竜と友達
どこをどう飛んだのか覚えていない。気がついたらヴェーロは海原の真ん中に浮いていた。細木のように頼りない体を、小さな波がゆらしていく。空を
飛び過ぎて、疲れて落ちたのだと思う。ここに来るまでの記憶が
あたたかな海は、ヴィーヴォの手を思い出させる。自分をいつもあたたかく包んでくれる彼のぬくもりを。
自分は、そのぬくもりを
彼を誰にも
「あ……あ……」
両手を顔で覆い、涙を
泣いた方が楽になるのだろうか。
涙は自分に芽生えたおかしな感情を洗い流してくれるだろうか。そう思い、ヴェーロは声をあげて泣いていた。
ヴェーロの泣き声は、海原の果てまで
自分の泣き声に
ヴィーヴォの子守歌のように、あたたかく、それでいて優しい少女の声。
泣かないでと、歌声は言っていた。
泣かないでと、歌声はヴェーロに語りかけていた。
驚いてヴェーロは眼を見開く。おそるおそる顔から両手をとると、見知らぬ少女が自分の顔を覗き込んでいる。
まるで
海底で、自分に歌をうたっていた人魚じゃないか。
「きゅーん!!」
驚きのあまり、ヴェーロは鳴き声を発していた。そんなヴェーロを見つめながら、人魚はころころと笑う。
「Kio estas via nomo? 《あなたの名前は?》」
「何……?」
「Kio estas via nomo……《あなたの名前は?》」
彼女が何を言っているのかわからない。
そういえば、ヴィーヴォが教えてくれたことがあった。
ヴェーロの名前もヴィーヴォの名前もみんなその古語をもとにつけられている。ヴィーヴォは古い言葉を少し喋ることが出来るみたいだけれど、ヴェーロには意味がわからない。
困ったように眼を
水面に漂う竜の少女
名もなき彼女は、どこの誰?
名もなきあなたの、名はどこに?
「きゅん……」
歌の内容が手に取るようにわかり、ヴェーロは驚きに眼を見開く。人魚は薄紅色の眼を細め、微笑んでみせた。
私たちの異なる言葉
歌は言葉を飛び越える
私の歌はあなたの言の葉となり
あなたの耳に届いている
歌の内容から
まるで魔法みたいだ。
ぱっとヴェーロは顔を輝かせる。人魚はそんなヴェーロを見て、笑みを深めた。
あなたは誰
あなたは誰
教えて
あなたを教えて
ヴェーロの髪を優しくなでながら、人魚は歌で語りかける。自分の名前を言おうとして、ヴェーロは
名前が、分からない。
それもそのはずだ。ヴィーヴォが自分から名前を取りあげたのだから。
その事実がなんだか悲しくて、ヴェーロは人魚から視線を逸らしていた。
「竜は、竜……。名前は、分からない……」
夜の少年
あなたを支配する人
彼があなたを苦しめるの?
