第二十九話 ブレイクス

 洗面所にて、松久は憂鬱な気分のまま、タオルでびしょ濡れの唇を拭いた。洗面ボウルの右横には、赤と青の、半透明の歯ブラシや、強いミントを含んだ歯磨き粉などが置いてあった。

 各セット終了後、プレイヤーたちは口を念入りに洗浄しなければならない。プレイヤーとしては二回、このギャンブルに挑戦することになるのだが、一回目の薬が残っていると、二回目で薬を塗られた場合に、混じってしまう可能性が高いからだ。

 LDKに戻る。テレビの画面には、黒い罫線で書かれた、四行五列のシンプルな表が映し出されていた。チョコスティックゲーム参加者の、各セットと合計の獲得・喪失金額を表したものである。それを見て、松久は溜め息を吐いた。

(さっきの一セット目じゃ、負けちまって、四一〇〇万円もの損をした……なんとしてでも、二セット目、三セット目で、取り返さなきゃ)

 三藤と亜出奈は、ダイニングのテーブルにつき、大皿に載せられた菓子を食べていた。小腹が空いたとき用に、と小秋が肥後に用意させたものだ。器には、現役彫刻家を雇い手作業でリアルな姿に作らせているという「鳳凰サブレー」、実際に一兆種類もの味があるグミの「兆味ビーンズ」、素手では食べられない激辛スナックとして有名な「狂姫キャロライナ」などが盛りつけられていた。机の端には、ウェットティッシュも置いてある。

「じゃあ、二セット目を始めるわ。まず、先ほどの一セット目と同様、薬品を塗るわよ」

 小秋は肥後に命じ、キッチンの冷蔵庫中から、小瓶と筆のセットを、茶色とピンク色の二つ取り出させた。三藤と亜出奈の口に、薬品を念入りに塗る。三藤は、「それにしても、苦いですわね、これ」とぼやいていた。

 それが終わると、三藤と亜出奈は眼鏡をかけて、肥後が出してきたチョコスティックを咥えた。小秋が、「よーい、スタート!」と言って、スマートホンを操作する。ギャンブルが、始まった。

(はたして、いったいどういう戦いになるんだろう──やはり、一セット目の三藤のように、最初にある程度一気に食べて背水の陣を敷き、相手にプレッシャーを与えるのが定石か?)

 三藤は、そう考えたようだった。勢いよく、チョコスティックを食べ進めていく。

 それを見て、亜出奈は右手を前に突き出し、「待ってくれ、旅富さん!」と叫んだ。

 三藤の前進が、ストップした。「何か、用ですの?」と返事をする。

「提案があるんだよ」

「提案?」

「ああ。今回のこの勝負、君に勝たせてもいい」亜出奈は、にやり、と笑った。「それも、九十九センチ、食べた状態で」

 三藤は目を見開いた。松久もだ。

「ただし、条件がある。獲得金額の半分、四九五〇万円を、ボクに渡すんだ。それを約束してもらえれば、わざと負けてあげるよ」

「ちょっ──何言っているんだよ!」松久が大声を出し、立ち上がった。「そんなことされたら、俺は新たに九九〇〇万円の借金を背負うじゃねえか!」

「どうでもいい。君の事情など」亜出奈は冷たくそう言い放った。

「なるほど……しかし、わたくしが獲得金額の山分けという約束をきちんと守るかどうかは、わからないのではありませんか? もしかしたら、反故にされるかもしれませんわよ?」

