第9話 タイマン勝負

 ヤツが来た。

 今夜の俺は何も罠を仕掛けていない。頭を使って体で勝負してやる。


 目の前で見ると流石にデカい。いや、立ち上がっても俺と同じか少し小さいくらいだ。だが重量が全然話にならない。こんなのに体当たりされたらひとたまりもないのは一目でわかる。とにかく至近距離に入られたらアウトだ、間を取って戦うしかない。


 クマは背中を見せたら追ってくると聞いたことがある。相手を弱いと判断すると、攻撃してくるらしい。山でクマに出会ったら、目を逸らさずに静かに後退しろという話は有名だ。

 俺は竦み上がる体と気持ちを必死で立て直し、勇気を振り絞ってヤツと目を合わせた。


 小さな目だ。そうだ、クマは目が悪い。俺がビビってるかどうかなんて、表情じゃわからないんだ。こいつは俺のを見てるんだ。俺がビビる必要はない。


 俺はヤツの正面に立ち、殺虫剤のスプレー缶のトリガーに指をかけた。


 ヤツは動かない。俺も動かない。しばらく睨み合いの時が続いた。まるで「先に動いた方が負け」とでもいうように、双方が固まったまま時間だけが過ぎて行く。


 不意にヤツが動いた。俺はトリガーを引くと同時に、左手に持っていたライターで火をつけた。

 一瞬にして辺りが明るくなる。あまりの明るさに、思わず反射的に目を逸らす。自分でも驚いた、こんなに見事に火炎放射器になるとは思ってもみなかった。ヤツも驚いたのか、即座に飛び退いた。あの巨躯で凄い反射神経だ。


 だが、ヤツはあからさまに敵意をむき出しにしてきた。低く唸るとこちらに向かって来やがった。マジでヤベぇ。

 俺は必死でスプレーを噴射した。勿論火をつけて、だ。殺虫剤に制汗剤、虫除けスプレー、コンビニにあったスプレー缶を片っ端から持ってきたんだ、いくらでもあるぞ。クマの丸焼きにしてやる。

 ヤツは怒り狂ってこちらに向かって来ようとする。俺がほんの僅かでもこの火炎放射をやめたら、その瞬間に攻めてくるに違いない。あんなのにやられたら俺は死ぬしかない。文字通り「殺るか殺られるか」だ。


 じりじりと前進と後退を繰り返しながら、ヤツとの間を詰めて行ったところで、スプレーが切れた。ヤバい! 

 ヤツが襲い掛かってくる。俺は手近にあったビニール傘を突き刺した。……つもりだった。とんでもない、ヤツの前脚に軽く弾き飛ばされてしまった。


 まずい!

 そう思った瞬間、俺は何かに足を取られて尻餅をついた。そこにヤツが覆いかぶさってくる。やられる!

 咄嗟に右手を伸ばした。何かに触れる。この感触はスプレー缶!


 俺は目の前に迫ったヤツの顔に向けて、トリガーを引いた。

 視界が一瞬白くなった。パウダー入りの虫除けスプレーか。きつい匂いに自分もむせ返る。至近距離で発射するのは諸刃の剣だ。だがそんなことは言っていられない。トリガーを引く指を緩めることなく、ライターのホイールを回した。

 目の前で炎が炸裂する。俺自身に火が点くんじゃないかと焦ったが、ここで緩めるわけにはいかない。

 焦げ臭いにおいが鼻を衝く。クマの毛皮の一部が燃えたのか。ヤツは呻き声をあげて俺から飛び退いた。

 逃がすか! 俺はヤツを追うように飛び起きて火を放ちながらじりじりと近づいた。ヤツは背中を見せない。まだやる気だ。畜生、いい加減負けを認めろ、でないと俺がくたばる!


 このままではスプレー缶がなくなった時点で俺の負けだ。どうする? どうしたらいい? 考えろ考えろ考えろ!


「うわっ!」


 ほんの僅かにヤツから目を離した瞬間、ヤツはその前脚で俺の持っていたスプレー缶を弾き飛ばした。それと同時に俺自身も吹っ飛ばされて、家にしている木に激突した。


 くらくらして平衡感覚がわからない。畜生、あいつどこへ行きやがった。

 不意に俺の上に影が落ちる。ヤツか!

 咄嗟に周りを見渡す。


 ここにこれがあったとは!


 俺はそれに向かって手を伸ばすと、掴むと同時に振り向きざまそれをヤツに向けて思いっきり振り上げた。


 鈍い音がしてヤツが悲鳴を上げる。破れたコンビニ袋から缶コーヒーがごろごろと散らばり落ちて転がって行く。

 ああ、もうだめか。これで俺は終わりだ。

 俺は腹を括って目を閉じた。


 ……?

 攻撃してこない?


 そっと目を開けると、ヤツが帰って行く後ろ姿が見えた。

 命拾いした。


 だが、その後ろ姿は「今日のところは勘弁してやる」とでも言いたげだった。つまり、「次は容赦しない」ということだ。


 何とかしなければ。ヤツと共存することは不可能だ。俺が死ぬか、ヤツが死ぬか、二つに一つだ。

 そういう事なら選択肢は一つしかない。


 俺がヤツを倒す!

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