蒼空の邂逅



「またここに来ちゃった……」

 暗い夕顔が咲き乱れる丘を見おろしながら、ヴィーヴォは自嘲を顔に浮かべていた。

 自分が死にかけるたびに訪れる死の丘。その丘の上にヴィーヴォは佇んでいる。

 苦しげに咆哮をあげていた愛しい人のことを思い出し、ヴィーヴォは眼を伏せる。恐らく自分は、その愛しい存在によって屠られ、ここにやってきた。

 それにしても――

「僕も珊瑚色みたいに花を吐いて死んだ訳じゃないから、こうやって死後の世界の入り口に立っていられるのかな?」

 桜色に輝く眼を持っていた同胞のことを思い出し、ヴィーヴォは呟いていた。殺された彼の魂は消滅することなく、今なお愛しい人魚と共にある。

「まーた来ちゃったの? 夜色っ」

 弾んだ声が聞こえて、ヴィーヴォは後方へと振り返っていた。その声が、思い出していた人物の者であったから。

「珊瑚色……」

 桜色に輝く銀髪を三つ編みにした珊瑚色がヴィーヴォに微笑みかけている。彼は軽く跳んで、ヴィーヴォの眼の前へと移動してきた。

「ちょ、近いよっ」

「近いよじゃない。君だって、こんなところにいる場合じゃないだろう? 愛しい人魚を独り残して、こんなところに来なきゃいけない僕のことも考えてよ」

 彼は肩を竦め、ヴィーヴォに抗言する。彼の言葉にヴィーヴォは顔を歪めていた。

「別に、君に来てって頼んでるわけじゃないし、君が勝手に来てるだけだろう?」

「だったら君もこんなところに来るなよっ! 愛しい彼女が泣いてるよ……」

「泣いてるって……。でも、僕は……」

 もう、自分はあちら側に戻ることはできない。

 こみ上げてくるものを堪え、ヴィーヴォは俯く。できることなら今すぐ彼女のもとに帰って、彼女を抱きしめたい。

 でも、自分はその彼女に――

「いや、勝手に自分のこと殺すとか、ヴィーヴォは相変わらず面白いやつだね」

 そんなヴィーヴォに珊瑚色の弾んだ声がかけられる。彼の言葉にヴィーヴォは弾かれたように顔をあげていた。

「え、それって……」

「戻るんだ。そして見届けろ。それが、君の役割であり責務だよ、ヴィーヴォ……。彼女を抱きしめてあげるんだ」

 珊瑚色がヴィーヴォの体を押す。押された瞬間、ヴィーヴォの体は後方に現れた崖へと落ちていった。

「ちょ、コーララフっ!」

 視界から急速に遠ざかる彼に、ヴィーヴォは叫ぶ。

「もう、戻ってくるんじゃないよ。花吐きヴィーヴォ……」

 そんなヴィーヴォに手を振り、コーララフは微笑んでみせた。その微笑みがとても寂しげなものに感じられてしまう。

 もう、彼には2度と会えない。

 だって、自分はもうここには来られないから――

「さようなら、コーララフ……」

 涙を流しながら、ヴィーヴォはコーララフに別れを告げていた。

 さぁ、帰えろう。

 愛しい彼女のもとへと――

 


 

 

 

 

 

 









「何なんだ、これは……」

 マーペリアの唖然あぜんとした声が耳朶に響き渡る。ヴェーロはそれでも構うことなく、藍色あいいろ竜胆りんどうを吐き続ける。ヴェーロの周囲には、輪舞ろんどを繰り返す灯花たちの一団いちだんがあった。

