第二十八話 パシーヴズ
「そういや、このギャンブルは一度きりなのか?」彼はソファーに腰かけながら、そう小秋に訊いた。
「いいえ。三セット行ってもらうわ。全員に一度は、バンカーを経験してもらうわよ」
その後、亜出奈、三藤、松久の順番で、赤、青、緑の棒による、簡単なくじを引いた。その結果、一セット目は亜出奈、二セット目は松久、三セット目は三藤がバンカーをすることになった。
「バンカーは、ソファーに座ってね。プレイヤーの二人は、まず、これを装着してもらうわ」小秋はそう言って、テーブルの上に置いてあった眼鏡二つを手に取った。「これは伊達眼鏡で、度は入っていないわ。はめ込まれているガラスの左上に、文字と数値が表示されるようになっているの。それらは、自分と相手の、その時点での獲得・喪失金額と残り時間を意味しているわ」
「残り時間?」と三藤が訊いた。
「膠着状態に陥るのを防ぐため、プレイヤーたちに設定されているものよ。具体的には、一分。それ以上経過すると、タイムオーバーとして、その人の敗北が決定するわ。私のスマートホンから、アラームが鳴り響くわよ。チョコスティックを一センチ以上食べると、また一分に戻るわ」
「なるほどですわね……」
三藤はそう言って、眼鏡をかけた。松久も、装着する。
「では次に、薬品を塗るわね。肥後」
肥後は、冷蔵庫から小瓶と筆を、それぞれ茶色とピンク色と赤色の三セット取り出すと、リビングの小秋に手渡した。おそらくは、容器の中に薬品が入っているのだろう。
「さて、青足君。口を開けて」
彼女は茶色の筆の先を小瓶に浸けながら、そう言った。松久は、言われたとおりにした。
小秋は穂先を、彼の唇に擦りつけ始めた。表はもちろんのこと、裏側──口の中まで、しっかりとなすりつける。表側は茶色の筆、裏側は赤色の筆で薬を塗った。強烈な甘みが、味蕾を刺激した。
それが終わった後、三藤の唇にも、ピンク色の筆で薬品を塗った。松久はその様子を、ぼんやりと眺めた。
(それにしても、皆、美人ばかりだ。服も、露出が大胆なものが多いし……)
帆柱私大の実験で、自慰を禁止されていたのがいけなかったのだろうか。少し、勃起してしまった。慌てて、鎮める。
小秋は三藤の唇への薬品の塗布を終えると、肥後に命じ、小瓶と筆三セットを冷蔵庫の中にしまった。「では、次に、チョコスティックを咥えてもらうわね」と言う。
肥後は、冷蔵庫からそれを出してきた。まず、松久が持ち手部分を口にし、その後に、三藤が反対側の端、チョコレート部分を食む。
小秋はスマートホンを取り出した。「落とさないよう、折れないように、チョコスティックを支えるのは、OKよ。では、よーい、スタート!」
彼女はそう言い、携帯電話を操作した。同時に、松久の視界の左上隅に、「自分」「¥0」「60s」、「相手」「¥0」「60s」という、二行の黒い文字列が浮かんだ。「自分」と「相手」の「60」という数字が、「59」「58」という風に、一秒ごとに減っていく。
数秒間、その変化を眺めていた。すると、突然、増加したものがあった。
それは、「相手」の、¥という記号を頭につけた数字だった。「500万」「1100万」「1500万」という風に、どんどん増えていく。
同時に、ポキポキ、ボリボリ、ゴクン、という音も聞こえる。視線を前に戻すと、三藤が、ものすごいスピードでチョコスティックを食べ進めているのがわかった。
(なっ?!)松久は思わず、目を見開いた。(あいつ──怖くねえのか?! 負けたら、食べた分だけ借金を負うんだぞ?!)
三藤は、松久のそんな驚愕にもお構いなしに、猛スピードで食べ進めていく。あっという間に、彼女の獲得・喪失金額は四〇〇〇万円を超えた。
(こ、こうなったら、こっちも食ってやる!)
松久はごくり、と唾を呑み込むと、チョコスティックを食べ進めようとした。
しかし、口が動かない。
(──クソっ……やっぱり怖え!)彼は、ぐっ、と歯噛みした。(今なら、まだ零円──負けても借金にはなんねえ……しかし、一センチでも食べ進めれば、その瞬間に一〇〇万円……負けたら一〇〇万円の借金だ!)
あっ、そうか、と心の中で呟いた。三藤の狙いがわかった。彼女はいわば、松久を、「降ろそう」としているのだ。
(俺の獲得・喪失金額が零円の間に、自分は勢いよく食べ進める──そうすれば、いわゆる背水の陣、絶対に負けねえという意志を見せつけることができる。対して俺は、まだ零円──負けても大丈夫……つまりは、逃げることができる)
三藤は、松久にプレッシャーをかけ、逃げさせるつもりなのだ。
(クソ──そうは行くか、そうは行くかよっ!)彼は一度、目を、ぎゅっ、と瞑った後に、カッ、と見開いた。(俺だって──背水の陣を敷いてやるっ!)
