恐れ
すぐに、見慣れた玉虫色が飛び込んできた。
気味の悪い緑の空に目を細めると、ハルは自分が踏み出した場所を眺めて見る。
本当に、何もない空間だった。建物の上に作られた、柵に囲まれた広場。柵の外へ目を向けるなら、今までで四度階段を登ってきたため、相当の高さから下が見下ろせるだろう。
「あ、おいパキカ」
突然彼女が走り出したので慌てる。
追いかけると、パキカは右側の柵の側により、格子の間から景色を眺め始めた。釣られて目を向けると、先に見えるのは普段通りの山々と、その下で蠢く大きな何かだった。
「あれは」
目を凝らす。いつしか古い図鑑で見たサイのような動物。それがぐにゃりと形を変えつつ、二本足で立ち上がっては溶けるように地へと沈み込む。
虹の土が形を成したものだ。
鈍い動きを繰り返しながらそれが進む先には、群がって土を食う蟲達がいた。
「あ、」
成り行きを察したハルは口を閉じる。パキカも息を飲んで目を見開いた。
土を食う蟲は多い。
それは自然の摂理で環境に対応するために進化したモノ達であるのだが、同時にそれを駆除しようと働く力も生まれた。
それは、『食われる土自身』である。
不恰好な生き物の姿を模した土は、形を崩しながらもその大きさを増していく。周囲の土が引っ張られるように捕食者に加わっていき、蟲の間近に来るまでには、小山のような身体となり重い音を立てた。
パキカが小さく声を上げる。
その刹那、十分に近づいたそれが、口を割いてその場を覆った。
蟲達が甲高い声叫びを上げ、何匹かは空へと飛び立った。しかし、逃げ遅れたもの達は波打つ土に飲まれ、くぐもった悲鳴と共にうねる土と同化していく。
そうして全てを飲み込み終え静寂を湛えた虹の土壌は、しばらくこねるように動き続け、また常のように低い地響きと共に静かな流動を始める。
後に残るのは唖然とそれを見ていた二人の子供だけだった。
「蟲が」
長い沈黙の末にパキカが口を開く。
話には聞いていたが、実際に見てみると恐ろしい。
食物連鎖という言葉があるとハナタに聞いていたが、今の光景から考えるとどうもピンとこない。いや、昔はそれが成り立っていたのだろうが、今の世界では、食うものと食われるものは瞬時に入れ替わる。
それは人も同じで、蟲に食われることは当然、蟲を食うことも近頃では多い。
「あぁ、大人はあれを知ってるから」
土を減らすような真似をしてはならない。
大人によくよく言い聞かされることの一つ。
「敵が増えるだけ」
パキカの声が小さく響く。ハルは力が抜けたように、その場にしゃがみ込んだ。
「…不思議だったんだ。どうして昔の人は逃げるだけだったんだろうって」
「うん」
「技術はあったはずだ。下から掘り出されるものだって、浮き出て来るものだって、すごいものばかりだ。ガラクタしかない俺たちからしたら本当に」
「そう」
「地下にいるやつらだって、もう何百年も篭ってるだろ?ハナタが、進化した技術は相当なもんだろうって言ってた。なのにどうしてって、俺昨日から不思議でしょうがなかったけど」
俯いたハルの横に、パキカが腰を下ろす。地響きは鳴り続けていた。ふと後方から一際大きな轟音が響くが、またどこかの山が沈み込んだのだろう。涼しい顔で、パキカはおさげの毛先を弄る。
「昔の人は戦ったのかな、あれと」
「そうかもね」
「それじゃあ、勝てないって理解したんだな」
「きっとそう」
脱力したようにハルは息を吐き、肩を上げる。立ち上がると、目をこすった。
「…俺、怖くなった」
そうして呟くと、パキカに目を向ける。
「お前は怖くないの?」
「別に」
「知ってたから?」
「ちゃんとは知らなかった」
「俺、これから生きてくのが怖い」
