涙と旅立ち
ヴィーヴォが大好きだった
突然、水以外のものを口が受けつけなくなり、頭の中に見知らぬ人々の声や知らない場所の映像が流れ込むようになった。
それが死者たちの呼び声だと気がついたのは、数週間後だ。その頃にはもうヴィーヴォは死者と話をすることに抵抗もなくなっていたし、星となった彼らを眼に宿すようになっていた。
あれだけどうでもいいと思っていた地球の光が愛しくなり、ヴィーヴォは
そんな息子の変化に、花吐きだった母はすぐに気がつく。
地球の光を愛おしみ、獣たちと灯花の花畑を歩く息子の姿は花吐きそのものだったのだから。
そして母は、ヴィーヴォをこの洞窟に閉じ込められた父に引き合わせたのだ。
「これが、お父さん?」
「そうよ、ヴィーヴォ……」
水晶に閉じ込められた竜を眺めながら、幼いヴィーヴォは大きく眼を見開いていた。
夜色の鱗を持つ大きなその竜は、虚ろな漆黒の眼で自分を見つめていた。じっとその眼を見つめ返しても、竜は瞬き1つしない。
竜の閉じ込められている水晶にふれてみても、冷たい
そもそも、この竜はちゃんと生きているのだろうか?
急に不安になって、ヴィーヴォは母であるサンコタを振り返っていた。
「あなたが花吐きとして目覚めたら、ここに連れてくるつもりだった。まさか、そうなるとは思わなかったけれど……」
ゆったりとした
そっとサンコタはしゃがみ込み、ヴィーヴォと視線を合わせる。漆黒の眼を細め、彼女はヴィーヴォの頬を優しくなでた。
「星に愛された私の子。あなたは今日から、人でなくて花吐きになるの。聖都を
「お母さん、僕は花吐きさまじゃないよ……。神さまじゃない……」
聖都の話は、母から何度も聞かされている。
美しい
母は自分がその花吐きだというのだ。
そして、母がそうであることもヴィーヴォは知っている。
母が吐いた花が、自分の住むこの丘陵地帯にはたくさんさいているからだ。竜胆の形をした花々はヴィーヴォが語りかけるたび美しい音色で応えてくれる。
花吐きでありながら、母はヴィーヴォを育てるために花を吐くことをやめてしまった。それでも灯花と語り合う母の姿を見て、ヴィーヴォは育った。
でも、自分はつい最近まで死者の声だって聞こえなかったのだ。そんな自分が、
「歌をうたって
「お母さん?」
「ヴィーヴォ……」
ヴィーヴォの唇が歌を奏でる。
少年の美しい歌声は洞窟に響き渡り、外に広がる花畑に広がっていく。灯花が歌に合わせ美しい音色を奏でる。歌声につられ、夜空を舞っていた星々が煌めきながら洞窟へと入り込んでくる。
星々は瞬きながら、ヴィーヴォの眼に吸い込まれていった。
瞬間、ヴィーヴォの体を大きな
人々の
そして、愛しい人々との別れと
それらに触れるたび、ヴィーヴォの眼からは
ヴィーヴォの体が淡い光に包まれる。眼が光り輝き、ヴィーヴォは唇から息を吐いていた。
息とともに、美しい結晶の花弁を持つ花々が、自分の唇から生まれ出る。
「これは……」
ヴィーヴォは眼を大きく見開き、灯花たちを見つめていた。
りぃん、りぃん。
母の灯花とは違う旋律を、ヴィーヴォのそれは発してみせる。まるで、ヴィーヴォに
「母さんっ!」
「これが僕の弟ですか? 母さん」
驚くヴィーヴォの声を遮る者がる。驚いて、ヴィーヴォは洞窟の入口へと視線を向けていた。
法衣に身を包んだ青年が、じっとヴィーヴォを見つめている。肩口で切りそろえられた紺青の髪ゆらし、彼は鋭い
「いや、妹……? 花吐きでることは分かりましたが、まさか母さんから女の花吐きが生まれるなんて……」
困惑した様子で整った顔を
眩しい星が閉じ込められたランタンは、暗がりにいたヴィーヴォを蒼く照らす。星の輝きが眩しくて、ヴィーヴォは思わず両腕で顔を覆っていた。
「いえ、この子は男の子よ、ポーテンコ……」
そんなヴィーヴォを抱き
「これが……母さんにはそっくりだけど……」
彼はヴィーヴォの顔を覗き込む。
