還る場所

 眼前に飛び込んできたのは、水に満たされた歯車の入った水槽だった。水蒸気を吐き出し白く濁る水槽の中で夕顔の灯花が暗い光を放っている。水槽の水からは絶えず気泡があがり、水中で漂う灯花を弄ぶ。

 そんな水槽が、大理石の敷きつめられた通路に所狭しと並んでいるのだ。水槽からは無数の管が伸び、それは通路の奥へと続いていた。

「なんだよ、これ……」

 どこか禍々しさを感じる光景に、ヴィーヴォは顔を顰める。

 稀人まれびとたちが金の一族に機械の技術を伝えていたことは知っていた。機械竜を初めて見たときも、術なしで誰でも動かせる竜骸にヴィーヴォは感動すら覚えたものだ。

 けれどここから感じる得体の知らない装置からは、不気味さしか感じられない。

 手に持つ短剣を腰にさげ、ヴィーヴォは前方を見つめる。水槽の吐き出す蒸気によって白く曇る通路の最奥に何かがある。

 眼を凝らしそれを見つめるヴィーヴォは、驚きに声をあげていた。

「ヴェーロ…?」

 地面にひざをつき、ヴィーヴォは最奥にいる愛しい女性を見つめる。

 それは巨大な花だった。

 巨大きょだいな灯花がヴェーロの白い裸体を包み込んでいる。白い百合の形をしたそれの周囲には、色とりどりの灯花が咲き誇っていた。

 優しい音を奏でながら、灯花たちは蒼い眼から涙を流すヴェーロをなぐさめる。ヴェーロの花にはいくつもの透明な管がとりつけられ、それらはヴィーヴォの後方にある歯車のついた水槽に繋がっていた。

「ヴィー……ボ……」

 弱々しい声が耳朶を打つ。

 ヴェーロがゆっくりと首を動かし、虚ろな眼をこちらにむけていた。

「ヴィー……ボ……」

 涙に潤んだ蒼い眼が自分に向けられた瞬間、ヴィーヴォは弾かれたように立ちあがっていた。

「ヴェーロっ!」

 「綺麗きれいでしょ? 君の花嫁だよ、ヴィーヴォ……」

 叫ぶ自分の呼び声を遮る者がある。ヴィーヴォは眼を見開き、その人物を凝視していた。

 深緑の法衣を翻し、花に飲み込まれたヴェーロの後ろからマーペリアが姿を現す。片眼鏡に隠れた翠色の眼を妖しく煌めかせ、彼はヴィーヴォに嗤ってみせた。

 涙に濡れるヴェーロの頬に指を這わせ、彼はヴェ―ロの顔を両手で包みこむ。

「やめろっ!」

 とっさにヴィーヴォは怒鳴り声をはりあげていた。そんなヴィーヴォをたのしげに眺めながら、マーペリアはヴェ―ロの頬にかかる銀糸の髪をそっと彼女の耳にかけてやる。

 彼女の耳に唇を寄せ、彼は囁いた。

「さぁ、Vero。君の愛しい花婿が、君を迎えに来てくれたよ。君は彼を、どうしたいの――」

 マーペリアの囁きにヴェーロの眼が歪められる。彼女は大粒の涙を眼から流し、悲鳴をあげる。

「いやぁああああ!!」

 ヴェーロの悲鳴が周囲に響き渡る。

 彼女の体は白く明滅し、光りの粒子となって霧散する。粒子は空中で再び集まり、巨大な竜の形をとる。

 銀の鱗を持つ竜は縦長の瞳孔を持った蒼い眼でヴィーヴォを睨みつけていた。

 銀翼の翼を翻し、竜は大きな咢を開いた。鋭利な牙の羅列をヴィーヴォに見せつけながら、竜は咆哮をはっする。

 竜の咆哮はは空気を揺るがし、乱立する水槽の硝子を震わせる。

「ヴェーロっ……?」

 恋人の異変いへんに、ヴィーヴォは唖然あぜんとすることしかできない。ヴェーロは鋭く眼を細めヴィーヴォに唸ってみせる。

 大きく翼をはためかせ、ヴェーロは飛び立つ。地響きをたてながら眼前に着地した巨大な竜は小さく牙を覗かせ、ヴィーヴォに唸った。

 びちゃりと、牙の覗くヴェーロの口から涎がしたたり落ちる。涎は佇むヴィーヴォの頭にかかった。ヴィーヴォはそっと顔をあげ、唸る竜を見あげる。

 あのときと同じだ。ポーテンコに連れて行かれそうになっていた自分を、ヴェーロが迎えに来てくれたときと。

 ――きゅんっ!

 早く背に乗れと自分を叱咤した彼女の泣き声を思い出し、ヴィーヴォは微笑んでいた。

 口に含んだ卵をヴェーロが自分に吐き出したせいで、体が彼女の涎まみれになった。自分が抗議こうぎすると、彼女は早く逃げるぞとヴィーヴォを怒ったのだ。

「あのときと同じだね」

 眼の前にいる愛しい人にヴィーヴォは語りかける。ヴェーロは大きく眼を見開き、ヴィーヴォを見おろした。そんな彼女を微笑んだ眼で見つめながら、ヴィーヴォは言葉を続ける。

「君が口に入れた卵を僕に渡して、そのせいで僕は君の涎まみれになった。今でも、僕は君のせいで涎まみれ……。一緒でしょ」

 ヴェーロの眼が歪められる。小さく口を開け、ヴェーロががうなる。

「でも、君を迎えに来たのは、僕。あのときと逆だね。一緒に帰ろう。君が掘ってくれたあの巣へ。僕たちが2人で過ごした場所へ」

 優しく語りかけながらヴィーヴォは彼女に両手を差し伸べていた。ヴェーロは大きく眼を見開き、差し伸べられた手に鼻先を近づける。その鼻をヴィーヴォはそっとなでていた。

「ねぇ、ヴェーロ……。言っただろ。君の主は君自身だ。君は、どうしたいの?」

 彼女の頭をそっと両手で包み込み、ヴィーヴォは問いかける。

「きゅん……」

 その問いかけに応えるように、愛らしい竜の鳴き声が耳朶に轟いた。

 気持ちよさげに眼を細め、ヴェーロは嬉しそうにヴィーヴォの両手に頭をすりつけてみせる。ヴェーロの眼には優しい光が宿り、その眼差しはヴィーヴォへと向けられていた。

「ヴェーロ、お帰り……」

 ヴェーロがくるくると喉を鳴らして、自分に甘えてくる。彼女の頭を抱き寄せ、ヴィーヴォは小さく囁く。

「愛してるよ、ヴェーロ……。命なんていらない。君がいてくれれば、僕はそれだけで――」

「Vero、ヴィーヴォを食べてっ!」

 ヴィーヴォの言葉は、マーペリアの弾んだ声に遮られる。大きな咆哮ほうこうが耳朶に突き刺さり、ヴィーヴォは眼を見開いていた。

 ヴェーロが自分の手を突き放し、苦しそうに頭を振っている。彼女は牙を剥き出しにして、ヴィーヴォを睨みつけてきた。

 それでも、ヴィーヴォは笑顔を崩さない。

「おいで、ヴェーロ……」

 両手を広げ、愛しい人の名を呼ぶ。

 微笑むヴィーヴォの眼の前で、ヴェーロは咆哮をあげ、牙をヴィーヴォに向けてきた。

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