パキカは呆れたように顔を上げたが、怯えたハルの表情を見て目を見開く。
「どうしてみんな平然としてるんだ。そこら中に、俺らより強い存在が蠢いてるのに」
「…いまさらだよ。それに、まだ敵じゃない」
「まだ、だろう。蟲にすら対処に困ってんのに、土に狙われ始めたらどうすんだよ」
「知らないよ。そうなったらしょうがないこと」
「そのまま飲まれるのか。土の中で何されるかもわからない。窒息するか、押し潰されるか裂かれるか」
パキカはハルを睨め付け、深いため息を吐く。
ハルには両親が居ない。育て親の彼の叔母もハナタと違い、世界の事象に疎い事は分かっている。
当然、ハル自身も何も知らずに過ごしてきた。だからこそ、純真にこの世界で、虹の土の上でパキカと遊び回っていたのだ。
パキカは知っていた。本で、映像で、ハナタからも色々な事を聞かされていた。だからといって、知った当時に絶望するようなこともなかった。
無知ゆえの探究心。
まさかここまで、ハルが弱いとは。
臆病な者を蔑むのは、これで二度目だ。
苛立ったパキカが声を低める。
「だったら下に降りなよ」
そう言い放つと、立ち上がって歩き出す。普段は感情を出さない彼女の怒気に気圧され、戸惑ったハルは上ずった声を上げ、追うように立ち上がる。
「下って、もう帰るのか」
「違う。地下に行けばって言ってる」
見向きもせずパキカが言った。ハルは驚いたように立ち止まる。
「地下に、行けるのか?でも、ハナタは行く術が無いって」
「知らないよ。でも、降りようとした人はいるから」
「ここにいたやつか?いつ、誰だよ」
この問いに、パキカは足を止めた。そうして俯いたまま黙る彼女を、ハルは不安げに見つめる。
地下に続くものは、あの穴しかない。他所に行けば、もしかしたら通路があるのかもしれないが、ここにはそんな物はないはず。しかし、穴というのは本来、鉄の通り道である。落ちる先が安全なはずがない。
促すようにパキカを見つめ続けると、ふと、小さな呟きが聞こえる。
「…ハンナ」
数歩近づき、え、と聞き返すと、パキカは此方を向いた。その悲しそうな表情に、ハルは目を見張る。
「ハンナが降りた」
「ハンナって…パキカの」
「お姉ちゃん」
そしてまた、俯いた。
顔を上げずに、ぐずぐずと言う。
「私のこと置いてった」
「そんな、どうして」
「怖いんだって」
「え?」
「ハルと一緒」
パキカが、膝を抱えてしゃがみこむ。
呆然とするハルを横に暫すると、鼻をすする音が聞こえはじめる。
ハルは慌てたように駆け寄る。
「パキカ、パキカ大丈夫か」
「怖くて嫌だから、下に行くって」
声の震えに、ハルはおろおろとパキカの肩を抱く。そうして手を握ると、謝るために口を開いた。
「ごめんパキカ、俺なんも知らなくて」
「…弱虫。二人とも臆病者」
「うん」
「…穴のほうが、危ないに決まってるのに」
それを聞いてハルは驚愕する。パキカの姉は、あの暗闇に身を投じたのか。
「あの穴から?」
土の届かぬ場所へ。どれ程の距離があるのだろう。
それを、降りた。
「無事だったのか」
「知らない。登ってこない」
パキカは黙り込んだ。ハルも放心したように虚空を見つめる。
自分たちにも逃げる場所は、あったのだ。
過去のように、地下へ。
それでも、その場へたどり着くための手段がない。
しかし今、確実な、安全な手段があったなら。自分は降りただろうか。
「パキカは」
地下に降りるのか。
呼びかけるが返事はない。
だが、ハルは何となく感じていた。
怯えのない彼女は、この地にに居ることが好きなのだ。
流動する虹の土地。それらがたとえ、蟲や物を飲み込むものだとしても。その美しさや奇妙な動作に、彼女が無表情の下で楽しげにしていたのを知っている。