難しげに眉根をよせる彼の表情が恐くて、ヴィーヴォはサンコタの胸に顔を埋めていた。
「ポーテンコ……」
「あ、すみません」
しゅんと首を垂らし、青年は眼を伏せる。そっとヴィーヴォが顔をあげると、彼は困ったような眼差しをヴィーヴォに送っていた。
「でも、弟がいるって言われても……」
「この子はね、あなたが聖都に奪われたとき、この人が授けてくれた子なの。私のためにね……。それに、あの人には、教皇さまにはもう手紙で伝えてあるはずよ」
そっと母は竜の閉じ込められた水晶をなで、青年に微笑みかける。彼はため息をつきながら、ヴィーヴォに向かって口を開いた。
「こんにちはヴィーヴォ。僕はポーテンコ、君の兄さんだ。たぶん……」
「兄さん……?」
こくりと首を傾げ、ヴィーヴォは彼を見つめる。
母から兄がいることは聞いていたが、その人は花吐きだと母は言っていた。でも、ポーテンコからは花吐きからするという花の香りがしないし、サンコタのように
「お兄さんはね、花吐きとしての役目を終えたの。だから、あなたが花吐きの夜色となって黒の一族を支えていくのよ、ヴィーヴォ……」
母の言葉に、青年の顔が曇る。彼は悲しそうに眼を伏せ、小さく
「兄さん……?」
心配になって呼んでみても、青年は答えてはくれない。そっとヴィーヴォを放し、母は彼へと歩み寄っていた。
「ポーテンコ。あなたは愛する人を守った。それでいいのよ。それで……」
そっと青年を抱き寄せ、サンコタは彼の背中を優しく叩く。彼は辛そうに眼を潤ませ、母の胸元に顔を埋めた。
「あの人は僕を食べてはくれなかった……。僕は、あの人の一部になりたかったのに……。だから、力をあげて空に還したんだ……」
「父さんもそうだった……。だから、この人は水晶の中に閉じこもったまま出てきてくれないの……」
「母さん……」
「ヴィーヴォをお願い。あなたは、黒の一族の長なのだから」
そっと顔をあげ、ポーテンコはサンコタをみあげる。サンコタはそんなポーテンコの髪をなで、優しく微笑んでみせた。
「母さん?」
2人が何を話しているのか分からず、ヴィーヴォは思わず母に声をかけていた。サンコタは困ったように微笑んでヴィーヴォを見つめる。ポーテンコを放し、彼女はヴィーヴォへと歩み寄ってきた。
そっとヴィーヴォを抱きしめ、サンコタは耳元で囁く。
「ヴィーヴォ、お別れよ。今日からあなたはお兄さんと一緒に、聖都で暮らすの。黒の一族の花吐き、二つ名の夜色として」
彼女の言葉に、ヴィーヴォは大きく眼を見開いていた。彼女を見あげる。サンコタは悲しげに眼を潤ませヴィーヴォを見つめるばかりだ。
「だから、母さんとはここでお別れ。母さんはお父さんを独りにはできないから……」
そっと後方にある水晶を見つめ、サンコタは眼を伏せる。その眼が、涙で煌めいていることにヴィーヴォは気がついていた。
不思議と涙は出なかった。
兄だという人に手を引かれ、灯花の花畑に着地した
巨大な竜の骨が植物の蔦や枝にに覆われ星空を飛翔している姿は、この世のものとは思えなかった。
あれに乗れると思うと、それだけで心が
笑う声が聞こえて兄を
恐いと思っていた兄は優しい人かもしれない。ポーテンコはヴィ-ヴォの頭をなで、ヴィーヴォと視線を合わせる。
「ごめんな、ヴィーヴォ。でも、これが教会の
兄の笑みが悲しみを
自分の頬をほろほろと伝う涙の
兄に手を引かれ、ヴィーヴォは竜骸に乗り込む。
「ヴィーヴォ……」
ポーテンコがそんな自分を抱きしめてくれる。彼の胸に顔を埋め、ヴィーヴォは大声をあげて泣いた。
そんなヴィーヴォのために、ポーテンコは子守歌を口ずさんでくれた。
母がいつも歌っていた子守歌を――
ヴィーヴォが泣き疲れて寝てしまうまで、その子守歌がやむことはなかった。
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