怪物の段

怪物

 未だ蝉の合唱が耳に焼き付く夏の日差しにあえぎながら、ヤンは時計を見た。体内時計通り、渡辺が建物を立ち去って四五分が経っていた。そろそろよい頃合いだろうか。


 一旦は探りを入れて、後ほど本格的な調査に入る――そう、大まかな方針を定めた彼は、建築物へと歩を進めだした。総てを熱で溶かす夏の光線に炙られた建物は、だからこそか、何処か空虚な気配を強めていた。『死』を思わせる其のうろたる佇まいに――墓標のようだ、とヤンは感じた。


 自動扉を抜けると、空調の効いた空気が出迎えてくる。扉が閉まると夏の気配は急激に遠ざかり、フロアを照らす光だけを残して、身体に溜まった熱が手の届かぬ明け方の夢じみた残り香となって蟠った。


 流石に長く外にいたとなれば瞳も感光されきっており、日だまりとなった床面だけがやけにはっきりと像を結んでおり、他は薄闇に包まれている。とはいえ、ヤンも此の程度は心得ている。あらかじめ片目を閉じて暗さに慣れさせていた彼は、一から瞳孔が照度調整を行うよりも早く此の暗さに慣れた。


 磨き上げられた床面に、整然としているが素っ気ない建物の造り……内部は何処か病院に似ていた。眼前にはカウンターがおり、職員とおぼしい女性が二人並んでいる。なるほど、平素の来客の少なさを物語るように、二人は小声で話に興じていたが、すぐにヤンの姿を認め、一人が彼に話しかけてきた。


「いらっしゃいませ。ご予約は承っておりますか?」


 工作員は即座の判断を迫られた。おそらくコンピュータか、または台帳かなにかで予約は管理されていると見て、間違いあるまい。此処は『ノー』と答えるべき――いや。


「スミマセン。コチラニ結城幸弘サンハイラッシャイマセンデショウカ?」


 問いかけには答えず、あえての片言の日本語で逆に問いかける。


「結城さんですか? ん~。さっきご予約されていた方と関係あるのかしら」


 此の国の人間は基本的にガードが甘い。其れは日本語が多少不自由な外国人に対しても、だ。今も、結城幸弘と関係する何かがあると告白したようなものだ。彼女の発した言葉を好機と見た工作員は一挙に畳み掛ける。


「モウシワケアリマセン。私、ヤンイイマス。実ハ戦時中ニ結城サンノオ父様ニ助ケラレタ方イマス。ソノ方カラゴ家族ニ感謝イイタイト私ニ調査依頼サレマシタ」

「え? え? 待ってください。ご予約されていない方は当館に入場できません」


 職務に対する責任感故か、無意識のつぶやきを漏らす迂闊さはあるものゝ、其れ以上は許容できないとみえ、女性は片言の外国人をいなむ。当然と言えば当然の反応だ。


「予約? ワカリマセン。私、モウ今日シカ時間アリマセン。香港ニ帰ラナクテハイケマセン」


 素性の不確かな外国人を招き入れるなど、本来は不可能だろう。しかし、往々にして此の国では熱意ヽヽが本筋を曲げる事があり得る。でなければ、外国からの情報侵略をこうまで従容と受け入れなかった筈だ。


 ならば、此処は圧す。道理を『何も知らぬ外国人』という札で切る――。いわば泣き落としだ。情に訴えかけるのは下策と見えて、其の実、馬鹿が付くお人好しばかりの此の国の人間には効果的だ。


「困ったわ……」


 見るからに弱った表情をしている女性を見て、ヤンは内心でほくそ笑んだ。眼前の外国人の事情と職務の狭間に立たされている彼女は、少なくとも職務を楯にして無下に断れない性格である事がわかる。後は、どう誘導するか――。


「此方の外人さんも困っているみたいだし、館長に聞いてみたら?」


 先輩らしきもう一人の受付嬢が、渡りに船な提案をする。願ってもない助け船に確信を得る。滅多に無い会心の手応えに――今日中に深いところまで探れる予感を悟った。


 後輩とおぼしい受付嬢が内線電話で何やら話している。会話の内容は聴こえぬが、声の調子からすると決して悪くはない。


「わかりました。今回は特別ですよ」


 上司が折れたのか、電話を置いた受付嬢は外国人に話しかける。やはり、だ。先程の好感触は期待を裏切らず、結城幸弘への路を切り拓いた。


 ――此れは、もしかすると今夜は祝杯を上げられるかもな。


 捕らぬ狸の皮算用とはよく言ったものだが、既にヤンは自分の成功を信じて疑っていなかった。


「結城さんは……今日は相川さんが付いているわね」


 カウンターの内側にメモを貼っているとみえ、視線が其処へと踊る。内線電話に番号を打ち込み、連絡を行う。其の気安さから同僚が相手だろうと推測させられた。


「屋上にいらっしゃるそうです。そちらのエレベータで屋上まで行けますよ」


 受付嬢が奥のエレベータの案内をするも、ヤンは結城幸弘が此の建物にいるという事実に違和感を憶えた。


 ――結城幸弘が、此処にいる?