 花を吐くたびに、ヴェーロの体は少女のそれから女性のそれへと変わっていく。

 小さな胸の膨らみは豊かさを持ち合わせ、あどけない容貌は凛とした魅力を備えた整ったそれへと変わっていく。

 長くなる手足とともに背丈も高くなり、少女の体は完全なる女性のそれへと変化していた。

 蒼い光を伴いながら最後の花がヴェ―ロの口から吐き出される。

 それとともに、吐き出されるものがあった。

 それは竜の翼を持った少年だった。夜色を想わせる紺の髪をなびかせ、彼はゆっくりと漆黒の眼を開ける。

 眼には星屑ほしくずめいた光が宿り、少女のように可憐な容貌ようぼういろどっていた。

「ヴィーヴォ……」

 自らが吐き出した愛しい人の名前をヴェーロは囁く。涙に、彼を映す視界が歪む。

「ヴェーロ……?」

 瞬間、彼の眼に光が宿り、自分を不思議そうに見つめてきた。

「ヴィーヴォっ!」

 頬を涙が流れる。

 ヴェーロは眼前に浮かぶ愛しい人へと駆けていた。彼を抱きしめ、ヴェーロは彼の名を何度も呼ぶ。

「ヴィーヴォ……。ヴィーヴォ……。よかった……本当によかった……」

「あれ……僕、死んだんじゃ……。え? 君、ヴェーロっ!?」

 唖然とした彼の声が耳朶を叩く。ヴェーロは顔をあげ、涙に濡れた眼に笑顔を浮かべていた。

「そう、私があなたを食べたの。だから、あなたの魂は私の中にある。あなたは、ずっと私と一緒にいるのよ、ヴィーヴォ……」

「なるほど。魂ごと虚ろ竜に食べられると、こういうことになるんだ……。つまり、僕は肉体的には死を迎えたけど、魂は君に取り込まれて意識は君とともにあり続けるってことかな……?」

