第四十話 ジャンプス

(さすがに、さっきの五回戦でのあたいの打ち筋は、不自然過ぎたよねえ)柚田願は、そう心の中で呟いた。(イカサマ、ばれたかねえ……まあ、すでに12P差……青足が逆転しようとなると、次の六回戦で、一気に13P以上稼がなければならない。どう考えたって、不可能さ。あたいの勝ちは、決まったようなもんよ。いまさら不正が明らかになったところで、どうってことないさ。はっきりとした証拠もないし)

 彼女は雀卓を眺めた。すべての牌の近くに、吹き出しのような形で、それがどの牌か、が表されている。もちろん、他の人間には見えていない。今装着している、特殊なコンタクトレンズを通してでないと、視認することはできないのだ。

(牌に埋め込まれた機械から発せられる電波を、ゲームルームの真隣にある部屋のマシンで受信し、解析して、このレンズに送信。どの牌がどれか、AR──拡張現実方式で示す。便利なもんだねえ)

 相手の手もヤマも王牌も、すべてが見えている。これさえあれば、麻雀で負けはない。願も、一時はそう思った。

(でも、実際はそうじゃない)

 すべての牌が見えていても、それらをどう集めれば、どんな役が作れるのか、その中で一番自分にとって都合のいい役は何か。そこまで、考えなければならない。また、目当ての牌があっても、それを自分がツモれるとは限らない。

(そこで、この特殊な麻雀──北風と太陽の麻雀を考案した)

 カン競争──とにかくカンを先にしたほうの勝ち。同じ牌を四枚、【オールマイティ牌】を入れれば、三枚集めるだけで勝てるのだから、「どの牌がどこにあるかを知っている」というイカサマを活かしやすい。

 また、【オールマイティ牌】の存在も、この不正をする者にとってはメリットだ。こいつを使えば、相手の捨て牌と同じものを一枚持っておくだけで、ポンができる。いわば、ツモ番を入れ替えやすくなり、ひいては、目当ての牌を取得しやすくなるのだ。プレイヤーが、自分と相手の二人だけというのも、ツモ番を「先か後か」の二種類に限定し、目的の牌を入手しやすくしていた。

(おかげで、五回戦みたいなピンチも、切り抜けられた……まさか【南】がドラで、そいつを二枚も配牌時に手に入れるとはねえ……青足も、なかなかの豪運さね)

 しかし、その豪運もここまでだ。何しろ、彼が勝つには、次の六回戦で13P以上を獲得しなければならない。

(ドラとカンドラが四枚ずつ手牌にあり、【オールマイティ牌】二つをそれぞれドラとカンドラとして扱っても、10P……そこからさらに、「白」「發」「中」「南」といった役を作っていかなきゃならない……)願は、くくっ、と笑った。(そのうえ、あたいにはすべての牌が見えている。妨害し放題……どう考えたって、あたいの勝ちさね)


(どう考えたって、願の勝ちだ)青足松久はトイレの壁に凭れかかり、項垂れていた。

 彼女が「北風と太陽の麻雀は、カン競争だから、ビギナーにだって優しいさ」と言った時に覚えた、違和感の正体がわかった。「麻雀に強い小秋を参加させない」とほざいたり、「最初の南家を寄越せ」「自分のポイントを上回らないと勝ちにしない」とほざいたりと、徹底的に己に有利になるようにしていたのに、急に、「ビギナーにだって優しい」と、勝負相手への配慮を口にした、その矛盾だったのだ。

 これから、あと一戦で、すべての牌が見えているプレイヤーを相手にして勝ち、13P以上、獲得しなければならない。

(これで負けたら、あの動画のこと、願にばらされるんだよな……そうしたらやつは必ず、俺を殺すだろう……いや、ただ殺すだけじゃ飽き足らず、小秋の言うとおり、拷問するかも……)涙が出そうになる。(もう……いっそのこと、ここで自殺してしまおうかな……)

 松久は窓を開けた。そこからの景色を、数分間、眺めた後、真下の地面に目を遣る。

(コンクリートか……)