「そこは、こうすればいい──柚田さん!」

 話しかけられるとは、思っていなかったらしい。小秋は、びくっ、と肩を震わせると、「なっ、何かしら?」と上擦った声で言った。

「この二セット目での、旅富さんが獲得した金額の半分を、ボクに渡してほしい。お願いできるかな?」

 小秋は、腕組みをした。しばらくの間俯き、うーん、と唸った後、顔を上げて言う。「旅富さんは、それでいいのかしら?」

「よろしいですわよ」

「なら、別にいいわ。面白そうだし」

 松久は、あんぐりと口を開けた。「マジかよ……」という声が漏れる。

「決まりだ、旅富さん──九十九センチ、食べてくれ」

「承知いたしましたわ」

「ああ、ただ、あと二十秒以内に頼むよ。でないと、ボクはタイムオーバーだ」

 三藤は急ぐようにして、チョコスティックを食べ進め始めた。松久は、気が変わって、あるいは何か奇跡が起きて、彼女が口を離すことを願ったが、叶わず、十秒後には、亜出奈の眼前にまで迫っていた。チョコスティックはあと、三センチほどしか残っていない。

 〇・五秒後、残り約二センチになる。美人が二人、キスをしそうになっている光景は、なかなか扇情的だった。松久は思わず、ごくり、と唾を呑み込んだ。

 次の瞬間、亜出奈は、チョコスティックを一センチ強食べた。

 三藤の顔が、驚愕に染まる。亜出奈は、にやり、と笑うと、「青足君!」と大声で叫んだ。

「何だよ」松久はぶっきらぼうに返事をした。

「ボクに、一億九三〇〇万円を支払ってくれ! そうすれば、この勝負、ボクが勝ってあげる」

「えっ、何だそれ、どういうことだ?」

「さっきボクが、チョコスティックを一センチ食べた。今のお互いの持ち時間は、ボクが五十秒、旅富さんが四十七秒だ。残りのチョコスティックは一センチ未満だから、もはや持ち時間を回復させることはできない。このままだと、旅富さんが負ける。ボクの勝ちだ。青足君、君は、九八〇〇万円の借金を回避できる」

 三藤が、般若のような形相で亜出奈を見つめていた。しかし彼女は、大して臆した様子も見せず、睨み返していた。

「でっ、でも、一億九三〇〇万円だなんて……それなら、旅富が勝って、九八〇〇万円の借金を背負ったほうが──」

「よく考えてよ! 君の今の借金は、四二〇〇万円でしょ? それに旅富さんの勝ち分の九八〇〇万円が加わり、ボクの負け分の一〇〇万円が減らされると、一億三九〇〇万円になる。

 でも、今ここでボクに一億九三〇〇万円を支払えば、背負う借金は、四二〇〇万円に、一億九三〇〇万円を加えて、そこからボクの勝ち分の一〇〇万円が加わり、旅富さんの負け分の九八〇〇万円が減らされた、一億三八〇〇万円で済む」亜出奈は、くくっ、と笑った。「一〇〇万円のお得だよ」

「そんだけ?!」松久は大声を上げた。「たった、一〇〇万円しか得させてくれねえのか?!」

「何を言うんだい──一〇〇万円だよ、一〇〇万円! 時給九〇〇円なら一一〇〇時間以上働かないと届かない金額だ!」

 松久は、ちっ、と舌打ちした。「業突張りめ……」と呟く。

「旅富さんが負けるまで、あと二十秒……その間に、どうするか決めるんだ!」

 松久は、押し黙った。亜出奈の話に乗るべきかどうか、思いを巡らす。しかし、どう考えたって、一〇〇万円だけであっても得をする、彼女の話に乗るしかない。

「あと十秒!」

「わかった、わかったよ!」松久が叫んだ。「乗る、その話!」

「やったっ──柚田さん!」

「わかったわ。松久君は根守野さんに、一億九四〇〇万円を支払う、ということで」

 小秋がそう言い終えた次の瞬間、三藤のタイムオーバーを告げる、スマートホンのアラームがリビング中に響き渡った。


 二セット目 結果


 勝ち   根守野亜出奈 +一億九四〇〇万円

          合計 +一億七九〇〇万円


 負け   旅富三藤   -  九八〇〇万円

          合計 -  四一〇〇万円


 バンカー 青足松久   -  九六〇〇万円

          合計 -一億三八〇〇万円

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