第三十二話 イールズ

「結局、稼げたのはたったの三〇〇万円、三割バックだから手取りは二一〇万円か……でもまあ、これで帆柱私大に行くことができそうだ」帰りのリムジンの中で、青足松久は満足そうにそう言った。

 向かい座った小秋が、言った。「見事な逆転劇だったわよ。まさか、あんな手で根守野さんに口を離させるなんて」にこっ、と微笑んだ。車内には、彼女ら二人しかいなかった。

 その表情を直視し、松久は、どきり、とした。心臓が高鳴り、下腹部が熱くなり、股間が硬くなる。一億三八〇〇万円という借金から解放された安堵のせいか、帆柱私大での実験でまったく自慰ができなかったせいか、先ほどから、性欲が猛烈に昂って、仕方がなかった。

 彼は、ぷい、とそっぽを向いた。「ま、まあな。……そうだお前、実は根守野と旅富とグルで、チョコスティックゲームギャンブルを通じて、俺一人を借金地獄に突き落とすつもりだっただろ」

「あら、何のことかしら?」

「しらばっくれやがって。俺はお前の魂胆を、しっかり見抜いていたんだからな」

 松久は顔を戻し、小秋を見た。彼女は、「そうね」と言うと、くすり、と笑った。リムジンが、信号待ちのためか、停止する。

「そうだ、今、どの辺りかしら?」

 小秋はそう言って、窓から外を見た。すでに、カーテンは引かれていない。しかし彼女は、ただ見ただけでは足りなかったのか、立ちあがった。

 次の瞬間、車が発進した。

「きゃっ!」

 小秋はそう叫び、前方に倒れ込んだ。そこに座っていた、松久も巻き込まれる。

「のわっ?!」

 松久は、思わず、両手を前に出した。その上に、小秋が覆い被さってきた。

 最終的に、二人は、小秋が上で俯せ、松久が下で仰向けになって、座席に寝転んだ。小秋の左右の乳房が、松久の左右の掌で、むにゅう、と潰れていた。

 小秋は、ふふ、と微笑んだ。「ごめんなさいね」と、恥ずかしげに言った。

 松久の両手に、力が入った。


 翌日の火曜日、昼休み。

 松久と小秋は、屋上にいた。フェンスが立てられている段差に、並んで腰かけている。

「はい。これが、松久君のお弁当」彼女はそう言って、赤と青の包みのうち、青いほうの結び目を摘んだ。

「ああ。ありがとう、小秋」松久はそう礼を言うと、それを受け取ろうとした。

「だーめ」小秋は青い包みを自分の膝に置いた。「私が食べさせるの」

「お、おう、わかった」

 小秋は、うふふ、と笑うと、松久の左腕をかき抱き、肩に側頭部を当てた。

 月曜日、リムジンの中で、松久は、小秋に覆い被せられた時、彼女の左右の乳房に、両手で触れた。問題は、その後だ。昂っていた性欲のせいで、我慢できず、その後、三秒間、彼女の乳房を、揉みしだいてしまったのだ。

 我に返ったのは、小秋が上げた、「……んう」という声を聞いた時だった。その瞬間、さーっ、という音を立てて、血の気が引いていった。性欲は、それまでの昂ぶりが嘘であったかのように、鎮まり返った。

 その後、松久は、下足スペースで土下座をした。「胸を揉んでしまった」「すまなかった」などと言い、謝罪した。

 それに対して、小秋は、苦笑すると、「別に、気にしていないわよ」「私は、貴方のことが、好きなんだし」と答えた。

 しかし、松久は、まだ、良心の呵責に苛まれていた。思わず、「でも……」と言った。

 そうしたら、小秋は、「それじゃあ、私の恋人になってちょうだいよ」「恋人なら、お互いの体を触っても、おかしくないでしょう?」「なってくれたら、私の胸を揉んだことは、不問にしてあげるわ」と提案した。それで、松久は、小秋の恋人になることを了承したのだ。二一〇万円も、きちんと支払ってくれるとのことだ。

