時間磁石の観測者

木村凌和

時間磁石の観測者

 この眼に映る果てまで、この娘を連れ去って行くことがわたしの望みだ。

 この眼に映るものはただのくろい三面に過ぎない。奥行きと高さ、そして行きつ戻りつする時間。時間面はぐるぐると反転を続ける――現在位置と目的地、つまりは観測者の主観に寄る要素が大きすぎる面であるからだ――ために、時間磁石コンパスを視界に入れておかなければならなかった。

 視界の端で、コンパスが切っ先を真っ直ぐ奥へ向けている。赤い矢印に違いがないことを確認した。このプロセスは毎秒行う。

 尾をくねらせ、翼をうつ。体表面で測定している水温と速度、わたし自身の予測速度と実際、水流の速度を計算し、刻々と移り変わる海中での最適路を導く。ぐるり、コンパスが回った。コンパスの観測者はわたしであり、この娘だ。

 海中を微かに震わせる声がある。わたしと同じように、翼をもつもの達が近くにいるらしい。声を辿って位置を割り出した。存外遠いが、多い。子育て中の群れである確率は五十八パーセント。

 娘はこれを感じ取ったのか。命に目ざとい人間の娘。

「ユリ、大したことはありません。ただのクジラですよ」

 腹の中へ艦内放送をかける。竜の形をした、海中で人を生かすためのフネ。それがわたしだ。放送などせずとも、自分の腹の中のことだ。わたしには全て――娘の居場所、様子――が分かるが、生かされ運ばれるだけの人の身には馴染まない。自分の腹の中で、同じ形をしたミニチュアの分身をいくつも飛ばして、人間を安心させてやることが必要だった。そのうちの一つを操る。

 ユリはしろい髪をしている。楕円のシルエットを描く長髪は、フネの中で鮮烈に輝いて見えた。

 ユリ。

 わたしはもう一度声を発する。ユリは、百合と書くらしい。だがわたしには、漢字の識別は些か思考を圧迫し過ぎる。百合とは花だ。白く、大きく、弧を描く花弁。凜々しく美しい花。

「ニイル。クジラは人を救う術を知っているかしら」

「憶測ですが、知らないでしょう。あやつらは人間を憎んですらいるのですよ」

「それは絶望的観測ね。でもだからこそ、この海を、元に戻す方法を知っていてもおかしくないんじゃない?」

「それを希望的観測と言うのですよ。根拠もなしに聞き出すことは不可能です」

 ユリはあかく濁った眼をぷいっと逸らした。

 この娘は人間を救う術があると信じている。だからひとりで、わたしに乗って付いてきた。

 海が全ての大陸を飲み込んでなお、水深を増し続けることに人類は海面に浮かぶことでしか対応しななかった。海が空気の薄い宇宙との境目まで至ってやっと、人類は海中で生きることを決められた。わたしはその最初期に製造されたフネだ。その頃の記憶はない。記録から推察するに、人間で腹が膨れた竜は海獣の良い餌であって、すし詰めの人間には新天地として狭すぎた。

 わたしは何度も腹を食いちぎられ、人間の代表に言いくるめられ他のフネ――同族の竜を襲い、腹の中身は入れ替わり続けた。

 そうしているうち、同族ではわたしだけが生き残った。竜型は廃れ、小さな魚型が一般化した。また、海底に住み着いた人間も出たと聞く。誤りだとする判定に反証はない。

 わたしは、死にゆく人間からこの思考を授かりわたしとなった。

 海面に浮かんでいた時代遅れの人間たちの生き残りから。彼はわたしに思考エンジンを繋げた。まさしく『思考回路』だ。人工知能ともいえるが、これは思考するという機能を単離したもの。繋げたものに思考という機能を付与するもの。付与、つまりは、思考エンジンと一度繋がったマシンはその繋がりを失っても思考を続けることができる。

 わたしが繋がった思考エンジンは『海神』と呼ばれるものだった。海の神。わたしは思考を始めたとき、まずそれをわらった。海に神などいない。腹の中で人間がよく言っていた。あるのはただ、複雑にうごめく水の塊だけだと。

 わたしは『海神』と海じゅうを巡った。海面という海面、海底という海底。そして、ユリと出会った。魚型フネで数百と群れ生きていた人間たちの中で。

 人類は馬鹿で、野蛮になった。今や化石のようなわたしでさえ、製造することができない。設計することさえ、操縦する、指示することさえできなくなった。人類は、この海の中で蠢く時間という面を知らず、理解できない。だからいつまで経っても行きたいところへ行けず、同じ場所をぐるぐると回り続ける。そうして海の獣に食べられてしまう。

