絶望し続けている限り、人は絶望しない。

 彼女の目は、表情は、言葉遣いは、それを如実に表していた。

 希望の残滓すらすっかりなくなった、絶え間ない絶望の中に彼女は生きている。絶望しているということが当たり前になってしまっている。そうなってしまえばかえって楽で、絶望を乗りこなせば動くことも進むこともできるようになる。そして絶望し続けなければ、もうどうにも立ち行かない。

「ああ、ググっても出てこないよ。そういうとこだから」

 陰湿さはない代わりに、肌がひりつくほどのドライな声で僕がスマホを取り出そうとするのを止める。冷淡さが行き過ぎた結果、どこかあっけらかんと聞こえる。言葉は乾いているのになげやりなおふざけが入っているので、突き放す感じは受けない。

「官僚――なの?」

 乾ききった、ひび割れのような笑み。自虐のためだけに浮かべられるそれは、同時に自分を無理矢理鼓舞させているようでもあった。それも含めて、自虐でしかないのが痛々しい。

「周りの人たちは基本官僚だけど、私は特例でね。一応年齢は君より上だけど、制服がコスプレにならない程度の若さ、と思っていただければ」

 確かに彼女はなんの違和感もなく高校生の中に紛れ込んでいる。目測になってしまうが、恐らくはまだ未成年だ。

「キボウ――さん……?」

「呼び捨てでいいよ。三日月タタリと同列の扱いされたら、もうプラス三乗くらい死にたくなるから」

 やはりタタリさんを知っている――僕が前のめりになるのを見て、キボウはげんなりと肩を落として身体を引く。

「がっつくながっつくな。わかってるよ、全部話す。本当に、全部」

 踊り場から屋上に続く埃が堆く積もった階段に、キボウはなんの躊躇もなく腰かけた。楽にしろと促されたが、僕は直立不動のままでいた。

「たとえば、空いた隙間。閉じたままなにもない空間。外部から不可侵の領域。そこには本当になにもないと言えると思う?」

 怪訝な顔をする僕に、キボウはわかってるよと溜め息を吐く。

「死ぬほどめんどくさい話なわけ。こっちが導入にどんだけ頭捻ったかちょっとは察してほしいな。じゃあそうだなあ、妖怪だとか、憑物だとか、呪いだとかいうキーワードをこれまでのあれこれの中で聞いたことはある?」

 頷く。妖怪というのは伯父がタタリさんを称したもの。呪いというのは解釈人と対峙した際に。そのことを伝えると、キボウは心底いやそうに顔を顰めた。

「ジョン・ドゥが――癪だけど、妖怪を採用。さっき言ったような場所に、妖怪が出てくるっていう話を」キボウは僕の顔を見て、楽しそうに笑った。「そうそう。妖怪でも魔化魍でも外道衆でも言い換えはなんでもいいのね。とにかく、その妖怪が、とある領域に現れた」

 そこでキボウは、この話はここまでとでも言うように、「さて」と切り替える。

「解釈人なんていう馬鹿げた連中が暴れ始めた頃、私の家族はみんな纏めて死んだ」

 悲痛な表情でもトーンでもない。失礼極まりない話なのだが、その口調から僕は昔の武勇伝を照れるのを装いながら自慢しているクラスメートを想起した。

「なんだったかな、名前も忘れるくらいどうでもいいようなとこなんだけど、立ち上げ数箇月の新興宗教かなんかでさ。そこに両親が入信して、家財全部つぎ込んでってって。どうしたもんかなーって我関せずでやってたら、家にその宗教の教祖サマが突撃してきてね。君もレッツジョインみたいなことを言ってくるわけよ。はあそうですかで流してたんだけど、同席してた弟がなるほどなるほどでジョインしちゃって、こりゃおかしいぞってなってさ。あいつ、そんな頭よくないけど馬鹿じゃなかったから、こんな口車には乗らないはずなんだけどなーって、逆に興味が湧いて、教祖サマの話を注意深ーく聞いてたの」

 卑屈に嘲るように口角を吊り上げ、キボウは人差し指でこめかみをぐりぐりとこねくり回す。

「自分の中に押し入ってくるのがわかった。私という個人の有する領域が、土足で踏み荒らされていく。買収されていく。教祖サマの言葉はそれに気付いた時点で私には届いてなかった。ただ、自分が犯されているのがよーく理解できただけだった。私が自己を肯定できる領域がどんどん失われていく中で、チャンネルの誤操作をしたように自分になにかが繋がったのがわかった。あれ? って思ったね。それは教祖サマの立ち入りより、よっぽど凶悪ななにかだったから。失われていく私の領域が息を吹き返したように、滅茶苦茶に広がっていった。どこまでが私で、どこまでが虚無なのかわからない。そもそも私という自我が存在するのかさえ、わからなくなっていた」

