第三十話 リプレイズ

 松久は、溜め息を吐いた。

(まさか、喪失金額が億を超すなんて……これじゃあ、三セット目、仮に奇跡が起きて九九〇〇万円を手に入れたとしても、帳消しにはできねえ)

 松久は、ソファーに深く凭れた。再び、長い溜め息が出る。「喪失金額が一億三七〇〇万円だなんて……どうすりゃいいんだ……」という、声が漏れた。金額を間違えていることに気づいたが、訂正する気にもならない。

「えっ?」亜出奈が大声を上げた。「何言っているんだい、君の喪失金額は一億三八〇〇万円だろ?」慌てたように言う。

「ああ……そうだったかな」

「しっかりしてくれよ、まったく……」

「ふん、羨ましいな、人を心配する余裕があって……そりゃそうか、一億六九〇〇万円も稼いだんだから」

「これから先、遊んで暮らせるね」亜出奈は自慢げにそう言い、ふふん、と笑った。

 松久はその後、ぼんやりと虚空を見つめていた。その間に、三藤が洗面所から帰ってきた。しばらくして、テレビに目をやる。

 次の瞬間、見る見るうちに顔が驚愕に染まり始めた。右手を、びっ、と挙げ、「柚田!」と叫ぶ。

「何かしら?」

「…………腹が痛い。トイレに行く」


 松久はトイレで、便器の前に突っ立っていた。座るどころか、ズボンを下ろそうともしない。

 それもそのはず、腹痛というのは真っ赤な嘘だった。かといって、例えば、自慰をして性欲を鎮めに来たわけでもない。もっとも、一瞬だけ、そのことが頭を過ったのは認めなければならないが。

 本当は、一人きりで深く考えなければならないことができたため、便所に来たのだ。

(俺はあの時、根守野の獲得金額を「一億六九〇〇万円」と言った……だが、テレビで確認したところ、実際は一億七九〇〇万円。一〇〇〇万円間違えていた)

 しかし、亜出奈はそれを訂正しなかった。

(なぜ、指摘しなかった? 俺が自分の喪失金額を間違えた時は、言ったっていうのに)

 もしかして亜出奈は、訂正しなかったのではなく、そもそも、誤っていることに気づかなかったのかもしれない。つまり、自分の獲得金額を正確には覚えていなかったのではないか。

(そんなこと……ありうるか? このギャンブルでは、自分の獲得・喪失金額は、何よりも重要なんだぞ……そのうえ、俺の喪失金額は、きちんと覚えていた)

 いや。逆に考えてみよう。

(つまり……根守野にとって、自分の獲得金額は、どうでもよかった。俺の喪失金額のほうが、はるかに重要だった)

 しかしなぜ、どうでもよかったのか。何しろ、一億七九〇〇万円の七割、一億二五三〇万円もの大金を貰えるのだ。どうでもいいはずがない。

(……いや、待てよ)

 貰えないとしたらどうだ? このギャンブルでいくら金を獲得しても、実際には貰えないとしたら?

(たしかにそれなら、獲得金額などどうでもよくなるが……しかし柚田は、「きちんと支払う」と言っている)

 本当は小秋には、支払いの意思がなく、それを亜出奈が見抜いたとでも言うのか。しかし松久には、小秋のそのような言動・行動はわからなかった。

(まさか、柚田から直接、そんなことを聴いたわけじゃあるまいし……)

 そこまで考えたところで、松久は、あっ、と叫びそうになった。

(柚田から直接、聴いたとしたらどうだ?)

 つまり──小秋と亜出奈は、裏で繋がっている。そう想定したら?

(いやいや、待て待て……そんなことして、何になるって言うんだ)

 亜出奈は小秋に雇われたとして、小秋はなぜ、内通者をプレイヤーに潜り込ませる必要があるのか。グルになっている以上、仮に彼女が大負けしたとしても、借金を背負わせるわけにはいかないだろう。審判に徹したほうが、亜出奈からも金を回収できるはずだ。

(根守野に、二セット目の取引の反故みたいな、大勝ちする秘策を伝授して、他のプレイヤーに多額の負債を発生させるため、とか? 旅富と俺に、借金を負わせて──)

「あっ!」今度は、本当に叫んでしまった。

(旅富は関係ない──旅富は関係ないんだ。柚田は──他ならぬ俺に、借金を背負わせたいんじゃないか?)

