第28話

「あなたと会うのは、入院の時以来かな? 快適に過ごしているかね?」

“死ぬほど快適です”と言おうとしたが止めておいた。きっと、皮肉は通じない。


「私の孫娘とは仲良くしてくれているようだね。お互いを思いやるのは、病めるものどうし大切なことだ」

 ボクは疲れ過ぎていて、反応らしい反応を返せないでいた。

「あなたには早い段階で説明が必要であると考えていた。ただ、私にも決心というやつが必要でね。ここまで機会を引き延ばして申し訳なく思っているよ」


 理事長は軽く咳払いをしてから、次のように語った

「まず、伝えておかねばならんのが、この病院は今普通の状態ではないということだ。私たちは病原体の支配する現在の環境を“α空間”と呼んでいる」

 惚けた頭に対しても雷が落ちたくらいの衝撃があった。それは前置きなく行われた非常事態宣言のように聞こえた。

「誤解を怖れずにいうと、ここは“牧場”だ。αと呼ばれる病原体を飼い慣らし、有効利用するための“牧場”なのだ」

 また、α(アルファ)だ。朦朧としているが、この言葉だけは頭に突き刺さる。

「αというのは、当初私が病状経過を左右する不確定要素に対してつけた名称だった」

 理事長は声を一段低くして語り始めた。

「ちょっと、昔話につきあってもらえるかね? かつてマスコミを賑わせたことのある狂牛病という病気を覚えておられるかな? あの疾患を媒介していたのがプリオンと言われるタンパク質でね。神経細胞の変性をを来して脳が海綿スポンジ状になるので、海綿状脳症とも呼ばれている。私は一度、脳腫瘍に海綿状脳症を合併した稀有な症例を経験してね。一つだけでも低確率の事象なのに、それらが二つも重なってしまった患者本人の不幸と、その患者を診ることになってしまった自分の不幸を呪ったものだよ。だがね、なぜか脳症による人格変化や認知能力の低下が進行するにつれて、それまで重篤じゅうとくだった脳腫瘍による神経症状が軽減してね、彼はそれまで予測されていた寿命よりはるかに長い生存期間を全うしたのだ。私は天啓を得て、御家族の了承のもと、解剖と病理学的検査を行うことにした。驚愕したよ。脳症の主要な病理的徴候である海綿スポンジが腫瘍を食っていたんだよ。考えてみれば当然で、プリオン側からすれば、感染によって起こる細胞変性の対象を正常な細胞のみに限定するする義理はないからね。つまり、外科的に摘出のできない腫瘍をプリオンが摘出してくれたというわけだ。当時の私は意気込んで海外の神経学雑誌に希少症例として投稿したが、海綿状脳症の診断に関する些細なデータ不備で誌面に取り上げられることすらなく埋もれてしまった」

 彼は頭を掻きながら、「悔しかったなあ」と感情のこもった述懐を付け加えた。医学用語の羅列について行けず、辟易していたところに、彼の悔しさだけは伝わってきた。


「年寄りの昔話につき合わせてすまなかったね。今度は今の話だ。申し訳ないが身内の話をさせて頂きたい。同意してくれると信じているのだが、孫娘は気立ても器量もいい子でね。すでに他界した娘夫婦にとってはもちろん、私にとっても自慢の孫だった」

 理事長はこのとき確かに「だった」と言った。それは悲しげだが、明らかな事実を伝える迷いのない口調だった。それと、シズカちゃんの父親についてはユウさんから聞いていたが、母親も亡くなっているというのは初めて聞いた話だ。


「あの子の脳は今、癌に侵されている」

 “癌”という言葉が他の医学用語と同じように外国の言葉にしか聞こえない。脳がその意味をとらえることを拒否している。

 

「話を急がしてもらおう。きみも疲れているようだ。どんな方法を使っても、……これは“どんな犠牲を払っても”と解釈してもらって構わないんだが、私はあの子を助けようと決心した。つまり、彼女にプリオンを感染させて、腫瘍を内部から摘出することにした」

 

 ボクは固まったまま返事もできなかった。きっと、理事長はボクが何の反応も示さないことに失望しているだろう。しかし、どんなに失望させようと理解できないのだ。どういうことなのか、言葉の意味そのものの難解さより、どうしてそんなことが起こるのか、どうしてそういうことになってしまうのか、頭が麻痺したように次に必要な処理をしてくれないのだった。


「狂っていると思うかい? 自分の大切な孫に故意に致死的な病原体を感染させるなんて……。しかし、あのまま指をくわえて見ていれば、半年も経たないうちにあの子の脳は腫瘍に食い尽くされることが分かっていた。毒を制するには、対等かより強力な毒を以て成すしかないと判断したのだよ」

 充血した彼の目には、本来人が手にしてはならない力が宿っている気がした。


「そうだ。狂っているのはあの子ではなく、私のほうだ。このような“判断”はもう判断とも呼べない。これは狂信だ」

 彼の顔には自嘲とも自信ともとれるような複雑な表情が浮かんでいた。


「しかしね、狂人の一念というやつは、なかなか侮れないようだ。あの子へのプリオン投与を開始して間もなく、画像上、腫瘍の増殖はほぼ停止した。表情の不自然さは残っているが、少なくとも神経症状も大きく改善したのだよ。私は快哉を叫んだ。しかし、当然その報いもある。今のところ、それは人格の変化と記憶障害に現れている」

 理事長は苦い顔をして後の言葉を続ける。

「本来、このようなはずはないのだ。感染が成立してから発症するまでの期間もずっと長い予定だった。しかし、狂った年寄りの願いに神はそこまで寛容ではなかった。培養する過程での突然変異というやつだろう。採取した当初のプリオンと現在病棟に蔓延しているαとは全く別物だ。今のヤツは飛沫感染もするちょっとした細菌兵器だ」

 “細菌兵器”……自分の選択が招いた重大な結果を冷静に語り続ける理事長に薄気味悪いものを感じる。

「しかし、完璧な善がないように、完璧な悪も存在しないのかもしれんな。自然はちょっとした抜け道を準備してくれた。プリオンの増殖を抑制し、急性の神経症状の発症を予防する薬剤として、他のウィルス感染に使用される抗ウィルス薬が有効だったという報告があってね。姑息な手段だが、現在病棟の患者全員にこの薬を服用してもらっているわけだよ」

 彼が執拗に服薬の必要性を説く理由はここにあるのだろう。まさにαの感染者が溢れるこの病棟では、服薬が“命綱”であり、ノー・ドラッグ、ノー・ライフなのだ。


「年寄りの冷や水がとんだ結果を招いてしまった末路が、この表面上は平穏な地獄というわけだ。ただ、不思議と、私は後悔しておらんのだよ。たとえ、本当の煉獄に落ちることになろうとも、一片の迷いもなく私はこの行為を肯定する。あの子の救済、……これが救済と呼べればの話だが、この目的の前では、世界中の人間の命や精神機能など塵ほどの価値もない。鬼だろうが、悪魔だろうが、私は最悪の執行者となって、この始まってしまったうたげを完遂する」


 大きく息を吐き、最後に彼はこう言った。

「この私を止められるかね?」

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