 キボウのこめかみを突きさしていた指が、ゆっくりと爪先まで下がり、そこから這うように足を上っていく。

「マジで笑えるんだけど、私を引き戻してくれたのは教祖サマだった。ふと痛いな、って気付いたら、教祖サマが私を種付けプレスしてたの。これは神聖な儀式ですだのなんだの言って、周りの家族はがんばれがんばれって応援してるし、怒る気力すら湧かなかったね。で、はっきりわかった。こいつら、もう駄目だって」

 乾いた笑みからは、なんの感慨も読み取れない。

「私はまだ、繋がったままだったし、広がり続けてるままだった。ただその中に、自分がぼけーっと立っているのは知覚できた。じゃあと思って、その虚無を自分のものだと捉えてみると、なるほどなあって急速に理解が始まった。それで、私は私に自分の解釈を敷衍しようとした教祖サマを、解釈した」

 わかっていたことだった。彼女が今ここにいる以上、どうあっても解釈人と関わっていなければならない。

 だが、解釈人を解釈したというのは、まるでタタリさんの仕事のような。

「解釈というものの構造というか、ここを引っこ抜けば崩れるぞーみたいな手順は、虚無からいくらでも流れてきてね。それに従ったのか、自分で考えたのかはよくわかんないけど、教祖サマは見るも無残にぶっ壊れて、その場で包丁首に突き刺して死んだ。それでめでたしめでたしならよかったんだけど、教祖サマを必死に応援してた家族も仲良く包丁使い回しておっ死んだんだよね。後追いっていうより、耐えられなかったんだろうなあ」

 なにが――とは聞かない。わかり切っていることだ。

 解釈違い。キボウは自らの手で起こしたそれによって、まず家族を失った。

「まあ、目の前で教祖サマがぶっ壊れて自殺したんだから、解釈を敷衍されてた家の連中が死ぬのは納得できるでしょ? でもそのあと、ちょっと大事になっちゃてさ。その新興宗教の信者が、全員死んだの」

 僕の顔を見て、キボウは「コラッ」と怒る真似をする。

「納得すんなよな。三日月タタリから入ったせいで頭が回ってないのか。特撮とかで、怪人の能力で変になった人たちが、怪人倒したら元に戻るっていうお決まりがあるでしょ? あれを実際にやっているってことが、どれだけ異常なことか気付かない?」

 そうだ――僕はタタリさんと最初に向かった解釈人が解釈されたあと、「無限に酒が飲める薬」を処方された男が薬の効果を失ってゲロの海に浸かっていたのを見ている。僕の思考はそこで停止した。解釈人を解釈すれば、解釈を敷衍された人間も元に戻る――そういうものなのだと納得していた。

 だが、解釈というのはそんな生易しい代物ではない。

 考えればすぐわかることだった。その解釈が明らかな間違いだと巷間に広まろうが、解釈を提示した当人があれは間違いだったと認めようが、一度個人に根を下ろした解釈というものは、その解釈を敷衍された人間が自分自身で破却しない限り絶対に離れない。

 一度敷衍された解釈というものは、それを敷衍した人間の手を完全に離れたのも同義なのだ。敷衍された人間は、自分の都合のいいようにその解釈を抱えて、あるいは勝手に解釈して、自分のものだと信じ込む。たとえ解釈を敷衍した人間を解釈してしまえたとしても、その影響下にある人間の中に根付いた解釈までもが全て無効になるなどということが起こるはずがないのだ。

 それは解釈人でも、同じこと。

「それでまず、お国の研究機関にしょっ引かれた。多分あちらさんも、最初から目星がついてたんだと思う。私はとある妖怪に取り憑かれていることが判明した」

「解釈の余地――」

 僕が言葉を続ける前に、キボウは「それ」と指差す。

「まさにそれなんだよなあ。解釈の余地という中空領域。そのなにもない状態はだけど、流れ続けている。流れであるがゆえに、そこで動いているものは存在することになる。その流れ、動きというものによって萌芽したのが、私に取り憑いた妖怪の正体」

 それはつまり、解釈の余地そのものが有する意識ということなのではないか。

「国のほうは病気というか、細菌とかウイルスみたいな扱いをしてる。情報の流れに寄生し感染し拡大する悪質な疫病神。接続されたことによって感得したその名は〈解釈ときわけみこ〉。私はその、原種保菌者として隔離された」