 なぜ、背負わせたいのか。

(決まっている──恋人にするためだ。「私の恋人になってくれるなら、借金の取り立てを待ってあげる」とでも言って……)

 小秋は、借金により、松久を縛りつけるつもりなのだ。

(…………いや、落ち着け、落ち着け、冷静になれ……)

 松久は二回、深呼吸をした。終えた後、ここがトイレだということに気づいたが、ショックを受けている場合ではない。

(案外、根守野は、たまたま俺の喪失金額を覚えていて、たまたま自分の獲得金額が間違われたことに気づかなかっただけかもしれねえ……そうじゃねえとは言い切れねえ)

 なにか、証拠が欲しい。亜出奈と小秋が通じているという、確証が。

(……そうだ! 「アレ」を使ってみよう)

 松久はポケットから、スマートホンを取り出した。

「アレ」とは、超小型の隠しカメラのことだ。

 持ってきたトートバッグの、缶バッジの表面、鰻の目のところにレンズがある。撮影した映像は、スマートホンの専用アプリで、遡って見ることができる。

 ギャンブルの最中に携帯電話を使うなど、明らかに怪しい真似はできないため、これを使ってイカサマしようなどとは最初から考えていなかった。しかし例えば、ポーカーや麻雀などで、過去の勝負における相手の手を見て、次の勝負の参考にする、ということはできるだろう、と思い、市内の電気街で購入した。実際には、チョコスティックゲームという、手の類いのない賭博だったが。

 松久はアプリを起動し、撮影した映像を画面いっぱいに表示した。公園で亜出奈と会ったシーンまで巻き戻し、コマ送りで見始める。

(どこかに、柚田と根守野が通じていることを証明するものは映っていねえか……)

 そして、しばらく探し続けて、違和感のある箇所を見つけた。

 一セット目のチョコスティックゲームが終わった直後のシーンだ。三藤が眼鏡を外し、それを肥後に渡す。その時、レンズの内側が一瞬、カメラに映るのだ。

 その、レンズの内側の左上には、文字列が三行あった。何と書いてあるかまでは、わからない。

(どうして、三行も文字列があるんだ?)

 眼鏡に表示されるのは、自分と相手の獲得・喪失金額と残り時間のみ、二行だけのはずだ。三行目は、いったい何なのか。

(機械のバグか何かで表示されたメッセージとか?)

 しかしそれなら、三藤が何かしらの反応を見せたはずである。だが彼女は、何かに気づいた様子もなく、眼鏡を肥後に渡している。

(……もしかして、柚田からの指示か? チョコスティックゲームをするうえでの……一セット目での、「唇に指二本で触れ、キスをしたと思い込ませる」という策略……あれはすべて、柚田の指示だったのかもしれない。旅富は、そのメッセージを眼鏡で受け、実行しただけじゃねえのか?)

 松久はさらに、その後の映像も見た。眼鏡の文字列は、その後すぐに三行目が消え、二行になった。それは、小秋がスマートホンを操作するのと同時だった。

(間違いない……柚田はスマートホンで、旅富の眼鏡にメッセージを送っていたんだ)

 そして、小秋が松久に借金を背負わせるため、三藤と内通しているなら、亜出奈だけを放っておくわけがない。おそらく、彼女ともグルなのだろう。

 三人はギャンブルの前に、赤、青、緑の棒によるくじを引いて、バンカーを担当する順番を決めた。選んだ順は、亜出奈、三藤、松久だ。きっと、どの色が何番目なのかを、亜出奈と三藤の二人とも、知っていたのだろう。彼が「三番目」の棒を手にしたのは、偶然ではなかったのだ。

(なんということだ)

 このギャンブルは、三つ巴などではない。

 プレイヤーの亜出奈と三藤、ディーラーの小秋の三人が一丸となり、松久一人を大敗させ、借金地獄に突き落とそうとしているのだ。

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