第29話

 麻痺していた感情が徐々に蘇ってくる。

“ドウシテ?”という言葉が渦を巻いている。

“ナゼ?”という根源的な疑問の答えに端緒もつかない。


 長期入院になるにあたって、理事長から彼女にαの説明はしているらしい。

 彼女はそれをどんな気持ちで聞いたのだろうか? どこまで聞いたのだろうか?

 自分のせいで多くの人が犠牲になったという事実に、彼女は耐えられないだろう。聞かされたのはごく一部であるに違いない。彼女に追い打ちをかけるような事実を決して知られてはならない。


 彼女の口からαという言葉を確かに聞いた。

 ……「αの中でなら、狂ったわたしは狂ってないの」

 あれはどういう意味だったのだろう。


 ボクも感染者なのか聞いたとき、理事長はしばらく考えた後、ボクにはαに特異的な“耐性”があるから、「可能性が低い」と言った。全ての人間が平等に感染する訳ではないらしい。しかし、「可能性が低い」ということはゼロではないということだ。


 知らないうちに感染の危険にさらされていたことについて、不思議と腹は立たなかった。まずは、最も濃厚な感染源が彼女であることが大きかった。そして、巻き込まれた災厄の規模の大きさを前にしたときの無力感もあったかもしれない。だって仕方ないだろう? 病棟まるごとが病原体の牧場だと聞かされたのだから。


 老獪な理事長のことだ。ボクが事態を受け入れることができるタイミングを虎視眈々と伺っていたということも考えられる。この病棟にいる限りすべて、理事長の手の内なのだ。彼は手段を選ばない男だ。目的に適うならすべてを肯定するだろう。もし、病室の様子や会話が筒抜けであったとしても驚くには当たらない。


 それにしても、入院の対象者として、なぜボクだったのか? αに対する耐性以外にも、きっと理由はあるのだろう。


 どうして彼女と突然同室になったのかも聞いていない。


 多くの謎は残っている。しかし、少なくともあの老人とボクの利害は基本的なところで一致している。

 どんな思惑が働いていても良い。理事長の手の上で踊った結果であったとしても良い。目的に適っていれば構わない。だいたい、ボクが構うかどうかなんて誰も気にも止めないだろう。


 彼女を守りたい。彼女を救いたい。

 彼女の中毒者ジャンキーとしては、それが全てだ。

 手段は目的によって肯定される。この点も理事長と全く同じだった。


 もともとは彼女一人に投与されていたαが強い感染力を獲得して、病棟に拡大したのだ。後から同様の症状を示した患者で、痙攣や呼吸器感染の合併から死亡した者もいるという。現在の病棟は辛うじて症状の発現や悪化を抑えており、常に危険な綱渡りをしている状態だ。根本的な治癒は望めないのだから、このままαもろとも死に絶えるのを待つしかないということになる。


 病棟は表面上穏やかさを保っている。この中で病原性のタンパク質がうごめいているということが実感として掴みづらい。

 もちろん患者の中には、記憶障害・理解や判断能力の低下、人格の変化、異常な行動を伴う者が多数いるが、精神病院がこんなものであると言われれば、そうなのかと思えた。

 患者一人一人の神経組織がαの温床となっている。その話のほうがずっと現実から遊離しているように感じる。

 ただし、この病棟が“普通の”状態ではないと言われれば、普通を知らないボクからでもそう感じるところはある。まず、自分が入院してから、まだ一度も退院や外泊がない。面会者もいない。看護師たちが詰所以外では、ガウンと微粒子用のマスクをしている点も異様だ。


 奇妙な世界に住み続けると、自分にとって価値のあったものの全てが妄想ではないか疑わしくなる。

 彼女が存在し、話をしたことが、嘘であるような気がしてきた。

 少しでも心に温もりをもたらすもののことを考えたくなる。

 無性に彼女に会いたかった。無事でいてくれるだろうか? まだ、この世から消えてないだろうか?

 顔を見るまでは安心できなかった。

 

 病室に入るとドジョウが前足を上げて跳びかかってきた。

 何かがオカシイ。

 

 彼女が床に倒れていた。

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