第26話

 久しぶりに、彼女の本当の笑顔を見た気がした。

 彼女の前に跪いたまま、声を聞く。なぜだか、それが一番相応しい気がした。

「やっと本当の言葉で話してくれた。また、上辺で甘いことを言われたら、あなたのこと殺してたかもしれない」

 彼女が小さく笑い声を上げる。たとえ殺されたとしても、自分は“これ”が欲しかったんだと確信する。


「最高と最低との間がないの。天辺に行ったかと思えば、次の瞬間には真っさかさま。感情のない乾いた場所なのに、上下だけがあるの。わたしは“砂漠のジェットコースター”って呼んでる。冗談めかして呼んだりでもしないとやっていけないのよ。それと、なんか名前つけるのって好き。自分がまだ空白じゃないって気がする」

 苦しそうに、嗄れた声のまま、彼女はしゃべり続ける。今がちょうど“ジェットコースター”の止まらない状態なのかもしれない。

「どんなふうになったとしてもわたしはわたしにしかなれない。タマネギの皮みたいにどこまで剥いても目的のはない。この世界が空白なら、あたしが空白でも当たり前でしょ?」

 彼女の言うことが段々掴めなくなる。すり抜ける。


「また、魚の大群が頭の中に押し寄せてくるわ 予感がするの」

 彼女がボクの手をぎゅっと握りしめる。爪が立ち、痛みが走る。


「ねえ、こういう話きいたことある? すべては何かの準備だって。無駄なことはなにひとつないって。それが本当だとしたら、わたしのこの苦しみはいったい何の準備なんだろう? もしかして次の世界に行くための準備なのかな? へへっ」

 笑いから、寒々とした苦しみが伝わってくる。

「わたしはだんだんわたしじゃなくってる。わたしは崩れていってる。それが毎日わかるの」

 ボクにもわかる。目の前の彼女が崩れていっていることが手に取るようにわかる。

「でも、αの中でなら、狂ったわたしは狂ってないの」

……α(アルファ)。Dr.も言っていた。何だ、ソレは?

でも、尋ねることができない。彼女へ質問することは残酷であるような気がした。


 ベッドの側で眠っていたドジョウが、突然入り口の方向を向いてうなり声を出した。

「犬、いいわね。何かを所有するのってすてきなことよ。昼間ずっとクンクン鳴いてた。きっと、あなたのことを待っていたのよ。……わたしね、ずっと一緒にいてくれると思った。あなたなら、ずっとわたしを見てるくらい暇だから死ぬまでつきあってくれると思ったの。見込み違いだったかしら?」

「いえ、暇です。むちゃくちゃ暇です」

 彼女が貫くようにボクの目をのぞき込む。

「わたしがオカシクなって、わたしがわたし自身を分からなくなっても、わたしのこと覚えていてくれる? ずっとあたしと一緒にいてくれる?」 

 最後に彼女は付け加えた。

「きっと、死ぬまでよ」

 ボクは強く頷くことしかできない。

 彼女の中毒者として生きる。体中の血が逆流し、一瞬で決めた。

 そうでなければ、生きる意味はない。


「ボクは」 

「言葉にしない方がいいこともあるわ」

 彼女は手でボクの口を覆うようにした。

 一瞬息ができなくなる。

 手の皮膚から体温が伝わってきた。

 彼女の指から発散される臭気が鼻腔の中に入ってくる。

 ボクはこの匂いを犬のように一生覚えていようと思った。

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