に、媚薬を盛られていたんだ。

 俺が小秋の胸を揉んだ場面は、隠しカメラによって撮影され、動画として保存されている。もし、俺が、彼女との恋人関係を解消するようなら、そのデータを元に、訴える、と言われている」

 願はしばらくの間、松久を見つめていた。そして、やがて、「そうかい」と言った。「まあ、小秋は私に似て、目的を達成するためなら、手段を選ばない節があるからねえ。あんたに媚薬を盛ることくらい、平気でやるだろうよ」

「そこで、あんたに協力してほしいんだ。具体的には、その動画を見つけて、削除してほしい。あんたはあいつと一緒の家に住んでいる、俺よりはるかにやりやすいだろう。

 俺は小秋と恋人関係を解消できる、あんたは小秋を許婚に嫁がせられる。Win‐Winってやつだ」

 願は、なるほど、と呟いた。「確かに、そのとおりだね。よし、わかった、やってみるよ」

「そうか」松久は、ほう、とため息を吐いた。「そりゃあよかった。……じゃ、俺は部屋に戻るから」

 松久はそう言い、車輪に手をかけた。願は、「まるで、『北風と太陽』だねえ」と呟いた。

「なんだって?」

「あの寓話の教訓を知っているかい? 『物事に取り組むときは、拙速よりも巧遅のほうが、大きな成果を得ることができる』。小秋に唆されて、手っ取り早くギャンブルなんかしないで、最初からあんたと話し合えばよかった。そうすりゃ、あんただって、左脛から下を失わずに済んだだろうに」

 まったくだ、と松久は呟いた。「まあ、いまさら嘆いたって、仕方ねえさ。気にしねえよ」車輪を回し、願の部屋を出て行った。


(上手く行ったぞ)廊下を進みながら、松久は、にやり、と回った。(願の協力を取りつけられた。小秋は、昼間は当然、学校に行っているから、部屋は留守になる。そのうちに、あいつが、自分の息のかかった者を彼女の部屋に潜り込ませ、動画を見つけてくれるかもしれない。……まあ、小秋が、自室にそんな大切なものを保管しておくとは思えんが)

 そもそも今回、願に、「柚田小秋に青足松久という恋人がいる」と密告したのは、彼自身だった。彼女宛に、そういう文面の手紙を書き、ポストに投函したのだ。

(彼女に接触し、協力を取りつけるのが目的だった……まさか、身の破滅を賭けたギャンブルで戦うことになるとは、さすがに想定外だったが)

 左脛の半分から下を失ってしまったが、そのおかげで、北風と太陽の麻雀に勝ち、当初の「願を仲間にする」という目的も果たせたのだ。よしとしよう。

(……さて)松久はトイレの入り口の近くで車椅子を止めた。(もし、小秋が、俺が深夜に部屋を抜け出たことを知ったら、「トイレにしては遅すぎる」と思うかもしれない……ここは、このままこの場所で寝て、「便所から帰る途中で眠ってしまった。そのため、部屋に戻れなかった」と言い訳しよう)

 松久はそのまま、車椅子の背に凭れかかった。目を閉じ、全身の力を抜く。徐々に睡魔に襲われ、そのまま眠り込んでしまった。

 どうも、クーラーの効いた廊下で、毛布も被らずに寝たのがいけなかったらしい。

 翌日、松久は風邪をひいた。

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