チョコスティックをできるだけ口の中に入れた後、歯で切り離す。左上の、「自分」の獲得・喪失金額の数値が、「700万」になった。
三藤の猛進が、ぴたり、と止まった。彼女はすでに、五〇〇〇万円分食べていた。
(よし──これで、平等なステージに立った……)松久は、ほっ、と安堵の息を吐いた。
それから二十秒は、膠着状態が続いた。お互いに、一センチどころか一ミリも食べることなく、睨み合う。美女に凝視される、なんてシチュエーションは、生まれて初めてだったため、思わず目を逸らしそうになったが、何とか耐え、凝視し返した。
先に動いたのは、三藤だった。彼女はゆっくりと、チョコスティックを食べ進め、徐々にこちらに近づいてきた。負けじと、松久も食べ進める。死地に自ら歩を進めているようで、なかなか度胸が必要だった。
(くっ──逃げたらダメだ!)松久は歯を食い縛った。(これも、旅富が俺を降ろそうとして、プレッシャーをかけているんだ! 「このままじゃ、キスしちまうぞ、今のうちに逃げろ」と……耐えるんだ!)
三藤との距離は、ゆっくりながらもどんどん縮んでいく。松久は耐えながら、何とか、彼女を逆に追い詰める方法はないか、と考え続けた。
(──あっ、そうだ!)閃いた。
そして、三藤との距離が二センチを切った次の瞬間、松久は一気に、一センチ強食べ進めた。
彼女の顔が、驚愕に染まる。松久は、にやり、と笑い、眼鏡の左上に表示されている文字列を見た。
正確には、お互いの残り時間の表記だ。三藤は「49」、松久は「56」となっている。
(このまま行けば、先にタイムオーバーになるのは、旅富のほう……)
時間切れを回避するには、チョコスティックを一センチ以上食べなければならない。
(しかし、俺と旅富の間にあるそれは、明らかに一センチを下回っている)
つまり、もう残り時間を回復させることは、できない。
(旅富が勝つには、なんとかして俺に口を離させなきゃなんねえ……彼女が今、できることと言えば、説得・脅迫の類いだ。が、しかし!)
松久は目を閉じ、耳を塞いだ。これで、説得も脅迫も、できなくなった。
(あとは、旅富が時間切れになるのを、静かに待つだけだ)
三藤の香りが、鼻腔を擽る。少しばかり、むらむらとしてしまった。慌てて、別のことを考えようとする。
目を閉じる直前に見た、自分の獲得・喪失金額によると、今回のセットでは、四二〇〇万円も手に入れられる。これなら、十分、帆柱私大に進学することができる。暗闇と静寂の中、入学したらどんなキャンパスライフを送ろう、と思いを巡らす。
だが、その思考は、途中で打ち切られた。
唇に、ぶにゅっ、という生暖かい感触があったためだ。
全身が、硬直する。
次の瞬間、松久は目を見開き、後ろへ文字通り跳び退いて、唇を、ごしごし、と右手の掌で拭い始めた。
(やばいやばいやばいやばい嫌だ嫌だ死にたくねえ──)
腕を動かし、ひたすらに拭う。しばらくしてから、小秋が「皮膚についただけでも死に至る」と言っていたことを思い出した。
(そうだ手で拭っても意味ねえ服服服じゃねえと服──)
松久はシャツで手を擦り始めた。捲り上げ、唇も摩る。腹が見えてしまうが、気にしていられない。
そのうちに、妙なことに気づいた。
体調に、何の変化もないのだ。それどころか、痛みや苦しみの一つも感じない。
(ど……どういうことだ?)
松久は、シャツから手を離した。ゆっくりと、三藤のほうを向く。
彼女は眼鏡を外しており、肥後にそれを渡していた。レンズの内側の左上に、文字列が三行、並んでいるのが見える。三藤は、彼が視線を遣ったことに気づくと、右手を見せてきた。
三藤は、拳を作っており、そこから、人差し指と中指を、くっつけて突き出していた。
(──あっ……ああっ! あああああっ!)
それを見た瞬間、すべてを理解した。
三藤は、キスをしてきたのではない──人差し指と中指で同時に、松久の唇に触れただけなのだ。
そして、「キスをされた」と彼に思い込ませ、その場から跳び退かせ──チョコスティックから口を離させたのだ。
(相手の体に触れることは、禁止されちゃいねえ……暴力じゃねえし……)
松久は目を瞑っていた。そのため、自分の唇に触れたものが、三藤の唇ではなく、指だとは気付かなかった。
「──ちくしょうっ!」
松久は、右腿を右手で、強く殴った。
一セット目 結果
勝ち 旅富三藤 +五七〇〇万円
負け 青足松久 -四二〇〇万円
バンカー 根守野亜出奈 -一五〇〇万円
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