紡ぐ呼び歌

 ヴェーロが気づいたとき、鼻孔びこうにむせるような花の香りと血の匂いが漂ってきた。次に、体中に生暖かな液体がついていることに気がつく。

 それが血だと分かったのは、自分が見つめた両掌りょうてのひらが鮮血で彩られていたからだ。

 眼の前には、血で穢れた床がある。その血に塗れ倒れ込むヴィーヴォがいた。引き裂かれた腹部から黒い血と鮮やかな桜色の内臓を剥き出しにして。噛みちぎられた彼の頭部は胴体から外れ、赤い血の中に漂っている。その頭についた漆黒の眼がヴェ―ロに向けられていた。

 星屑のような光に彩られていた眼は、茫洋ぼうようとヴェーロを見つめるばかりだ。

「ヴィーヴォ……?」

 何が起きているのか、ヴェーロには分からなかった。ただ愛しい人は声をかけても返事をくれない。

 血の海の中にヴェーロは座り込む。

 両手を床について彼の顔を覗き込む。虚ろな眼から星屑めいた輝くが少しずつ失われていく。

「ヴィーヴォ……」

 呼びかけても、彼は応えない。

 そっと彼の頭を両手で包み込む。温かな彼の頭部は、だんかだんと冷たく、固くなっていく。

 ヴィーヴォが死んだ。

「いやぁあああああああ!!」

 それが分かったとき、ヴェーロは悲鳴をあげていた。

「ヴィーヴォ! ヴィーヴォ!!」

 抱きしめた首に話しかけても、彼は応えてくれない。ヴェーロを嘲笑うかのように彼のぬくもりは急速に失われていく。

「あはははははぁははははははは!! これで、オレの望みが叶うっ!! 母さんを殺した奴らを皆殺しに出来る!!」

 狂ったマーペリアの笑い声が聞こえる。

 ヴェーロは涙に濡れた眼を彼に向けていた。

 壊れたように笑う彼は、涙を流しながら自分たちを見つめていた。嗤っているのに、彼は悲しんでいる。

 そんなマーペリアにヴェーロは困惑の眼差しを送ることしかできない。

 ふと、自分の手に小さな吐息がかかる。

 細い息遣いが耳朶に聞こえ、驚いてヴェーロはヴィーヴォの首を見つめる。ヴィーヴォの漆黒の眼の中で星が瞬いている。焦点の定まっていなかった彼の眼がじっと自分を見つめていた。

「ヴィーヴォ……?」

 眼を見開いて、ヴェーロは彼の頭を抱き寄せる。かすかに聞こえる鼓動にヴェーロは眼を潤ませ、笑みを浮かべていた。

 ヴィーヴォは生きている。

 それなのに、マーペリアは泣いたまま壊れたように笑うことをやめない。

 ヴィーヴォはここにいるのに。

 そう彼はまだ、ここにいる。それが分かり、ヴェーロは涙を止めていた。

「さぁ、オレの女王様! 花婿はなむこを食べた感想はどうっ!? これから一緒に、君の一族を殺しまくろうっ!!」

 マーペリアが高らかに言葉を放つ。ヴェーロはそんな彼に眼を向けていた。

「来ないでっ!」

 彼が嗤いながらこちらへと向かってくる。ヴェーロは凛とした声を放っていた。マーペリアの顔から笑みが消える、彼は不機嫌そうに眼を歪めヴェーロを見すえた。

「Vero、そんなことを言って――」

「私の主は私。もう、名前に縛られたりなんてしない」

 ――Vero、君の主は君自身だ……。

 愛しい人の言葉を思い出し、ヴェーロはマーペリアの言葉を遮る。マーペリアは驚いた様子で眼を見開き、震える声を発した。

「まって、名前で縛れないって、どういう……」

 ぴくりと腕の中でヴィーヴォの首が身じろぎする。驚いたそちらを見つめると、ヴィーヴォの眼がすがるように自分を見つめていた。

 ヴェーロは彼を優しく抱きしめ、言葉をかけてる。

「ずっと一緒だよ。ヴィーヴォ……。ずっと、私たちは一緒……」

 彼に微笑みかけ、ヴェーロは歌を口ずさんでいた。

 それは、つむぎ歌だった。

 ヴェーロの美しい旋律は、はるか上空に浮かぶ星々を振るわせる。星は流れ星となり、蒼い尾を引きながらヴェーロのもとへと舞い下りる。

 ヴェーロは星に語りかける。

 

 あなたはどんな命を生きてきたのか。

 何を見てきたのか。

 誰を愛し、愛されたのか。

 