「難しいことなんてどうでもいい……。ヴィーヴォが側にいれば、私は何もいらないの。何も……」

「そうだね……。僕は君と共にある。それで、十分だ」

 ヴィーヴォの肩に顔を埋め、ヴェーロは静かに泣いていた。ヴィーヴォはそんな自分の頭を優しくなで、体を抱き寄せてくれる。

 彼の心音が、耳朶に轟く。

 彼が生きている。その事実が嬉しくて、ヴェーロの頬を涙が伝っていく。

 ヴィーヴォの魂は自分の中にある。

 ヴェーロが生きている限り、ヴィーヴォはヴェ―ロの中で生き続ける。

 そしてヴィーヴォは、将来ヴェーロの背に出来るであろう新たな世界の管理人となる

 彼はヴェ―ロの中で生き続けながら、ヴェーロの世界を管理する神となるのだ。

 それが、虚ろ竜と番になった花吐きが辿たどりり着く結末けつまつ。食べられた花吐きは、花嫁たる虚ろ竜の中で生き続け、彼女の世界を守り続ける。

「あはははははぁはははは!! 傑作けっさくだよ!! まさか、カニバリズムを拒んでいた彼女たちの葛藤かっとうが、これほどまでに呆気あっけないものだったなんて……」

 マーペリアの笑い声が耳朶に轟く。驚いて、ヴェーロは顔をあげていた。

「マーペ……」

 自分を抱きしめるヴィーヴォも唖然とかつての友を見つめている。

 自分たちを見つめながら、彼は笑っていた。涙を零しながら、彼は言葉を続ける。

「残念だけど、オレの負けみたいだ……。父さんが海に落ちていく……。オレも行かなくちゃ……」

 弱々しく彼が言葉を紡ぐ。

 瞬間、彼の背後にあった壁が爆音とともに吹き飛んだ。煙があがる吹き飛ばされた壁の周囲を、緑色の鉱石めいた竜が飛んでいる。

 マーペリアが人形術で操っている竜の人形だ。その人形が彼の背後にある壁を吹き飛ばしたのだ。

「さよなら……ヴィーヴォ……」

 ヴィーヴォに顔を向け、マーペリアは微笑んでみせる。たんっと床を蹴って、マーペリアは壁の穴から夜空へと踊り出していた。

「マーペっ!」

 紺青の翼を翻し、ヴィーヴォがマーペリアを追う。そんなヴィーヴォを追おうとしたヴェ―ロの耳朶に、美しい歌声が聞こえた。

「これは……」

 驚いて、ヴェーロは壁に開いた穴を見つめていた。

 夜に支配されていた空が白やみ、光輝いている。そこに浮かぶ小さな光球にヴェーロは見覚えがあった。



 竜の頭蓋から飛び降りると、緑の竜が海に落ちていく光景が見えた。

 竜となった教皇だ。体から煙をあげながら、彼は不気味に蠢く闇色の海へと落ちていく。その竜を追いかけるようにマーペリアの体は落下していく。

「マーペっ!」

 親友の名を叫び、ヴィーヴォは彼を追っていた。紺青の翼を翻して、落ち行くマーペリアへと肉薄にくはくしていく。

 そんなヴィーヴォを見つめ、マーペリアが弱々しく微笑んだ。

「マーペっ!」

 マーペリアにヴィーヴォは腕を伸ばす。

 だがそんなヴィーヴォの前に、黒い塊がせり上がってきた。

 塊は視界からマーペリアの遮り、ヴィーヴォの行く手を邪魔する。

 それが翼を翻す兄だと分かり、ヴィーヴォは叫んでいた。

「兄さん……。ごめん、どいてっ!」

 紺青の体から血を流しながら、ポーテンコは苦痛に歪む眼でヴィーヴォを睨みつける。

「兄さんっ! マーペがっ!」

 ヴィーヴォの声に応えるように、ポーテンコはうなる。彼は漆黒の眼を静かに細め、上空を仰いだ。

「なに……」

 兄の反応が気になり、ヴィーヴォも空を仰ぐ。

 そこに広がる光景に、ヴィーヴォは眼を大きく見開いていた。

 夜が、明けていく。

 空がかすかに白い光を帯び、桜色に染まっていく。空を光で染め上げるのは、眩く光る白い球体だった。

 その眩い球体をヴィーヴォは見あげることしかできない。

「金糸雀……緋色……」

 2人の同胞どうほうの姿が、ヴィーヴォの脳裏を過る。

 緋色は言っていた。

 水底の秩序を回復させるために定期的ていきてきに始祖の記憶を継承する花吐きが現れ、女の花吐きを喰らうのだと。女の花吐きを取り込むことで始祖の竜は力を取り戻し、この世界を循環じゅんかんさせるあらたな花吐きを生みだすことができるようになる。

 白い光は、金糸雀と緋色がその役目を果たしたことを意味している。

 あれは、太陽だ。

 この水底の大陸たる始祖の竜が吐いた太陽。その太陽が、輝きを取り戻した。

 太陽の光を帯びて、こちらへと飛んでくる銀翼の竜たちが入る。白銀の帯を空に描きながら、彼女たちは女の姿をとり始める。

 朝陽の訪れとともに、彼女たちの唇は歌をかなでだした。

 それは、懐かしい子守歌だった。

 遠い昔、母であるサンコタがヴィーヴォに聞かせてくれた歌。ヴィーヴォが愛するヴェーロのためにつむいだ歌。

 桜色の空がその色合いを蒼のそれへと変えていく。銀翼の翼を生やした女性たちの歌声が蒼い空に響き渡る。

 どこまでも、どこまでも――

 そんな中、こちらへと向かってくる女性がいた。銀髪で豊かな胸を隠した彼女は自身の前方にいるポーテンコへと向かって行く。

 女性の側には、竜の翼を持った小さな少女の姿もある。その子が大きな眼をヴィーヴォに向け、微笑んでみせた。

 卵から生まれたヴェーロの妹だ。

「あなた……」

 ふわりと、ヴェーロの母が竜と化したポーテンコの前にやってくる。彼女は辛そうに眼をうるめ、鱗で覆われたポーテンコの額に唇を落とした。

 ポーテンコの体が眩い輝きに包まれる。光に包まれた彼の体は縮んでいき、人の姿を取り戻していく。

すっかり元の姿に戻ったポーテンコは大きく眼を見開き、自分の手を信じられない様子で見つめていた。

「これは……」

「あなたっ! よかった」

「お父さんっ!」

 驚くポーテンコを、ヴェーロの母は力強く抱きしめる。妹もまた、眼を潤ませ父であるポーテンコに抱きついた。

「兄さん……。お義母さん……」

 そんな彼らの様子をヴィーヴォは唖然と見つめることしかできない。そんな自分の横を、緑の翼を持つ女性が通り過ぎていく。深緑の髪をゆらす彼女はすれ違いざま、光りを宿さない眼を細めヴィーヴォに微笑みかけていた。


 



