第25話

 Dr.の言った一言一言が、水面にできた波紋のように広がる。


 何時からだろうか……どうしようもないほど彼女の存在を感じ、空虚な自分を彼女のことでいっぱいにして生きてきた。彼女に迷惑をかけないように、犯罪の手前で踏みとどまるように自分に言い聞かせてはきたけれど、やはりボクは歴とした彼女という薬物の中毒者ジャンキーだった。


 ここに来てからは、逃げることばかりを考えていた。

 姑息にも、健全な自己保存の欲求に従ったわけだ。

 何から逃げる? この病院から? 監視の目から? 他の患者から? 彼女から? 考えることから? そして、最後は自分からだろうか?


 そろそろ、するべきことを考えよう。Dr.に言われたからではない、と思おうとした。


 夕方と夜の境目。もう、ベッドに横たわっている彼女に、カーテン越しに声をかけた。

「寝るの、早いんだね」

「だって、起きてるとつらいでしょ? いろいろ考えて」

 返答があったことに安堵した。少し調子が良いのかもしれない。

「どんなこと考えると、つらいの?」

「いいのよ。カウンセラーの真似事なんてしなくても、あなたはあなたのまんまで」

 次の言葉をつなげられず、彼女の影をずっと見ていた。


「なーんにも考えずに、あたしのことをずっと見てくれてるあなたが好き。それで良いのよ、きっと」

 まだ残っていた日差しの名残なごりが薄れ、部屋のあらゆるものから色が奪われていく。

「あなたに好きだなんて言ってもらう必要はなかったの。あたしはすぐに頭の中がぐしゃぐしゃになってしまうから、あなたにそんなことされたら、きっとあなたをひどい言葉で傷つけてたわ」

「ボクのほうが、きみを傷つけた」

「もう、いいのよ傷つくとか、傷つけられるとか」

 彼女の言葉が、長い間涸れていた心の水域を満たしていく。ずっと、触れられるのを怖れていた場所、錆び付かせて敢えて動かない振りをしていた装置がゆっくりと回転を始める。

「一緒にいたら、擦れ合って、どっちも傷つくのが当たり前でしょ? でも、それがすごくタフなことに思えるの。あたしには」


 長い沈黙の後、彼女がベッドから起きあがる。布の摩擦が、心どうしのこすれる音に聞こえて、耳に残った。

「それで、もう一度聞きたいの。あなたもあたしのこと狂ってると思ってる? オカシイって思ってる?

好きだとか、愛してるとかよりも、それを聞きたいの」

 ボクはずっと頭の中で繰り返していた答えを言うしかなかった。

「きみを信じることと、きみが思ってることを信じることは違うんだ。ぼくは、きみのことを狂ってるとは思わない。だけど言ってることは、どうしても分からないことがあるよ。だって……」

「そんな風に逃げるのはやめて。信じるっていうのは、まるごと信じることよ」

 彼女は大きく払いのけるようにカーテンを開けた。

「信じてくれなくても良い。そんなことを言ってるんじゃない!」

 ボクは、彼女がまた昨日のようになってしまうことを怖れた。彼女の顔が正視できない。

「ボクは、だってボクは」

「ごめんなさい。あなたのことを責めてるんじゃないの。よく分からない世界に閉じこめられて、息をするのがやっとなの。きっと想像もできないでしょうね? 最低よ。あたしのいる世界は!」

 ボクはどうしようもできない。彼女の息は荒く、ヒューヒューと苦しそうな音を立てている。声を出すのがやっとなのに、無理をしてさらに空気を絞りだそうとしている。

“ボクは、ボクは、……”頭の中を役立たずの一人称が回っている。声を出そうと思うのに、涙と鼻水で、全て働かない。声の出し方が分からない。

「こんなふうになっているのに。こんなどうしようもないわたしなのに。とっても寂しい! とっても人が恋しいの! 人とちゃんと関わることもできないわたしなのに。人と関わりたくって仕方がない! ごめんなさい! 本当に、ごめんなさい!」


 ボクは彼女の足下に頭をつけた。そして、懇願するように両足にすがり、膝の辺りを手で擦り続けた。彼女の足にボクの鼻水がボトボトと流れ落ちた。

「ボ、ボクは! ボクは君のことを狂ってると思う! すごく、狂ってると思うよ!」

 暗闇の中で、泣きながら笑う彼女の顔だけがはっきりと見えた。

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