 そして今日、この時が、恋人らしいイチャイチャの、第一回というわけだ。小秋は松久の腕を離すと、しゅるしゅる、と弁当の包みを開けた。

「なあ、小秋。実はあれから、家に帰った後、いろいろと考えたんだ」

 小秋は、きょとん、として言った。「何を?」何か気づいたような表情になり、ふふっ、と笑った。「大丈夫よ。貴方が私の胸を揉んだことを、いまさら、責めたりなんかしないわ」

「違う──いや、違うこともないんだが」

「もう……何なのよ?」

 松久は、深呼吸してから、言った。「あの日──お前は、俺の性欲を昂らせることで、俺に、自分を襲わせようとしていたんじゃないか?」

 小秋の笑顔が、固まった。


「最初に違和感に気づいたのは、リムジンの中での、俺自身の発言だった。『実は根守野と旅富とグルで、チョコスティックゲームギャンブルを通じて、俺一人を借金地獄に突き落とすつもりだっただろ』」

「……何か、おかしいところでもあるかしら?」

「ああ、おかしいとも。……俺を借金地獄に突き落とすなら、あんなチョコスティックゲームなんかじゃなくて、ポーカーにでもすればよかったんだ。そして、イカサマを使って、他のプレイヤーを、バンバン勝たせればいい。

 なにしろ、ディーラーという立場なんだからな。いくらでも不正はできる。チョコスティックゲームじゃ、イカサマのしようがねえ。事実、最終的には俺は借金を負うどころか、二一〇万円を得ちまった。

 つまり、お前がチョコスティックゲームをギャンブルにしたのには、何か別の魂胆があったわけだ。

 そして俺は、もう一つ、違和感に気づいた」

「もう一つって?」

「味だよ。薬の味。一セット目で、俺に塗られた薬は、甘かった。二セット目で、旅富に塗られた薬は、苦かった。しかし、三セット目で、根守野に塗られた薬は、酸っぱかった。

 な? おかしいだろ? 三種類の味がある。薬は、二種類だけのはずなのに」

「……旅富さんか根守野さんのどちらかが、嘘をついたのかもしれないわ」

「嘘をついて、何になるって言うんだ。何にもメリットがねえだろ。それよりも、ギャンブルに使われた薬は実は、三種類あった、と考えたほうが自然だ。

 つまり、お前がチョコスティックゲームをギャンブルにした理由は、その、三つ目の薬を自然な形で俺に盛ることだったんじゃないか?」

 小秋に訊いたのだが、彼女は何も答えなかった。松久は続ける。

「で、だ。三つ目の薬とは、いったい何だったのか? 何か俺に、ギャンブルの後、身体的な変化はあったか? と考えてみた。

 一つだけ、あったな。性欲が猛烈に昂ったことだ。

 すなわち──お前は、俺に、遅効性の媚薬を盛ったんじゃねえのか?」

 これも、小秋に訊いたつもりだったのだが、どうせ何も答えてはくれないだろう、と思い、間髪入れずに続けた。

「もちろん、借金により俺を縛りつけ、恋人にする、というのも、ギャンブルの目的ではあったんだろ。しかしそれでは、行動は縛りつけられても、精神までは支配できねえ。心の中では、恋人になんかなってたまるか、と思っているに違いねえ。

 それよりも、わざと俺に自分を襲わせることにより、俺の心に多大な罪悪感を生じさせる──こちらのほうが、主目的だったんじゃねえのか? まあ、それ自体は、失敗したわけだがな。

 そう考えると、納得できることが、他にもある。

 俺に自分を襲わせるには、ただ媚薬を盛るだけじゃいけねえ、その後に二人きりになる必要がある。まさか、衆人環視の中で暴行するわけもねえからな。

 ということは、俺の家の飲食物に仕込んでも、意味がねえ。俺は両親と妹、母方の祖父母と暮らしているからな。二人きりになんて、なれるわけがねえ。

 学校じゃ、飲み物はウォーターサーバー、昼食は学食で済ませている。今度は、媚薬を仕込む隙がねえ。

 帰宅途中などに拉致して、強引に盛る──というのも駄目だ。そんなことをしたら、俺は『無理矢理、媚薬を飲まされ、襲わせられた』と考える。罪悪感など、生じるはずもねえ。

