第三十一話 ネゴシエイツ

「なあ、柚田。ちょっと相談があるんだが」

 トイレから帰ってきた松久が最初に口にしたのは、そんな言葉だった。柚田小秋は、「何かしら」と返事をすると、松久の元へ寄った。

「ここじゃなんだから」松久は亜出奈と三藤のほうをちらちらと見た。「廊下のほうで」

「わかったわ」

 そして二人は、廊下に出た。LDKの入り口の扉を閉め、松久が言う。「ギャンブルのルールを、変更してもらいてえんだ」

「変更?」小秋は首を傾げた。「どういう風に?」

「まず、一つ目」松久は、びっ、と左手の拳から人差し指を立てた。「チョコスティックの食べたときのレートを上げてもらいてえ。一センチ一〇〇万円から、一センチ一〇〇〇万円に」

「十倍にしてほしいってわけね」

 この提案は、現在、億を超している松久の喪失金額を、三セット目で解消するのに必要だからしたのだろう。

「そうだ。そして、二つ目」松久は、びっ、と左手の拳から中指も立てた。「プレイヤーたちに、目隠しをさせるようにしてもらいてえ」

「目隠し?」

「ああ。タオルでも、アイマスクでもなんでもいい。目隠しだ。そっちのほうが、『いつ相手の唇と接触するかわからない』という恐怖がある。ギャンブル性が増すだろ? もしかしたら、そのプレッシャーに負けて、根守野が口を離してくれるかもしれねえからな」

「なるほどね」

「それ以外のルールは、今までどおりでいい。どうだ、この提案、受けてくれるか?」

 小秋は腕を組み、うーん、としばらく唸った後、言った。「駄目よ。私の考え出したギャンブルだもの、たとえ松久君であっても、他人に変更されたくはないわ」

 せっかく、彼を億超えの借金地獄に突き落としたのに、レートアップにより取り返されては、意味がない。目隠しをすれば、小秋が三セット目、松久を負けさせるために用意している「策略」が、使いやすくなるかもしれないが。

 彼は、はあ、と溜め息を吐いた。「仕方ない。これだけは言いたくなかったんだが」

「何よ」

「この提案を受け入れてくれないなら」松久はスマートホンを取り出した。「手帳の中身を、今すぐSNSに投稿する」

 小秋は目を見張った。そのまま、彼を睨み付ける。しかし、やがて、目を閉じ、ため息を吐くと、「わかった、わかったわよ」と言った。「あなたの提案、受け入れてあげる」

「よっしゃっ」松久はガッツポーズをした。

「ただし──私からも、三つ、言っておくことがあるわ」

「な、何だよ」

「一つ目」小秋は、びっ、と右手の拳から人差し指を立てた。「仮にあなたが、今回のギャンブルで借金を背負った場合、必ず取り立てるわ。取り立てるなら手帳の中身をばらす、というのはなしね」

「わかっているよ」松久は頷いた。「俺だって、そんなことは言わねえ」

 ふん、どうだか。小秋は心の中で呟いた。

「二つ目と、三つ目」彼女は、びっ、と右手の拳から中指と薬指も立てた。「あなたさっき、レートアップと目隠し以外のルールはそのまま、って言ったでしょう」

「ああ」

「私からも、ルールを二つ、提案させてもらうわ。まず、相手に暴力行為を働いたときの罰金を、マイナス一億円から、マイナス一〇億円に上げるわよ」

 松久は、うぐ、と呻き、顔を強張らせた。そんな彼を見て、小秋は、にやり、と笑った。

(松久君が二つの提案をした魂胆はわかっているわ……まず、レートを一センチ一〇〇〇万円に上げた状態で、二十四センチ以上食べ、自身の獲得・喪失金額を二億四〇〇〇万円以上にする。それから、目隠しにより抵抗できない根守野さんを突き飛ばし、口を離させる)