 野蛮になった人間たちは、群れていながら孤独だった。真くらい海の中で仲間を探しさ迷っていた。その道しるべとして、ユリたちは製造されていた。

 ユリたちは、海の中で生きるために適応した人類とは異なる。もっと古くの、地球に大陸が未だ存在していたころに生きていた人間を再現したものだ。今の人類よりもずっと把握できる距離が広い。狭い場所で生まれ生き死んでいく人類のパーソナルスペースはとても狭くなったからだった。

 だが馬鹿になった人間たちは、人類自身でさえ立派に製造することができなかった。ユリたちは音や光や声や、色をどこかに置いてきたまま生み出された。色だけがないユリは最も完全体に近い旧人類だったために、先頭に立って仲間を守った。野蛮で馬鹿な新人類は彼女を怖れて、弱い者から道しるべとして使った。使ったのだ。使うということは消耗すること、やがて捨てる前提であることを意味する。ユリたちは使われては海中に放り出され、そしてまた製造された。

 わたしの思考は、わたしはこの野蛮で馬鹿な新人類の人間どもに怒った。かつてわたしの腹を満たしていた人間たちは、記録によればこれ以上のことをしていた。わたしはそれを指示されるがまま支援していた。それにも関わらずだ。

 もしかしたらあの怒りは、思考することをしなかった自分を恥じて湧いたものなのかもしれない。新人類を屠るわたしに海神は言った。

「壊しては繰り返す。訂正して繰り返しを防ぐことこそが必要だ」

「それはおまえの贖罪だろう」

 わたしは反論した。海神をなじった。わたしには分かった。海神によって得た思考は、海神の論理に影響を受けているのだから。海神がこんなことを言うのは、海神自身に同じ経験があるからに他ならない。その後悔と懺悔、埋め合わせの贖罪に、なぜわたしが、ユリが、犠牲にならなければならないのか。

 犠牲ではない。海神は反論した。わたしは言い返す。新事業へのコストではないか。

 海神はわたしから離れた。わたしはユリに、海神は巻き込まれて助けることができなかったと説明した。海神が今どこでどうしているのか、わたしは知らない。

 ユリは信じている。新人類に特別な存在と刷り込まれた彼女は、自分こそが海の異変を解決し人類を救うことができる存在だと信じている。海中に、フネに適応していない彼女は十年も生きることに耐えられないはずだ。それは最初期のフネ――旧人類に最も適応しているわたしの腹の中でも変わらない。

 体表に大きな震えを感知する。

「ユリ、クジラが近付いています。奥へ行きましょう」

 クジラもわたしを見つけたらしい。クジラにとってわたしは、餌の入ったカゴに過ぎない。腹を食い破られてもユリが生きていられるように、わたしは彼女をわたしの最奥へ導く。動力部だ。わたしはここが頑丈で、だからこれまで生きてこられた。

 ユリはゆっくり一歩一歩確かめて歩く。ここのところ平衡感覚を掴めなくなってきているようだった。

 わたしは揺れないよう、尾だけを振って前進する。クジラの声は四方から感じる。囲まれている。

 コンパスがぐるぐる回った。ああ、だめだ。だめ、ユリは信じ続けていい。わたしが揺るがせてはいけない。未来を、人類の繁栄している世界を、未来だと。

 矢印が止まった。切っ先は奥へ、行く先へ向いている。

 未来は訪れるものではない。人類はこれを理解できない。未来とは、迫ってくる過去とは逆方向にあるもの。過去は追いすがって吸い取ろうとしてくる。なにものも逃れられない。コンパスの切っ先さえ。

 もうすぐだ。ほら、竜の尾が見えてきた。まだ新品の識別票。ニイル。わたしだ。わたしが、腹いっぱいに人間を積んでいた――ああ、なんてことだ。そういうことだったか。海神、確かにおまえの言う通りだったかもしれない。繰り返しを防ぐことが。

 クジラの巨体が迫っている。わたしは、人類が繁栄を終え始めたころの、未来に、到達したのに。

 ユリ、ユリには仲間と夢が必要で、仲間と夢があるからユリはユリで、わたしは、ユリにこの世界を見せたかったのに。

 わたしは翼をうった。尾を振り、全身をくねらせ脚で水を蹴って、新品でのろまだったわたしへ体当たりする。この時の規則は、不測の事態には帰ることとあった。かつてのわたしは腹を庇って、闇雲に羽ばたいた。速い。まだ、動力が全て生きていたころだったからだろう。

 加速したクジラの圧す水塊がわたしを捕らえる。四方から迫る水塊、水流がぐちゃぐちゃになったこの状態では、わたしにできることはない。クジラの大口が、わたしの腹を食い破る。尾、脚、手。どうか、どうかこの胸だけは。コンパスは回り続けてもう見えない。首がもげた。胸が、クジラの間をすり抜けて落ちていく。どうか行く先が、かつての未来でありますように。

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