人魚がヴェーロの頭を抱き寄せてくる。優しくヴェーロの髪に唇を寄せ、彼女は歌を
銀の竜
地球の眼をしたあなたは
悲しみで満ち溢れている
夜色が
あなたの心を闇で
「違う……。ヴィーヴォは竜のヴィーヴォ……。ヴィーヴォがいないと、竜は悲しい……。でも、ヴィーヴォを傷つけたから、竜はここにいる……」
ヴェーロの言葉に、人魚は大きく眼を見開く。彼女はヴェーロの顔を
悲しそうに眼を細め、彼女は優しくヴェーロの頬に
どうしてと、彼女はヴェーロに
「ヴィーヴォは竜の
言い終えて、ヴィーロは口を閉ざす。
ふと、背中に乗せた子供たちのことを思いだして、ヴェーロは悲しくなっていた。
ヴィーヴォは言っていた。彼女たちはヴィーヴォの友達だと。
ヴィーヴォは自分が独りだという。でも、彼の周りには彼を
ヴィーヴォがいないと、ヴェーロの側には誰もいない。
家族も、友達と呼べる人も。
ヴィーヴォと一緒にいることを選んだのは自分自身だ。
でも、彼がいなくなったら自分は――
彼はあなたを独りにする
それでもあなたは彼を愛する
何て
何て
まるで自分の気持ちを
「違うっ! ヴィーヴォは竜から何も奪わない! 竜が……人間を……嫌いなだけ……。ヴィーヴォのせいじゃない……」
「Kompatinda.《可哀そう》Vi estas tro afableco.《あなたは優し過ぎる》」
人魚は眼を伏せ、悲しげに何かを呟く。何を言っているのか分からないが、彼女が自分に同情していることは分かる。
「そんなの……いらない……ヴィーヴォを悪く言わないで……」
「Por li vi estas sole……《彼のためにあなたは独り……》」
そう呟いて、彼女は空を仰ぐ。
桜色の唇を動かし、彼女は星空に向かって歌を
独りぼっちの竜
あなたは、どうして独なの?
側には、私がいるのに
歌はまるで水がしみ込むように、ヴェーロの耳に入り込んでくる。そっと彼女は顔を下ろし、ヴェーロに微笑んでみせた。
「Ni estu amikoj《友達になろう》:……tomodati《ともだち》……トモハチ……ともばち……」
首をこくりと傾げて、人魚は嬉しそうに薄紅色の眼を
「友達? 竜と……友達になってくれるの?」
「Jes, ĝuste! !《うん、そうよ!!》」
「あっ……」
ヴェーロの両手を握りしめ、人魚は弾んだ声をあげる。彼女はヴェーロの手を取って、くるくると回り始める。
「あ……あっ! ……あぁ!!」
ヴェーロの視線がくるくる回る。あたたかな海の波が肌を
嬉しそうに弾んだ声をあげながら、人魚が歌を
竜と人魚は共にある
人魚は竜と
人魚は竜を笑わせたい
歌い終えて、彼女は嬉しそうな眼をヴェーロに向けてきた。
「きゅん!!」
彼女がヴェーロの体を抱きしめてくる。冷たい彼女の肌が体に触れて、ヴェーロは思わず声をあげていた。
「Ni iru!《行こう!》」
人魚が嬉しそうに声をあげる。
銀の帯が、ヴェーロの眼前で
ヴェーロを抱きしめたまま、人魚は海底へと
人魚はヴェーロの手を掴み、体を引き寄せてくれる。砂地に足をつけると、かすかに砂が舞いあがる。ヴェーロが翼をはためかせると、舞いあがった砂は海流に巻き込まれ散っていった。
人魚はヴェーロの手を取り、前方へと進み始める。
どこに連れていかれるのだろう。不安になり、ヴェーロは動きをとめる。そんなヴェーロを人魚が振り返った。
桜を想わせる
ヴェーロは珊瑚の枝に腰を下ろし、崖を眺めた。人魚が崖に近づき水かきのついた両手をあてる。
彼女は眼を
大きく眼を見開き、ヴェーロは背中の翼をはためかせる。人魚の側に降りたち、ヴェーロは崖に現れた文字の
その文字を見て、ヴェーロは