 そうすれば、松久の勝ちだ。彼は、獲得した二億四〇〇〇万円以上から、罰金の一億円を払い、残りの一億四〇〇〇万円以上を手に入れることができる。

「次に、ギャンブル中に目隠しを外したときの罰金も設けるわ。これもマイナス一〇億円ね」

 松久が、目隠しを除いた場合のペナルティーがないのをいいことに、自分だけそれを取るのを防ぐためのルールだ。

「どう? ……この三つの条件が呑めるなら、あなたの提案、受けいれてもいいわよ」

 松久はしばらくの間、目を瞑った後、見開いて、言った。「わかった。呑もう、その三つの条件」


 廊下から松久とともに戻ってきた小秋は、ルールを四つ変更した。レートアップ、目隠し、暴力行為の罰則金アップ、目隠しを外した場合のペナルティー。

 それらを耳にし、根守野亜出奈は首を傾げた。(ルール変更なんて、事前に柚田さんから何も聴いていないんだけど……どういうことなのかな?)

「根守野さん。ちょっと、話したいことがあるから、廊下に来てくれない?」

 小秋はそう言って、亜出奈を手招きした。廊下に出、LDKの入り口の扉を閉める。

「どうしたの、柚田さん……話って?」

「三セット目の件よ。『策略』は打ち合わせどおり、行ってちょうだい。ただ、眼鏡を使わないから、指示をメッセージとして送ることはできないわ。その時は背中に、指で叩いてモールス信号を打つから、読み取ってね」

「わかったよ」

 モールス信号は、数週間前、内通者として雇われた後に、小秋から教えられたものだ。不測の事態があっても、彼女の指示を受け取れるようにするためだった。

 LDKに戻る。松久はダイニングのテーブルで、「狂姫キャロライナ」のチップスを食べていた。三藤と肥後は、それぞれ、リビングのソファーとキッチンの冷蔵庫前で、スマートホンを操作していた。

 しばらくして、ギャンブルの準備が始まり、小秋に筆で薬品を塗られる。酸っぱいなあ、とぼやいた。塗られ終わった後は、ソファーに座り、彼女が松久の唇に薬を塗り終わるのを待った。

 この薬は本物で、相手に塗られた薬と混ざると反応し、いずれは死に至るような強烈な有毒成分が発生してしまう、と聴いている。当然、そんな命の危険があるギャンブルなど、ヤラセでも参加できるわけがない。もし、自分に塗られた唇の薬が混合し有毒成分が生じるような状況に陥った場合、即座にゲームを中止し救命治療を受けさせる、と小秋は言っており、それで参加を承諾したのだ。本当に治療を受けさせてくれるのかは、正直疑問だったが、何より、彼女が「『チョコスティックゲームにプレイヤーとして参加する』という依頼を完遂してくれたら払う」と言う報酬の額が魅力的だったので、承諾した。自分がワイニング・ファンタジーに嵌まっており、課金用の金が喉から手が出るほど欲しい、というのは紛れもない真実だった。

 がしゃん、と音がした。驚いて見ると、彼の足下に、薬の入ったピンク色の容器が落ち、割れていた。中身が零れ、絨毯にシミを作っている。跳ね返ったらしく、彼のスリッパや靴下にもシミがあった。

「あっ、ご、ごめんなさい」小秋は慌てて謝った。「すぐに代わりを持ってくるわね。肥後」

「かしこまりました」彼女はそう言い、冷蔵庫からもう一つ、ピンク色の小瓶を出してきて、小秋に渡した。

 しばらくして、彼女は松久の唇に薬を塗り終わった。肥後が冷蔵庫から出してきたチョコスティックを、彼と二人で加える。その後は、小秋と彼女の手によって、亜出奈と松久の顔に、タオルで目隠しがなされた。

「よーい、スタート!」という、小秋の声が聞こえる。ギャンブルが、始まった。

(さて……まずは、「策略」を実行する前に、ある程度は食べないと)

 そう心の中で呟くと、亜出奈はゆっくりと食べ進め始めた。まあ、適当なところで切り上げればいいだろう、と考える。

 そして、十センチほど口にした時のことだった。

 背中を、叩かれた。

「STOP」

 モールス信号だ。驚き、食べ進めるのを止めてしまう。結果的に、指示に従った形となった。

「青足が薬をチョコスティックに塗った」「それ以上食べてはいけない」

 亜出奈は目を瞠った。タオルの、白い生地しか視野に入らない。

(なるほど、唇の薬を指で拭い、チョコスティックに塗りつける。それを相手が摂取し、毒の苦しみのあまり口を離すのを待つ……そういう手があったか)