 暗い海へと落ちていく父親を見つめながら、マーペリアは薄く微笑んでいた。

 緑の鱗に覆われた竜と化した父。彼は自ら竜になることで、中ツ空で生きようとした。

 中ツそれは虚ろ竜たちの世界であり、人である自分たちが踏み入れてはならない異次元でもある。そんな中ツ空に人間が行く方法が、1つだけあった。

 それは自らが彼女たちと同じ竜になること。

 母である虚ろ竜の血を濃く引いたマーペリアは自ら竜に転身することができる。そんな自分と共に中ツ空で生きようと父は人であることを捨てたのだ。

 だからマーペリアはポーテンコも竜にした。かつて自分の友であった彼も、愛しい竜が待っている中ツ空に連れていきたかったから。

 でも、その夢は音もなく砕け散った。

 母を想い、人を捨ててまで空を目指した父が暗い海へと沈もうとしている。銀翼の女王は自我を取り戻し、障害となる彼女たちの一族を倒すことすら出来なかった。

「ごめん……母さん……」

 じわりと視界が涙で滲む。

 そのときだ。

 マーペリアの耳朶に、懐かしい子守歌が響き渡ったのは。

 驚いて、マーペリアは上空を見あげる。

 銀翼の翼を翻した美しい女性たちが、蒼い空を背に子守歌をうたっている。

 それは、眠っていた自分に友人のヴィーヴォが歌ってくれたうたでもあり、遠い昔に母が自分に聞かせてくれた歌でもあった。

 その歌声が、自分に近づいてくる。 

 懐かしい母の笑顔と共に――

「かあ……さん……?」

 自身と同じ緑の髪を翻し、こちらに微笑みかける女性をマーペリアは見つめることしかできない。女性は笑みを深め、自分の体を強く抱きしめてくれた。

 そのあたたかな温もりを、マーペリアは覚えている。

 小さかった自分を、いつも抱きしめてくれた優しい腕のあたたかさを。

「ただいま、マーペリア……」

 そっと頭を優しく抱き寄せ、女性は自分の耳元に囁きかける。

 その声を聞き、マーペリアは声をあげて泣いていた。

 

 







 その微笑みが誰かと似ていることに気がつき、ヴィーヴォは女性を視線で追う。

 彼女は海に落ちていくマーペリアを追っていた。暗い海に飲み込まれようとしていた彼を抱きしめ、彼女は歌をうたいだす。

 母が歌ってくれた子守歌を――。

 銀翼の翼を持つ女性たちが空で奏でる、美しい歌を。

 その歌声を目指し、緑の竜がマーペリアと女性のもとへと飛んでくる。2人は緑の竜に笑顔を向け、その背に乗った。竜は大きく咆哮ほうこうを放ち、太陽めがけてのぼっていく。

「マーペリア、どこに行くの?」

 緑の竜に手を差し伸べ、ヴィーヴォは友の名前を呼ぶ。竜はその声に応えることなく。マーペリアを空の向こうへと連れ去っていく。

「彼は家族のもとへ帰りました。みんなで故郷こきょうに帰っていくのでしょう」

 女性の声が聞こえて、ヴィーヴォはそちらを見つめていた。ヴェーロの母が、ヴィーヴォに微笑みかけている。彼女の腕には兄のポーテンコがしっかりと抱きしめられていた。

「そして、あなたはヴェーロとともに旅に出ます。水底の終わりである天蓋てんがいの向こう、中ツ空へと。あなたの伴侶はんりょである銀翼の女王とともに。彼女はあなたと1つになり、自分の体に世界を宿せる成竜せいりゅうとなりました。だから、あなたたちの居場所はここじゃない……」

 言い終えて、彼女はんだ空を仰いだ。

 空を優美に飛ぶ銀色の竜がいる。蒼い静脈が映える白銀の翼を翻し、地球を想わせる眼に笑みを浮かべて。

 自分の愛しい竜が、自分を迎えにやってくる。彼女を見つめながら、ヴィーヴォは笑みを零していた。

「お帰り、ヴェーロ。それから、ただいま」

 ぽつりと思いが声になる。その声に応えるように、愛らしい竜の鳴き声が聞こえた。

 背に生えた翼を翻し、ヴィーヴォは愛しいひとのもとへと向かって行く。

 

 


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