文字の輝きが、ヴィーヴォの吐く灯花とよく似ていたからだ。隣にいる人魚が、崖を指で軽く叩く。崖の内部に無数に輝くものがあること認め、ヴェーロは眼を見開いた。
花だ。
その音色に合わせて、人魚が歌を奏でる。
海中であるはずなのに、人魚の歌声は
それは、
大切な恋人を奪われた人魚の歌声は、悲しく海に響き渡っていく。
その歌声を
どうか、どうか聞いて欲しい
彼の言葉を、彼の死を
どうか、どうか聞いて欲しい
私の言葉を、私の嘆きを
桜色の髪を海中に
それは
1つの瓶が浮かびがり、高いソプラノを奏でる人魚の元へと近づいてくる。人魚は、瓶をそっと両手で抱きしめた。
眼を
彼女は眼をゆったりと開け、辛そうな眼差しをヴェーロに向けてきた。胸に抱いた瓶を彼女は両手で持ち直し、ヴェーロに見せてくる。
その瓶に入っているものを見て、ヴェーロは眼を見開いた。
それは、
銀色の眼球が、地球の輝きを受け桜色に輝いている。瓶を持つ人魚は、そんな眼球を泣きそうな眼で見つめていた。
初めてだった。
ヴィーヴォ以外の存在を乗せたいと思ったのは。
背中に響く人魚の笑い声が心地よくて、竜の姿になったヴェーロは眼を細めていた。
翼をはためかせ、
人魚がおいでと星々に語りかけている。
その声に引きつけられ、煌めく星々が
人魚の名前は、メルマイドといった。
死んでしまった恋人につけてもらった名前だそうだ。
恋人の名前はkoralaj《コーララフ》という。人間は彼のことを
彼は花吐きだった。
ヴィーヴォの話と全く逆だ。
彼は人魚が珊瑚色を殺したと言っていたし、殻である人魚は人の敵だとも言っていた。
珊瑚色はそんな人魚たちに近づいたから、殺されたとも――
どちらが本当のことなのかヴェーロには分からない。でも、メルマイドが
歌を通じて彼女と心を通い合わせた。
自分を
メルマイドは珊瑚色を失った悲しみを自分に
そして、ヴェーロに頼んだのだ。
これ以上、人魚を殺さないで欲しいと。珊瑚色が死んだ本当の理由を、あの夜色の花吐きに教えて欲しいと。
彼に、あの崖に記された文字を読んでもらいたいと。
この水底で文字を書ける存在と言ったら、水底を治める教会の人間ぐらいだ。
ヴェーロもメルマイドも自分の名前を書くのがやっと。メルマイドは自分よりも単語を書くことが出来るけれど、あの文章を読むことはできないという。
ただ、
Vivo《ヴィーヴォ》。
それが、崖に刻まれた文字の中に多く含まれている人名だ。
メルマイドは砂浜を散歩していた自分とヴィーヴォの会話から、文字に刻まれた人物が自分たちを
夜色としか呼ばれない彼が、本名であるヴィーヴォと呼ばれている姿にメルマイドは驚いたという。
名は、その名を持つ存在を
今は
聖都では今でもその呪術が用いられ、花吐きたちは名を縛られることで聖都への
彼らの本名を知っている人間は
名のない存在に名前をつけたものは、その存在そのものを支配することができることも珊瑚色は教えてくれたという。
だから、名を持たないメルマイドは珊瑚色に名を授けて欲しいと願った。
自分が彼を愛している証として、メルマイドは名を欲したのだ。
「Sabla plaĝo estis vido!《砂浜が見えてきた!》」
メルマイドが弾んだ声を発する。その声にヴェーロは、大きく眼を見開いていた。白い砂浜が視界に映りこむ。
その砂浜に咲く灯花を見て、ヴェーロは眼を見開いていた。
砂浜一面に、珊瑚が咲いている。いや、珊瑚だと思ったものは、薄紅色をした灯花だった。その花たちが、涼やかな音をたてながら、自分たちを
「koralaj! Koralaj!《コーララフ! コーララフ!》」