 それに引き換え、チョコスティックゲームなら、薬を口に塗るのはごくごく自然な行為だし、帰りの車の中で二人きりになれる。

 今にして思えば、あの、土曜日から月曜日にかけて受けた、帆柱私大の実験も、お前の作戦だったのかもしれねえな。急に性欲が昂れば、誰だって不自然に思うが、実験によって、俺に丸二日、自慰をさせないことにより、性欲の高まりを自然なものと思わせようとしたんだ。

 チョコスティックゲームで、キスをする行為を、単なる敗北ではなく、『死に至る』とまで脅したのは、俺の相手プレイヤーの根守野や旅富に、媚薬を付着させないためだな。何しろ、一回付着すると、それから洗い落としたとしても、後になって効果が出るような強力な薬だ、万が一にも根守野や旅富に付着させるわけにはいかねえ……まあ、単にお前が、俺に他の女子と接吻させたくなかっただけかもしれねえが」

「……証拠は?」やっと、小秋が口を開いた。「私が、媚薬をあなたに盛ったという、証拠はあるの?」

「あるぞ。もちろん」

 松久は即答した。小秋は、驚いたような表情になった。

「靴下だ。あの日、俺が穿いていた靴下。……小秋、お前は、三セット目開始前、薬の入った瓶を落として割っただろ? あの時、薬が飛び散って、俺の靴下に付着し、シミを作った。

 あのシミ──どこか、専門の機関に依頼して、詳しく調べてもらえれば、媚薬の成分が検出されるんじゃねえか?」

 小秋は、にこっ、と笑った。「さすがね。あのギャンブルにおける、私の魂胆を見抜くなんて。

 ……それで? あなたは、私に媚薬を盛られた、ということを理由に、私との恋人関係を解消するつもりかしら? それに、けっきょく、襲いはしなかったわけだし」

「いや……それは無理だろな」

 小秋は、ふふっ、と声を出した。「どうして?」

「お前のことだから……撮っているんだろ? 俺がお前の胸を揉んだ場面を、隠しカメラか何かで。

 きっと、俺が、しらばっくれた場合、脅すつもりだったんだ。俺が、お前の胸を、強引に触ったことにして、訴える、とか、自分の恋人になってくれるんなら、不問にしてあげる、とか言って……その場面を収めた動画さえあれば、後は、どうにでもなるからな。その動画における、問題の場面の、前後にあるシーンは隠滅して、『無理矢理、体を引っ張られて、覆い被せられました』と言ってもいいし、動画自体を編集するのもいい」

 さすがね、と小秋は言った。「なんなら、見てみる?」スカートのポケットから、スマートホンを取り出した。

 松久はその画面を見た。リムジンの内部を、斜め上から撮っていて、奥の席に彼、手前の席に小秋が座っている。「見事な逆転劇だったわよ」という、彼女の声が聞こえた。

「もういい……もういいよ。停めてくれ」

 小秋は動画を停止した。ホーム画面に戻すと、スマートホンをポケットにしまう。

「弱みをお前に握られている以上、恋人関係を解消することはできない」松久は溜め息を吐いた。「だがな、これだけは宣言しておく」彼は小秋を睨んで言った。「俺は、いつか絶対、お前と別れてみせる」

「あら、じゃあ私も宣言するわ」彼女は笑顔になると、松久の視線を真正面から受け止めた。「私は、いつか絶対、あなたを私に惚れさせてみせる。心の底からね」

 二人はそのまま、しばらくの間、睨み合っていた。「まあ、それはともかくとして」と、小秋が口を開く。「今は、お弁当、食べない?」

「……まあ、それもそうだな。お前の手作りか?」

「もちろんよ」

 小秋はそう言って、弁当のフタを開いた。ご飯以外、おかずは一面が真っ赤になっている。

「なんだそれ……全部、トマトか?」

「ええ。あなた、行きのリムジンで言っていたでしょ? トマトとピーマンのうち、『どっちかが大好きで、どっちかが大嫌い』って」

「そこから撮影していたのかよ……だが、どっちが大好きかは、言わなかったはずだが」

「賭けたのよ。私、ギャンブルが好きだから」

「そうか。でも俺、ピーマンが好きなんだ」

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