 キボウが名乗った「情報防疫」という耳慣れない言葉を思い出す。いやしかし、保菌者キャリアであるキボウがなぜいま防疫の側に立っているのか。

「ところが、あちらさんの目論見は外れた。私はそれに感染した時点で、単なる〈解釈ときわけみこ〉の傀儡――アバターになっていると目されていたみたいで。話を擦り合わせていくうちに、どうやら違うみたいだぞ、と随分遅れて気付かれて。まあ確かに、あの虚無に繋がったまま私がなんで自我を保っているのかは、今でもよくわかんないんだよね。あちらさんは〈解釈ときわけみこ〉が私の意識を乗っ取って私のふりをしているっていう認識で、それならなにやっても文句はないだろうって構えでさ。まあ、国の機密というよりは私の尊厳上、絶対に口にできないようなことも散々やられたよ」

 私は――キボウは常にそうである絶望を顔に浮かべたまま、無味乾燥な言葉を並べ立てる。

「早い話、あらゆる意味で失敗作だった。〈解釈ときわけみこ〉の側からすると、感染して乗っ取るはずだったのに、個人の自我が克ってしまった。国からすると、死体同然のただの検体のはずが、厄介なことにまだ生きた人間だった。ただまあ、やることは変わらないし、私も協力することにした――するしかなかった」

 蝋燭の火を吹き消すような溜め息を吐き、身体を弛緩させる。もう僕にもわかっていた。また話が違う方面へと飛ぶのだ。

「ややこしいんだけど、解釈人という連中が発生した原因は、〈解釈ときわけみこ〉じゃない。解釈人が暴れ始めたことで、解釈の余地という奴のリソースが大きく失われた始めたから、その対抗措置として人間に感染しようと試みた。それが失敗したんだから笑えるけど、お国のほうでも解釈人に頭を悩ませてたから、渡りに船ではあったわけ。というより、奴が現れるのを待っていたフシすらあった。だから私を隔離する手際の速いこと速いこと。私に感染した〈解釈ときわけみこ〉をどう利用するか。最初は〈解釈ときわけみこ〉と直接交渉して協力してもらうつもりらしかったんだけど、ご覧の通り私がこれだから。じゃあ〈解釈ときわけみこ〉に接続している私を使うかって話になったんだけど、お恥ずかしい話、その時にはもう、私はまともに動ける状態じゃなかった」

 キボウは絶望というエンジンをかけっ放しにしていることで、やっと僕と話せている。逆に言えば、わずかでも生きる希望をその身に宿していたのなら、絶望の荷重で立ち上がることすらできなくなる。当時の彼女は、まだその段階にいたのだ。

「ならってことで、私から〈解釈ときわけみこ〉の株を作り、それを注入することで〈解釈ときわけみこ〉が自由に動かせるアバターを作ろうってことになって。ああ、そんな顔しなくても大丈夫。生の人間に注入するような真似をしないだけの良識はあったから。〈解釈ときわけみこ〉はいわば情報寄生体だから、それが寄生できて、ヒトとコミュニケーションを取れるものを考えた結果、アーカイブ化された人格というとこに行き着いた」

「それは――」

「そう。キャラクター。最初は有名どころの漫画とかアニメとかのキャラクターの人格を仮想成型して、片っ端から〈解釈ときわけみこ〉の株を注入した」

 当然のことのように言っているが、キボウの中から〈解釈ときわけみこ〉を採取するということは、恐らくは凄まじい苦行だったはずだ。彼女が壊れていったのは、口外できないレベルの検査――実験の結果だということは容易に想像がつく。〈解釈ときわけみこ〉が情報寄生体と言うのなら、それは決して通常のウイルスのように採取することはできないはずだ。その技術を確立するため、キボウは検体としてあらゆる手段を試みられたのだろう。

「でもなかなかうまくいかなくて、そんな時に今日はある人の何周忌ですっていうニュースが流れた。その人はいろんな媒体で発言をしていたし自伝もいっぱい書いてて、早い話、めちゃくちゃキャラが立っていた。人格がアーカイブ化されていると言ってよかったし、死後それほど時間も経っていない、生に近い人間の人格なら、っていう観測もあった。急いでその人の人格を仮想成型し、〈解釈ときわけみこ〉の株を注入したら、これがうまくいった」

 僕の顔を見て、少し残念そうに溜め息を吐く。本来ならここで気付け――とキボウは笑う。

「ただまあ、うまくいきすぎた部分があった。〈解釈ときわけみこ〉はその人格フレームに異常適合したのね。本来は端末上で自律思考できる程度のものを想定してたんだけど、解釈の余地という領域にならいくらでも介入できるという性質を見誤った。人間が知覚し、解釈の余地が発生し得る場なら、彼女は実体を伴って現形することができるようになっていた」

 僕は絶句しつつ、ついにその時がきたことに息を止めた。

「〈解釈ときわけみこ〉の自立型現象介入偶像体アバター。与えられた呼称は三日月タタリ」

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