そして語り部は沈黙する

 聖都と比べ、ここは夜空に瞬く星が多い。それが花吐きがいなくなっているせいだとヴィーヴォが言っていたのを思いだし、竜の姿になったヴェーロは大きく翼を翻す。

 ヴェーロの耳には、愛しい人の語りかけが優しく響き渡っていた。

「それから先のことは、君も知っての通り。僕は君の名前を白状はくじょうさせられるために拷問ごうもんにかけられて、マーペリアを危険な目に合わせた罰として教皇に辱めも受けた……。でも、君の名前を僕は誰にも教えられなかった……。教えたくなかったんだ……。君だけは、どうしても僕のモノでいて欲しくて……。あとは、死んだと思っていた兄さんが僕を助けてくれて全部終わり。兄さんは僕を罪人にすることで、君と僕が生きられるよう取り計らってくれたんだ……。僕は、そんな兄さんを殺しかけたのに……」

「きゅん……」

 背に乗るヴィーヴォが、震えた言葉で語りを終える。

 蒼い地球を仰ぎながら、ヴェーロは彼のために小さく鳴き声を発していた。

「けっきょく僕は、いつも誰かに助けられてばかりで、君を悲しい目に合わせてばかりいた。でも、それでも君は、僕と一緒にいてくれる。僕をずっと選んでくれる 」

 そっとヴェーロの頭を、あたたかなぬくもりが包み込む。ぽたり、ぽたりと音をともなって落ちてくるそれが何なのかヴェーロには分かっていた。

 ヴィーヴォが泣いている。彼は何も悪くないのに、また自分を責めて苦しんでいるのだ。

 ヴェーロはそんなヴィーヴォが、大好きで大嫌いだ。

 すっと眼を細め、ヴェーロは人になりたいと願う。彼を慰めるために。

 ヴェーロの体が光に包まれ形を失う。光は粒子となって集い、少女の姿を形づくる。

「うわっ!」

 悲鳴が聞こえる。少女の姿となったヴェーロはゆったりと眼を開き、落ちていくヴィーヴォを追いかけた。僧衣を翻しながら、落ちていく彼はじっと自分を見つめている。

 星の宿る彼の眼からは涙が零れ、それは雫となって夜空を舞っていた。彼に近づくたび、ヴェーロの体にヴィーヴォの涙はあたり、砕けていく。

 泣いている彼に両手をのばし、ヴェーロは彼を抱き寄せていた。

「ヴェーロっ?」

「ヴィーヴォは何も悪くないっ!」 

 彼の頭を抱き寄せて、ヴェーロは叫ぶ。

 そう、彼は何も悪くない。

 悪いのは、本当に悪いのは――

「いつもヴィーヴォは竜のせいで不幸になる……。お父さんも、ヴィーヴォも……。大好きな人たちも竜は、殺そうとした……」

 ヴェーロの眼から涙が伝う。涙は雫となってヴィーヴォの顔に降りそそがれる。

 ヴィーヴォは優しく微笑んで、そんなヴェ―ロの頬をなでてみせた。軽く眼を見開くヴェーロの頬に指の背を走らせ、彼は指で眼に溜まった涙をぬぐってくれる。

「君は、いつも僕のことを想ってくれている……。それだけで、僕は十分だ。君がいてくれるだけで……」

「ヴィーヴォ……」

 愛しい人をヴェーロはそっと抱き寄せる。そんなヴェ―ロに応えるように、ヴィーヴォも自分を強く抱きしめ返してくれた。

「だから、僕は君に名前を返そう。もう、誰も君をしばれない。Vero《ヴェーロ》、君の主は君自身だ……」

 優しいヴィーヴォの囁きが耳に響き渡る。

 瞬間、ヴェーロの脳裏でくさりの弾けるような音が響いた。

「ヴィーヴォ……。私は……」

 唖然と、ヴェーロはヴィーヴォを見つめる。ヴィーヴォは優しく微笑みながら、ヴェーロに問う。

「愛しいひと、君の名前は?」

「私は、ヴェーロ……。名前が、分かる。名前が、分かるわっ! ヴィーヴォっ! これは?」

 驚く自分に、ヴィーヴォは穏やかな微笑みを向けるばかりだ。彼の眼がどこか悲しげなのは、気のせいだろうか。

「ヴィーヴォ……あなた……」

 震える声が喉から出てきてしまう。ヴィーヴォは眼を歪め、自分の頭を抱き寄せた。

「もう君は誰にも縛られない……。君の主は君自身で、君は自由だ。その羽でどこまでも飛んでいけるよ……。僕の側にいなくてもいいんだ……」

「ヴィーヴォ……」

 震える彼の体をヴェーロは力いっぱい抱き寄せていた。

 ヴィーヴォが自分を名で縛ることをやめたのだ。それは、彼が自分を自由にするということ。

 自分を、手放すということに他ならない。

「いや、どこにも飛んで行かない。私の居場所は――」

「ヴェーロ避けろっ!!」

 涙に咽ぶヴェーロの言葉は、ヴィーヴォの叫びに遮られる。

 背中に熱さを感じた瞬間、ヴェーロは自分が攻撃されたことを悟っていた。

 悲鳴をあげる自分をヴィーヴォが抱きとめる。彼は何かを叫びながら僧衣の懐に手を入れ、ヴェ―ロのうろこを宙にばら撒いていく。

