第2話
(スマホおっけー。イヤホンおっけー。靴紐おっけー。家の鍵おっけー。)
さあ準備万端だと玄関のドアを開けて外に出れば肌寒い空気が頬を撫でた。現在沖縄にいる台風が過ぎたころにはより秋が近づいてくるだろう。秋は好きだ。一年の中で一番色鮮やかで、紅葉を眺めながら散歩するのは楽しい。昼間にも外に出ようと思える。だけど寒いのは少し嫌だな。暑いよりかはマシだけど。なんて思いながらアパートを出ると、イヤホンが右耳からするりと抜け落ちた。そのおかげで外の音が入ってくる。ざっざっざっざっ。足裏をぶつけるような足音に「あ、やば」と思った時にはもう遅い。前方の角から姿を現した仕事帰りと思われる藤咲さんと遭遇してしまった。
「…………藤咲さんお疲れ様でーす」
「…………」
眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいる彼にから笑いが思わず出る。足早にこちらに近づいてきたかと思えば、ガシリと腕を掴まれた。確保されてしまった。アパートに逆戻りすることになってしまい、今日は一週間ぶりだったんだけどなあとため息をつく。
仕方ない。ゲームでもしようかと考えていると、彼は私の家の扉の前を素通りした。あれ?と後ろを振り返っている私の腕はまだ掴まれている。別に逃げやしないのに。鍵を取り出しガチャガチャと音を立てる藤咲さんはさっきから無言でちょっと怖いけど、私は勇気を出して話しかけた。
「あの、藤咲さん?」
「……なんだよ」
「もう散歩行かないんで、手を放してもろうてもええですか?」
「飯食ってけ」
「はい?」
脈絡がなさすぎる。思わず聞き返せば、扉を開けてから漸く手を放してくれた藤咲さんがこちらを見た。
「あんた、なんかまたやつれてんぞ。店からあまりもんもらったからあんた食え」
「ええええ……こんな時間に肉はちょっと……」
「とりあえず入れ。近所迷惑になんだろ」
「ええええ強引んんん」
マジか。この人アッサリ私あげたけど、彼女いないのかな。上がっていいのかな。初めて異性の部屋に上がった私は若干ソワソワしながら藤咲さんの背中を追ってリビングに入った。間取りは同じ筈なのに、置いている家具や予想外にも綺麗に整頓されているせいか全く印象が違うように見える。机に置かれたポリ袋の中を覗けば、焼き鳥や焼かれた肉の他にもサラダなどがあった。藤咲さんは焼肉店で働いているんだったかと、知り合った当初の会話を思い出す。焼き鳥はともかく肉はさすがに焼き直すようで、持ってこいと言われ袋から取り出し手渡した。
にゃーん。可愛らしい鳴き声が聞こえ、視線を下ろせば藤咲さんの飼い猫である田中さんが私の足元にいた。澄んだ青い瞳が撫でてくれと言っているように見えて、私はしゃがみこみ田中さんへと手を伸ばす。田中さんの白い毛並はつやつやで、藤咲さんが愛情かけて育てていることが窺えた。顎のところを撫でればゴロゴロと喉がなって、気持ちよさそうに目を細めている。捨て猫だった田中さんに運が良かったねと心の中で話しかけた。
(こんな優しい人に拾われて羨ましい)
私もお金持ちの人に拾われて養われたいわー、なんて。そんなバカげたことを考えているうちに調理し終えたらしい。言われた通りにお茶と箸を持って机に向かう。藤咲さんが座った向かいの席に座ってまずはサラダから手をつけようと箸を伸ばしたけれど、思うコトがあって動きが止まった。
「どうした?」
怪訝に思った藤咲さんを見つめた後、箸を一度置いて手を合わせる。
「い、いただきます」
「! おう」
久しぶりにちゃんとすると、なんだか気恥ずかしい。日本人の美しい礼儀作法だと思っていても、食欲を無くし、生きるために最低限食べる程度で、一人で暮らしていれば余計にしなくなっていった「いただきます」「ごちそうさま」。食材を作ってくれた人、料理を作ってくれた人に感謝するというこの行為は、言われた方に嬉しさを与えることを数年ぶりに思い出した。笑った藤咲さんから視線を外してサラダをつつく。コーンうまい。
「あんた針金みたいに細いのにダイエットでもしてんのか?」
「は、はりがね…………それはさすがに初めて言われた……」
「あんたダイエットしなくても十分細いんだからちゃんと食べろよな」
「あー……あの、心配してもろうとるところ悪いんですけど、私ダイエットはしてないですよ?」
「あ?じゃあなんでやつれてんだよ」
「ただ食欲なくて」
「食べろ」
「いやでも、無理に食べようとすると吐き気が、」
「それでも少しは食べろ。体は一番の資本なんだから」
「……はーい」
本当は三日もお茶と少しのチョコで過ごしていると言ったら雷落ちそうだ。そんな気配を察知した私は静かにお口にチャックをした。
結局、小さくなった胃と碌に食べていなかったせいで突然の肉に驚いた胃が盛大に腹を下したことで私はあまり食べることができなかった。痛むお腹に眉を寄せていると田中さんがお腹に乗って来た。藤咲さんは退けようとしたけれど、私的には暖かいし重みがあるほうがいいのでそのままにしておいてもらう。無理に食べさせた罪悪感があるのか、藤咲さんの眉は垂れ下がってしまっていた。自業自得の結果だというのに、人様に心配をかけてしかも迷惑までもかけてしまっているなんて、申し訳ない。胸に湧き上がった思いに蓋を重ねようとしても、溢れそうになってくる。ああ嫌だ、辛い、な。
「……藤咲さん、私帰るよ」
「痛み和らいだのか?」
「うん。すんません、迷惑かけちゃって。美味しかったです」
「店のあまりもんだけどな。今度店来いよ」
「考えときます。おやすみなさい」
「おやすみ」
痛いお腹に手を当てながら廊下を歩く。冷たい廊下に、これから一人になるのだと知らされる。今日はダメな日だと気付いてしまったから、余計家への足取りが重くなる。自分の家の扉までの距離が通常よりも長く感じて、玄関の扉を閉めた瞬間ボロリと大粒の涙が落ちた。
朝日を待つ 船 @yoruhune109
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