 松久はしばらくの間、地面を眺めていた。

 やがて彼は、スマートホンをズボンのポケットから取り出し、操作した。使い終わるとポケットにしまう。便器を踏み台にすると、窓枠を両手で掴み、両足を載せた。

 ごくり、と唾を呑み込む。

 一秒後、彼は手足を窓枠から離した。


「青足さんが、トイレの窓から、飛び降りました!」

 ゲームルームにノックもなしに躍り込んできた、警備員室長──たしか母安とかいう──は、息を切らしながらそう叫んだ。

 柚田願は、口を半開きにした。思考が、一瞬だけ停止する。しかし、文字どおり、瞬きを一回する間だけだった。すぐに我に返り、「どういうことだい?」と訊く。

「そのままです。青足さんが、トイレの窓から飛び降り、地面に直撃したのです」母安の呼吸が整ってきた。

「死んだのかい?」

「いえ。呼吸はしておりませんでしたが、心臓は動いておりました。救急車はすでに呼んであります。五分で到着するそうです」

 願は、ふうーっ、とため息を吐いた。「ほとんど負けの状況に絶望して、自殺を図ったのかねえ……」と呟く。

 ふと気になって、小秋のほうを見た。彼女はスマートホンを操作していた。

 思わず、「ちょっと、恋人が飛び降りたんだよ、携帯電話なんて見ている場合かい」と言う。

「あっ……」小秋にしては珍しく、狼狽えた。「そ、そうね……松久君のところに行ってくるわ」スマートホンをスカートのポケットにしまい、小走りでゲームルームを出た。

「まったくもう……あれがスマホ依存症ってやつかい」願はそう言うと、ため息を吐いた。


 松久は一命を取り留めた。しかし、目を覚ましてはいなかった。医者によれば、彼が意識を取り戻すか、このまま昏睡状態が続くかは、予測できず、天に祈るしかないそうだ。

 怪我の具合は、上半身と下半身とで極端な差があった。腕や頭は、打ち身などにはなっているが、しばらくすれば完治するだろう。しかし脚は、骨も筋肉も、落下の衝撃でぐちゃぐちゃになっており、数か月は車椅子生活になるに違いない、とのことだった。

 特に左脛は、真ん中でおかしな曲げ方をしてしまったらしく、ほとんど切断されてしまったかのような状態だったそうだ。断面がぐちゃぐちゃなためくっつけることもできず、義足をつけなければならないらしい。医者は、おそらく脚から地面に激突したため、下半身が上半身に比べて重傷なのだろう、と言っていた。

 小秋は相変わらず、何を考えているのかわからない。だが少なくとも、彼の意識が戻ることを祈っているのは確実だろう。

 松久が飛び降りた翌日、丸一日ゲームルームに閉じこもったかと思えば、その翌日も、自分の部屋に閉じこもり、その翌日からはずっと、病室にいて、ベッドの傍で彼の顔を見つめている。学校には、まったく行っていない。よくもまあ、あそこまで一人の人間を慕うことができるものだ。

 そして今日の土曜日で、彼が自殺を図ってから、ちょうど一週間が経とうとしていた。来週も、彼女が学校を休もうとするなら、何としてでも説得し、行かせなければならない──願は自室で、そんなことを考えていた。いつもどおり、黒い礼服を着ている。

 扉がノックされた。「どうぞ」と言うと、開いた。使用人の肥後瑞希が、そこに立っていた。

「肥後じゃないか。何の用だい」

「柚田様に、ご報告がございます。青足松久さんが、意識を取り戻しました」

「ほお」願は目を少しだけ瞠った。「よかったじゃないか。これで来週から、小秋も学校に行ってくれるってもんだ」

 しかし肥後の顔には、困惑が張りついていた。「それが、その」と、躊躇いがちに言う。「妙なことを申しておりまして」

「妙なこと?」

「続きをしてほしいそうです。先週の土曜日、ゲームルームで行った、北風と太陽の麻雀の、六回戦を」


 その日の午後七時、願は松久とともに、ゲームルームにいた。

 彼の容姿は、見るからに痛々しかった。入院患者の服を着、頭には分厚く白い包帯が巻かれ、腕にはたくさんの湿布が貼られている。靴を履いているのは右足だけで、左足は脛の真ん中から先がない。

 車椅子を押してきたのは、小秋だった。彼女は、高校の制服を着ていた。

 願は咳払いをした。「それで? 続きをやってほしいんだって? 北風と太陽の麻雀の」と言う。

「そうだ」松久は頷いた。

「でもねえ……あんたはほら、トイレの窓から飛び降りたじゃないか。あれで、あたいはてっきり、あんたがギブアップしたもんだと思っていたんだけれど」

「違う」松久は小さく首を横に振り、顔を顰めた。頭を動かすのも痛いのかもしれない。「あんたは、ギャンブルのルール説明の時、こう言っただろ? 『今日で六回戦とも、やってしまおう。先送りは、よっぽどの事情がない限り、認めないからね』って」

「ああ。言ったねえ」

 松久は、にやり、と笑った。「窓から落ちて大怪我、ってのは『よっぽどの事情』だろ?」ごほ、ごほ、と咳き込んだ。小秋が背中を擦る。「認めてくれよ、延長」

 願は腕を組み、ううん、と唸った。いったい松久は、何を企んでいるのか。必勝の策でもあるのか、自暴自棄になったのか。

 まあいい──彼女は、顔を笑みで歪ませた。自分のイカサマには、絶対の自信を持っている。それをかいくぐって、先にカンをし、13P以上稼げるというのなら、やってみればいい。

「いいよ」願は腕を解いた。「始めようか。六回戦」

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