 光り輝く鱗がヴェ―ロたちの前に壁を作る。その壁に紅蓮に輝く火球がぶつかった。

 鱗はたてとなって、ヴェ―ロたちを襲う火球を防いでくれた。だが、火球によって鱗は燃えつきていく。

「ヴェーロ、僕に捕まってっ!」

 ヴィーヴォの鋭い声と、彼の紡ぎ歌が耳朶に轟く。

 星を吸い込んだヴィーヴォの眼は光り輝き、空中で制止した。彼の口から菖蒲あやめの形をした灯花が吐き出される。

 ヴェーロを抱きしめたまま、彼の体はゆったりと地上へと降りていく。眼前に広がる巨樹の森と、巨大な竜の遺骸の数々がヴェーロの視界に映りこんだ。

 聖都の側に広がる、大樹海だいじゅかいだ。

 樹海の開けた草原に、水晶鹿すいしょうじかの群れがいた。ヴェ―ロたちを見あげ、鹿たちは森の中へと逃げていく。

 何もいなくなったその草原に、ヴィーヴォの体は投げ出されるように落ちていった。

「ヴィーヴォっ……」

 背中の痛みが取れてくれない。それでもヴェーロは自身の下にいるヴィーヴォに声をかける。だが、彼を見た瞬間、ヴェーロは眼を見開き口元を両手でおおっていた。

 ヴィーヴォの首筋が鋭利えいりな傷が穿たれていたからだ。傷は深く、うっすらと骨らしきものが血の滲み出る傷の断面からうかがえる。

 荒い息を吐きながら、ヴィーヴォは顔を向けてくる。笑みを浮かべ、彼はヴェ―ロの頬に優しく手をえてきた。

「ヴィーヴォ……」

 ヴェーロは添えられた手を握りしめる。敵の攻撃から自分をかばい、ヴィーヴォは深い傷を負ったのだ。

 自分のせいで、彼がまた傷ついた。

 ヴェーロの眼から涙が零れ落ち、ヴィーヴォの頬を濡らす。悲しげにヴィーヴォは眼を歪め、ゆったりと首を横に振った。

 彼は弱々しく微笑んで、眼をゆっくりと瞑る。

「ヴィーヴォ……?」

 声をかけても、彼は応えてくれない。

「ヴィーヴォっ!」

「そんなに、彼を助けたい? 女王さま……」

 ヴェーロの叫びをさえぎる者がいる。驚いて、ヴェーロは声のした前方へと顔を向けていた。

 淡く光る長光草を踏みしめ現れたその人物をヴェーロは睨みつけていた。

「若草……」

「おぉ、恐い」

 片眼鏡に隠れた眼を歪め、若草はヴェ―ロに嘲笑を向けてくる。深緑の法衣を翻し、彼は颯爽とヴェ―ロたちのもとへと歩み寄っていく。

「来ないでっ!」

 ヴィーヴォを抱き寄せ、ヴェーロは拒絶の言葉を彼に放っていた。

「その口調だと、ヴィーヴォが君を名でしばることをようやくやめたようだね。予定通りだ。これで、すべてが上手くいく。大丈夫、君のお父さんも元気だよ。ヴィーヴォも今のオレだったら、助けあげられる……」

 彼の眼が妖しく光る。

 マーペリアはゆったりと腰をおろし、ヴェーロの顔を覗き込んできた。

「ねぇ、君はヴィーヴォを助けたいんでしょ? ヴィーヴォの命そのものを救いたいんでしょ? だったら、僕はとっておきの方法を知っている。ヴィーヴォを救う唯一の方法を。そのおかげで、君のお父さんは命を救われたんだ」

 マーペリアが優しく囁いてくる。その言葉にヴェーロは自分の耳を疑っていた。

 父であるポーテンコは虚ろ竜である母を愛していた。だが、彼は母に食べられることなく生きながらえている。

 その秘密をマーペリアは知っているというのだ。その秘密によって、ヴィーヴォを救うことができるかもしれないと仄めかして。

「だから君の名前を教えて……」

 マーペリアの甘い囁きが耳朶に轟く。顔をあげると、嗤う彼の顔が視界に広がった。

 ヴィーヴォを、殺さなくて良い方法を彼は知っている――

「マー……ぺ……」

 ヴェーロが唇を開きかけた瞬間、ヴィーヴォの声がかすかに聞こえた。

 驚いて彼を見つめる。ヴィーヴォが薄らと眼を見開き、マーペリアを睨みつけていた。

 汗の浮かぶ彼の首筋からは、鮮血が流れ続けている。それでも彼はマーペリアを睨みつけることをやめない。

「私の……」

 口を開きかけた自分の腕を、ヴィーヴォが握りしめてくる。その弱々しい力に、ヴェーロは顔を歪めていた。

 彼は確実に死に向かっている。それでも自分を守ろうとしてくれているのだ。

「大丈夫よ、ヴィーヴォ……」

「竜……」

 縋るように自分を見つめるヴィーヴォに笑顔を向け、ヴェーロは彼から顔を逸らす。

 妖しい微笑みを浮かべる若草を見すえ、ヴェーロは口を開いていた。

「私の名前は、Vero……」





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