それは、世界を知るからだろうか。
おそらくそうだろう。そうして彼女はさらに、知を求めている。
だからこそ、ハルとの『遊び』について回るのだ。
「パキカ」
ならば、世界に恐れをなした自分は彼女にとって、不用なのではないか。
恐ろしくなった。
虹の土よりも。
咄嗟にパキカの肩を掴む。
その瞬間。
唐突に、聞いたことのない轟音が辺りに響く。
同時に足場が、建物が大きく揺れ始め、バランスを崩したハルは床に身を倒す。
地響きとは違う、大きな音が耳を揺らした。
「なに」
咄嗟にパキカに目を向けると、彼女も同じように体制を崩し、目を丸くしていた。
何が起きているのか分からないまま、二人で呆然としていると、その大きな振動は直ぐに止んだ。嘘のような静寂が訪れる。
しかしその直後、再び始まった音と共に後方に身体が滑り落ち始めた。
「…傾いてる!」
斜度が増していく。訳も分からない内に、建物は傾くようにして土の中に沈み始めた。ハルは無意識にパキカの手を取り、近くの柵を掴む。
パキカは困惑した表情でハルに縋った。建物は驚くべき早さで沈下して行く。辺りには虹の砂塵が巻き上がり、視界の隅に普段よりも大きく波打つ大地が見えた。
「パキカ、離すな!」
小刻みな揺れが始まる。下で何かが崩れるような音が響いた。
ハルの頭の中は白くなる。死という文字が明確に頭によぎった。
足が浮き始める。もはやハルとパキカは柵を掴んだ手でしか身体を支えていなかった。
「落ちる…!」
パキカが悲鳴を上げた。
「ハル!下!」
もはや傾く先に地が見え始めたのだ。建物の下に目をやる。見えたものは、途方もなく巨大な土の渦だった。
しかしその土は、違う。
七色に輝く、あの土でなかった。
湧き出たような、『黒い』土。それがまるで、何かに搔き回されているように渦巻いている。
ハルは声を上げて目を見開いた。
恐怖や焦りに、それがまるで何かの口のように思え、身の毛がよだつ。手の力が抜け始め、ハルは無意識に叫んだ。
このままでは飲まれてしまう。
パキカは。
目を向けた先で、パキカの疲弊した顔が見えた。まずいと瞬時に感じ取り、彼女の名を叫ぶ。その刹那、彼女の手が柵から離れた。
「パキカ!!」
落ちゆく彼女に、掴みかかるようにしてハルは飛んだ。
落下という初めての感覚に、息が止まる。
目先に見えるのは轟音を発する土の渦。
しかし、今はそれよりも、投げ出されたパキカに触れようと必死だった。
手を伸ばす。轟音が耳鳴りに潰されて行き、まるで時の流れが止まったような不思議な感覚。
何よりも、彼女に触れなければ。頭にあるのはただ、それだけだった。
「ハル…!」
パキカが応えるように此方に手を出した。フワリと上がった髪から、彼女のゴーグルが外れ、落ちて行く。
互いの瞳に己が写り、どんな表情をしているのかがわかる。必死に、ただ必死に手を差し伸べた。
指先が触れる。
そのまま抱き合い、落ちて行く。
先の渦に目を向ける。
黒いそれに、あの穴を連想した。
人が逃げた、『下の世界』。
まるで、そこに繋がる口のように思えて。
もしかしたら、『上の世界』へも道があるのだろうか。
わけのわからないことばかりだ。
パキカの探求心に、今、初めて共鳴した。
そうして後悔する。
これからも、彼女と世界を観れたら良いのに。
刹那、目の前に七色が広がった。
それが何であるのか理解する前に、身体に横から力が加わる。
弾き飛ばされる感覚に驚愕すると同時に、二人は意識を手放した。
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