メルマイドは、嬉しそうに恋人の名前を呼ぶ。どうやらあの花たちは、珊瑚色が吐いたものらしい。
彼に会いたいと、メルマイドは言っていた。彼の墓地が、漁村の外れにある砂浜にあると。
だから自分は、彼女をそこまで乗せていくことにしたのだ。
海面に
ゆっくりとヴェーロは
しゃらん、しゃらん。
軽やかな音が聞こえる。灯花たちが、自分たちに呼びかけているのだ。
そんな灯花たちを見つめながら、ヴェーロは人の姿をとっていた。
少女の姿となったヴェーロは、浅瀬に
「――!」
「連れて行ってあげる……」
驚くメルマイドを抱上げ、ヴェーロは彼女に微笑んでみせた。
「Dankon……《ありがとう……》」
お礼を言って、彼女は水かきのついた手をヴェーロの首に回してきた。ヴェーロは彼女を抱き寄せ、砂浜へと顔を向ける。
ふと、こちらに走り寄ってくる少年の姿に気がつきヴェーロは眼を見開いていた。ヴィーヴォだ。慌てた様子で彼がこちらに駆けよってくる。
「竜っ!」
ヴィーヴォが自分を呼ぶ。
ヴェーロが飛び出してすぐに後を追ってきたのか、彼の僧衣は
「竜っ! 」
逃げなきゃ。そう、ヴェーロは思った。
そうしなければ、彼を傷つけてしまう。ヴェーロは後方へと振り向き、翼を広げた。
「逃げるな、Vero《ヴェーロ》!」
ヴィーヴォが自分を呼び止める。
名を呼ばれた瞬間、ヴェーロは体中の筋肉が
力が入らず、腕に抱いたメルマイドを海に落としてしまう。海中に腰をつけたままへたり込むヴェーロの腕をヴィーヴォが
「ヴェーロっ!」
力の入らない自分の体を彼は引き寄せてくる。
「人魚と一緒にいるなんて……。何を考えてるんだ、君はっ!?」
ヴィーヴォの怒声が
驚いて、ヴェーロは後方へと顔を向ける。海中に座り込むメルマイドを、小さな光の粒たちが襲っていた。ヴェーロの
「やめてっ!」
「うわっ!」
ヴェーロは、ヴィーヴォを突き飛ばしていた。彼が海に倒れ込むのも気にせず、両手で自身を
ヴェーロの白い
傷だらけのメルマイドを抱き寄せ、ヴェーロは空へと飛び立っていた。
「ヴェーロっ!」
ヴィーヴォの怒声が聞こえる。
体を起こした彼は、上空へと逃れた自分を
ヴィーヴォの人形術だ。あの小さな竜たちは、強力な火球すら放つことが出来る。それを使って彼は、メルマイドを
「やめてっ! メルマイドは竜の敵じゃないっ! 竜の友達っ!」
「人魚が友達っ!? 何を言っているんだ君は、そいつらは僕たち人間の――」
「竜は人間じゃないっ!」
ヴィーヴォの言葉を、ヴェーロの
「ヴェーロ……」
ヴィーヴォが自分を見つめてくる。
「嘘だ……。君が、僕に逆らうなんて! 僕を
「竜は、ヴィーヴォの人形なんかじゃない!」
自分の発言に驚きを覚え、ヴェーロはとっさに自分の口に手をあてていた。
「ヴェーロ……」
ヴィーヴォが力なく浅瀬にへたり込む。そんな彼をいたぶるように、波が彼の体を
「うわぁ!」
暗い海面から伸びた無数の手が、彼を掴み海中に引きずり込もうとしていた。
それは、笑い声をあげる人魚たちの手だった。
「Senutila!《ダメっ!》」
「あっ!」
腕の中のメルマイドが尾鰭を跳ね上げ、海へと跳び込んでいく。海面に
「ヴィーヴォ! メルマイドっ!」
ヴェーロは叫び、海面へと急降下していた。
「ヴェ……ロ……」
人魚に頭を抑え込まれたヴィーヴォが、ヴェーロに手を伸ばす。その手を掴もうとした瞬間、彼は海中へと沈んでいった。
ヴェーロの手が
「ヴィーヴォっ!」
叫んでも、彼は答えない。
その叫び声は、不気味なほど静かな夜の海に響き渡った。
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