「このままじっとしていては時間切れで負ける」「『策略』を実行して」

 了解、という意味のつもりで、亜出奈は右手の親指と人差し指で丸を作った。

「策略」とは、「パニックに陥った振りをして、松久を突き飛ばす」というものだ。それにより、松久は口を離し、負ける。亜出奈は、ペナルティーの一〇億円を支払うことになるが、どうせ取り立てられない、数字上の借金だ、気にする必要はまったくない。

(よし……それじゃあ、押しますか)

 亜出奈はそう心の中で呟くと、両手を胸部の前に出した。掌を松久に向ける。

 その、次の瞬間だった。

 左頬に、何か、「布のようなもの」が触れた。「布のようなもの」は、接したまま左に四センチほど動くと、離れた。

 どうも、「何か」を松久に塗られたらしい。べとべとした感覚が、頬に残っている。

(でも、いったい何を──)

 思考は、そこで打ち切られた。

「何か」を塗られた箇所が、ひりひりと痛みだしたからだ。

(──ああっ!)心の中で、絶叫する。

 もしかして、松久が塗ったものは、薬品Bと薬品Dを混ぜた、「毒」なのではないだろうか。

(一セット目で塗られた薬品を、洗面所で洗い落とす時、服の袖で拭うか何かして、残しておいたんじゃないか? そして、それと今の三セット目で塗られた薬品を混ぜ合わせ、毒をボクの頬に塗りつけた……)

 いや。そんなことを考えている場合ではない。

 背中で、小秋がモールス信号で何事か伝えようとしているようだが、受け取る気にもなれない。チョコスティックから口を離し、飛び退くと、服を捲り、ごしごし、と頬を擦った。

(早く、早く落とさないと──そうだ! 洗面所!)

 亜出奈はタオルを外した。辺りを見回し、LDKの出入り口の扉を見つけると、それに跳びつき、ノブに手をかける。

「ストップッ!」

 小秋の怒鳴り声がした。びく、と両肩が震え、全身が硬直する。

 亜出奈は急いで振り向き、言った。「早く、早く薬を落とさないと、死死死んじゃ──」

「落ち着いてっ!」彼女の言葉を遮り、小秋が叫んだ。「落ち着いて。根守野さん──あなたの頬に塗られたのは、薬じゃないわ」

「へっ?」

「だいたい、本当に私の用意した薬が塗られたのなら、とっくに意識を失っているはずよ──自分の服の、拭ったところを見てみなさい」

 亜出奈はおそるおそる、小秋に言われたところを見られた。

 そこには、真っ赤な粒々があちこちに混じった、全体的に薄ピンク色の、粘ついた液体がついていた。

「なっ──何だい、これ?!」少なくとも、見るからに、小秋に塗られた薬品ではない。

 亜出奈は答えを求めるように、ゆっくりと松久に目をやった。彼の右手の袖にも、似たような液体がついていた。

「洗面所にあった歯磨き粉に、『狂姫キャロライナ』のチップスを砕いて、混ぜたものだ」松久はタオルを外すと、ダイニングのテーブルに寄り、ウェットティッシュで袖を拭いた。「強力なミントに、猛烈な唐辛子。その二つが混ざっているんだから、そりゃ、ひりひりするわな」

「でっ、でも、君はそんなもの、どこに保管して──」

 松久は右ポケットを指差した。「洗うのが大変だろうし、気持ち悪いけどな。勝つためには仕方がない」

 亜出奈は、がく、と項垂れた。そのままソファーに座る。

 左の頬はまだ、ひりひりと痛んでいた。


 三セット目 結果


 勝ち   青足松久   +一億五〇〇〇万円

        合計   +   三〇〇万円


 負け   根守野亜出奈


 バンカー 旅富三藤

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