第三話 インヴァイツ

 松久の目の前に、突如、一〇〇万円の札束が出現したのは、ちょうど一週間前のことだった。

 その日は、午前中に一学期の終業式があった。その後彼は、図書室で、夏休みの宿題用に、英和辞典を借りようとしていた。

 松久は、テーブルの上に辞典を広げ、ぱらぱら、とページを軽く捲り、眺めていた。その見開きの上に、突然、札束が現れたのだ。

「んわっ?!」

 思わず声を上げ、軽く仰け反る。ふと、机を挟んで反対側に、誰か立っているのが視野の隅に入ったので、目を向けた。

 そこには小秋が、右手をこちらに向けた姿勢で、いた。彼女が、札束を投げたに違いなかった。

「お金、欲しくないかしら?」小秋は微笑んで、そう言った。

 美少女で、大企業のご令嬢ということで、学校全体で、いろいろと噂になっている。異性の話題に疎い松久も、彼女の存在自体は知っていた。しかし、直接話すのはこれが初めてだ。彼は札束を手に取り、ぱらぱら、と捲ってみた。

(すげえ……全部、本物だ……)

「全部、本物でしょ?」いつの間にか隣に来ていた小秋が、札束を取り上げた。「ちょっと、手伝ってほしいことがあるの。バイト代は、一〇〇万円」

「やってほしいこと……」松久は思わず鸚鵡返しをした。「……犯罪か何かか?」じろり、と彼女を睨む。

「まあ、法律違反ではあるわね。でも、それほど物騒じゃないわ」小秋は椅子を引き、座った。「ギャンブル関係よ」

「ギャンブル……賭博?」

「そう」両肘をつき、こちらに身を乗り出してきた。「それも、あなたがプレイする必要はないわ。私が参加するから、付き添ってほしいだけ。早い話が、『立っているだけ』よ」

「立……立っているだけ、だと?」

「ええ」小秋は、にやり、と笑った。「どう? 興味沸いた?」

「そ、そりゃあ、少しは──」松久は札束を、ちらり、と見た。(あれがあれば、大学への進学という夢が、一歩実現へと近づく)

「じゃあ、明日の午後一時、三前(みつまえ)駅のロータリーの、三番バス停前に来て。それから、私の隠れ家に移動して、そこで詳しい話を教えるわ」小秋は、カウンターの図書委員のほうに一瞬、視線を向けた。「ここじゃ、他人に盗み聞きされちゃうかもしれないから。予定、空いている?」

「空、空いているよ。分かった、行く」

 小秋は、にこっ、と笑った。「約束よ」立ち上がり、すたすた、と図書室から歩き去ってしまった。


 当日、松久は、指定された時刻の二十分前に、その場所にいた。ときおり腕時計を見て、そわそわしながら小秋を待つ。

(早く来ねえかな、柚田のやつ……)

 そして、約束の時刻の数分前に、小秋は来た。

「お待たせ、青足君」

 小秋は、白のノースリーブのブラウスを着、ホットパンツを穿いていた。ショルダーバッグを、肩から提げている。右手に、綿製の白い手袋をはめていた。

「あら、どうしたの?」

「あ、ああ……」見とれてしまっていた。「いや、なんでもねえ」なんだか、適当にシャツやズボンを選んで着た自分が、恥ずかしくなってくる。

「そう。じゃあ、行きましょうか。こっちよ」

 小秋はそう言い、歩き出した。松久も後をついていく。お互いに無言で、気まずさを感じた。

(な、何か、話題を出さねえと……)

「そ、そう言えばさ……柚田って、SNSとかやっているのか?」

「別に、やってないわよ。青足君は?」

「い、いや、俺もやってねえ……」

「あら、そう。やったら?」

「あ、いや、ちょっと、面倒で……」

「ふうん」

 そこで、会話は終わってしまった。数十秒後、新しい話題を出す。

「そう言えばさ……なんで柚田って、夏でも手袋をはめているんだ?」

「…………昔、ギャンブルで手を賭けたことがあったのよ。それで負けちゃって、ひどい傷跡が残っていて……」

「そそ、そうだったのか……悪いことを訊いたな……」

「気にしてないわよ、別に」

 今度は、なんだかさらに気まずくなってしまった。

 その後も松久は、懸命に話題を考えては、ぽつぽつと口に出した。しかし、どれも、長い時間は続かなかった。

 小秋は、町を少し歩いた後、安古山の中に入り、車道を進んでいった。しばらくしてぶつかった丁字路を、右に曲がる。歩いている途中、何回か、どおん、という大きな音がした。彼女によると、この辺りでは狩猟が盛んで、しばしば銃声が鳴り響く、とのことだった。

 そこからさらに行くと、左手に脇道があった。小秋は「こっちよ」と言い、そちらに進んでいった。小路は細く長く、アスファルトはぼろぼろだった。綺麗に手入れされていた、先ほどの車道とは大違いである。

 進んでいくと、小川に出くわした。朽ち果てた橋を、落ちないよう慎重に渡る。数分後、四階建ての建築物が見えてきた。見た目だけは豪邸のようだったが、荒れ放題で、窓もほとんどが割れている。塀は朽ちていて、跨げるほどの高さしか残っていなかった。今は、誰も住んでいないことは明白だった。

「廃別荘よ」小秋は門をくぐった。「大昔に、どこかの金持ちが建てたんだって。完全木造らしいわ」

「へえ……」

 玄関が目に入ったので、松久は門をくぐった後、それに向かって歩いた。しかし、小秋に「そっちじゃないわ」と呼び止められた。思わず、「えっ?」と声が出る。見ると、彼女は、玄関から十数メートル左に離れた場所にある、トンネルの前に立って、手招きをしていた。

「なんだこれ?」

「中庭に続くトンネルよ。この廃別荘は、中央に広大な、正方形の中庭があって、それをぐるりと取り囲むように、居住棟が建っているの」

「ふうん」

 トンネルは、車道によくあるような半円ではなく、四角形をしていた。出入り口には鉄製の扉がついており、中庭側のそれは、左のほうだけが外れ、地面に倒れていた。玄関側の出入り口の左隣には、焼却炉と、物置があった。それを横目に見ながら、中に入る。小秋に続いて数秒歩くと、中庭に出ることができた。

 やはり、建物同様、手入れはされておらず、植物は伸び放題だった。中央に大きな円い池があるが、水は張られておらず、底の石畳が見えていた。小秋によると、中庭は「船」をテーマにデザインされている、とのことだった。言われてみれば、あちこちに、碇や操舵輪、羅針盤などの、木製のオブジェが置いてある。

 トンネルの、中庭側の出入り口近くにも、樽のオブジェが置いてあった。壁の雨樋にくっつけるようにして、据えられている。上部の底面はなく、空っぽの中身が見えていた。そして、正方形をした中庭の、トンネルのある辺に対し平行に、池中央に橋が架けられていた。また、シンメトリーが意識されており、中庭は橋を軸として左右対称になっていた。

「うーん……」小秋は辺りをきょろきょろと見回した。「おかしいわね……」

「どうしたんだ?」

「実は、あなた以外にもう一人、呼んでいるんだけれど……どこに行──」

「その人が、もう一人の仲間っすか?」

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