 星々はヴェ―ロの言葉に応え彼女の眼に吸い込まれていく。ヴェーロの蒼い眼に、星屑のような光が宿り瞬いた。

 ヴェーロの体が淡く光り輝く。

 ヴェーロは優しく微笑み、腕に抱いたヴィーヴォの頭を顔に近づける。

 輝く眼を嬉しそうに細め、ヴェーロは彼に口づけをしていた。






 ぴちゃんと石英の牢獄に雫の滴る音が反響する。金糸雀は大きく眼を見開き、その音を聞いた。

「ヴィーヴォが死んだ……」

 直感で分かったことを口にする。すると眼前で息を呑む声が聞こえた。

 自分の前に立つ緋色が、驚いた様子で朱色の眼を見開いている。

「銀翼の女王が目覚めようとしているんだ……」

「ヴィーヴォの恋人が……。それならよかった……」

 赤い髪に裸体らたいを包んだ彼女は、安心した様子で眼を細めていた。その眼を見て、金糸雀は自分たちの関係を今更ながら自覚してしまう。

 自分と緋色は、父を同じくする異父兄妹だ。それに気がついたのは、父に妾がいると知ったときだった。

 父は赤毛の美しい女性を愛人として囲っていた。今思えばその人は、緋色の母に違いないのだ。

 どういう経緯か知らないが、父は没落ぼつらくした赤の一族の生き残りを探し出し、その女性との間に緋色を設けた。野心家だった父は、女性の花吐きを娘に持ったことで調子に乗ってしまったのだろう。

 無謀にも彼は反乱を起こし、緑の一族である教皇に粛清しゅくせいされる。緋色を父に利用されたくなかった金糸雀も、父から離反し教皇の味方として戦った。

 けれどその事実に、緋色は気づいていたようだ。

 何かにつけて自分をお兄ちゃんと呼ぶ彼女は、自分だけに心を開き夫となる他の花吐きたちには見向きもしなかった。

 ローガは会ったその日から、自分だけを見つめていた。

「お兄ちゃん……」

 彼女に呼ばれて、我に返る。初めて会った日と同じ無邪気な微笑みを、ローガは顔に浮かべていた。

「愛してる」

 そっと金糸雀の頬に手を差し伸べ、ローガは微笑んでみせる。そのまま彼女は金糸雀の両頬を包み込み。唇に自分のそれを重ねてきた。

 涙がこみ上げてくる。

 だが金糸雀は泣くことなく、ローガを抱きしめていた。

 彼女を喰らうことが、自分が生まれた理由なのだ。

 頭の中にある始祖の記憶は、自分に女の花吐きを喰らえと囁いてくる。

 喰らえ。

 そうすれば水底は秩序を回復し、暗い世界に再び光が訪れると。

「お兄ちゃん」

 優しい声が再度自分を呼ぶ。金糸雀は眼を歪め、ローガの体をゆっくりと放した。

 瞬間、金糸雀の体は光に包まれる。

 体に激痛が走り、軋んだ音をたてながら自身の骨格が変形していくのを金糸雀は感じとっていた。激痛が引き眼を開けると目線がかなり高くなっていることに気がつく。

 見おろした先には笑みを浮かべる愛しい少女がいる。その少女の眼に映った自分を見て、金糸雀は眼を歪めていた。

 朱色の眼に映る自分は、金の鱗を持つ竜だったから。

 もう自分が人ですらない。そのことを今さながらに実感してしまう。

 ほろりと、緋色に映った竜の眼から涙が零れ落ちる。そんな竜を慰めるように緋色は悲しげに微笑んで、唇を開いた。

 彼女から、懐かしい歌声が紡がれる。

 それは遠い昔に、父の愛人だという女性が歌っていたうただった。

 幼い自分が母に繰り返し聞かされた子守歌だった。

 そっと緋色が両手を広げ、涙に濡れた眼で自分を見あげてくる。金糸雀は大きな咆哮を発しながら、翼をはためかせていた。




「お姉ちゃんが、呼んでる……」

 牢の前にいる娘がぽつりと声をもらす。大きく眼を見開き、彼女は後方にいる自分へと顔を向けてきた。それと同時に、洞窟の外で咲いている灯花が激しく音を奏で始めた。

 そのときがやってきたのだと、ヴェーロの母はさとる。

 裸体を覆う銀糸の髪を翻し、母は牢獄へと近づいていた。不安げに自分を見つめる娘に笑みを送り、母は牢獄を覆う石英の格子にふれる。

 娘が成竜となったのだ。そして彼女は自分の魂に眠る力すらも取り戻した。

 自分たちの一族を統べる存在として――

 そんな彼女が歌で自分たちに呼びかけている。

 ここに来てほしいと――

「行きましょう。あなたの罪は、ゆるされました……」

 牢獄に囚われた竜に母は語りかける。

 寝そべっていた緑の竜は驚いた様子で顔をあげ、濁った白緑の眼を自分へと向けてきた。

「息子さんに、会いに行きませんか?」

 驚く竜にヴェーロの母は優しく微笑んでみせる。瞬間、石英の格子は煌めく粒子となって崩れ去っていった。

 牢獄に閉じ込められた竜の体は淡く輝き、1人の女性へと転じていた。

 深緑の美しい髪を持つ彼女は、不安げに母に顔を向けてくる。

「あの子に会えるのですか?」

「会いに行きましょう。愛しい人たちに」

 自身のつがいを思い、母は微笑を顔に浮かべていた。

 あの人にポーテンコに会いに行ける。娘が、私たちを引き合わせてくれる。

 そう思うだけで、母は幸せを感じることができた。


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