第44話

病棟看護師の日誌

午前8時にドナー(臓器提供者)の状態確認。憔悴した様子。昨晩はほとんど眠れなかったという。

こちらから朝の挨拶をすると、「おはようございます」との返答があった。

バイタル測定。血圧、脈拍、体温、酸素飽和度異常なし。

動作は普段よりやや緩慢だが、渡された手術着に自分で着替えた。

精神的にも概ね安定していると思われた。

ベッドからストレッチャーに移動。

午前8時30分、病棟を出発。別棟の手術室へ向かう。

手術室でオペ担当看護師と本人確認。

ドナー本人より「ありがとうございました」と発声あり。



麻酔科医からの聴取

私の責任? いや、責任と言っても、まだ麻酔の導入前のことですから……。

つまり、麻酔管理が始まる以前のことまで責任って言われても困りますね。

ええ、確かに静脈路の確保も含めて、私自身がやるべきだったと思います。

でも、熟練した看護師のほうが実際に針を刺すのは上手いでしょ?

麻酔科医としては恥ずかしい話ですが、彼女にしてもらうほうが、手順としてスムーズだと思ったんです。

はい。看護師の静脈確保に問題はなかった思います。

問題と言っても静脈に針を刺して点滴につなげるだけですから、その過程で問題が生じることなんか考えにくいです。

麻酔科医としての見解は、事故ですらないというか……。

元の疾患がどれくらい影響したのかは分かりません。

そのあたりは病理医の判断を待つしかないんじゃないでしょうか?

え? 今回は剖検はできないですか……。

まあ、悪性腫瘍ですから、全身性の影響が出ても不思議ではないです。

体液のバランスに異常が生じることもまれではないでしょう。

しかし、今回は術前の検査で問題はありませんでしたし、心電図上も正常範囲でした。

それは、長時間の携帯心電図で記録すれば、不整脈の一つも出たかもしれません。

でも、それは通常の検査ではありませんし、このような発作的な状態変化を予測することは不可能です。

言い方は悪いですが、一言で言えば「仕方ない」ということじゃないでしょうか?



執刀医師の日記

ドナーの手術が開始されたのは午前9時前後だった。ドナーの状態については睡眠不足の報告以外変わりなく、バイタル上も安定していた。

ドナー担当の医師による脳の部分切除が完了したとの知らせがあったのは午後1時頃だった。手術開始から4時間程度での完了は、順調な滑り出しと言えた。予想に反してドナーの全身状態は安定していた。しかし、仮に術後生存し続けたとしても、深刻な障害が残ることに変わりはない。


問題が生じたのはレシピエント(被移植者)の入室後、麻酔導入が行われる直前のことだった。

オペ室の看護師から、すぐ来るように連絡が入った。

到着したときには、すでに心肺停止の状態で、麻酔科医が蘇生を図っていた。

こういった場合、呼ばれたとしても外科医の仕事はない。

麻酔科医は自分の失態を取り戻すパフォーマンスのつもりなのか、普段より執拗に蘇生処置を繰り返した。

60分後には彼女の死亡が確認された。


きっとレシピエントは遺伝的な循環器疾患を抱えていたに違いない。

彼女の父親も若くして詳細不明の感染症で病死しているが、きっとその形質を色濃く受け継いだのだろう。

今日は、私だけでなく人類にとっても記念すべき日になるはずだった。

今回の手術の成果自体は公にはできなかったかもしれないが、脳移植さえ可能になれば、治癒が不能の神経疾患に新しい治療の選択肢ができるはずだった。あるいは、人間が老いにおびえて暮らす必要がなくなる可能性だってあったかもしれない。

そんなことを夢想していた、おめでたい自分が歯がゆい。

この種の手術を行うことは、推進役の協力者、ドナーとレシピエントの稀有な邂逅がなければ不可能だ。

きっと、私に医学を推進させるチャンスが巡ってくることは二度とないだろう。

浅井先生は入院中で面会することもできない状態とのことなので、報告することもできない。

しかし、結果をお伝えする機会を得たとしても、私には説明の言葉すらない。

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