 そも〳〵、ヤンは黒四二二八号の過去を追走して、彼の目的を探るのが任務だったのだ。しかし、幸弘が此処にいるとなると……知らず〳〵の内に掌でヤンを転がしていたという事を意味する。


 訝しい気持ちを、しかし工作員は噛み殺した。どちらにせよ、前に進むしかあるまい。後退したところで真実は落ちてはいない。真相を得るにはとにもかくにも前に進んで、眼の前にぶら下がっている其れに手を伸ばす事こそ肝要なのだ。ならば、躊躇っている意味なぞ何処にも無い。


 答えを知る為に歩を進める事が、仕事なればこそヤンはなおも前進しか許されぬ。後退は即ち敗走。勇気ある後退は時に必要だが、既に王手に手をかけている此の状況で逃げの一手など愚の骨頂である。


 工作員はエレベータに乗り、Rのボタンを押し込んだ。途端、静かに昇降機がかごを持ち上げていく。緩やかにかかる重力は、確かにエレベータが稼働している何よりの証左だ。


 持ち上がっていく方向とは真逆のベクトルが身体を下へと押しつけるのは、彼を押し留めようとする運命の見えざる手か。上昇しているというのに、何処かヤンは墜落の予感を感じ始めた。先程感じた確信とは裏腹の感触――たしてどちらの感覚が正しいのか、其の答えはもうじき提示される。


 白を基調としたエレベータ内部はうすら寒い印象を受け、ヤンはあたかも自分が柩に収められているかのような感覚を味わった。であるならば、此の建物は霊廟か。


 他に乗客もなく、屋上階に到着したエレベータの扉が左右に開かれる。隙間から眼を刺すのは、先程遠くに感じていた夏の日差しだ。眩い明け透けな日光に顔をしかめつゝ、工作員はエレベータ籠から出た。


 エレベータ施設部分以外を庭園へと変えた屋上は芝や植樹が季節を謳歌し、光を浴びて生き〳〵とした瑞々しい青さを殊更に主張している。季節の草花が色とり〴〵の絢爛たる姿を見せ、此の暑さが自らの為にあるものだと合唱しているのだ。今更、草木に心奪われる程純粋ではないヤンは、むしろ此処数日の雑木林の鬱蒼さを思い出し、好ましくは映らなかった。此の庭園其のものに意味があるとは思えぬ。暗号の類らしきものも見当たらない。 


 建屋を出ると忘れてかけいた熱が蘇り、またもヤンの肌を焦がしていく。庭園をそぞろ歩くが、人の気配は――全くいないとはまでは言わないまでも希薄。歩を進める工作員は、判然としないまでも迷宮に魔酔いこんだ錯覚に陥った。幽かに感じた気配を道標にして、歩くしか無い。


 やがて、彼は二人の翳を捉えた。一人は看護師か介護士を思わせる女性、もう一人は車椅子に坐った老人らしき人影だ。二人とも山間から覗く海の、散らばる模細工モザイクの燦めきを眺めているようで、ヤンに背中を見せている。余りにも標高の高い雲と、限りなく広い、蒼を通り越して藍に近い空。


 ヤンの気配に気付いてか、不意に女性が振り向いた。首から下げた携帯電話から、おそらくは受付嬢が連絡していたのは彼女と推察させられた。


「結城さん、お客さんですよ?」

「…………」


 付き添いの女性が、老人に話しかける。彼女の、垣間見えそうだった表情は逆光の陽が生んだ翳に隠されていた。結城幸弘とおぼしい老人は振り返ろうともせずに、沈黙を保ったまゝ。其れをどう受け止めたのか、女性は車椅子をヤンの方へと向けた。


 老人は男女の区別がつかず、例えるなら人型の樹木が枯れててた姿で、浮世の煩いから開放されたかのようで――そう思えば、皺が刻まれた肌は樹木の其れに似ていた。彼が、表情の無い樹木に見えたのは、何も由なくの事ではない。強すぎる日が肌の色味を隠しており、動物としての生命感を漂白していたからだ。


 総てを詳らかにしようとする太陽の下、翳は何処までも深くなり、却って真実を隠す。濃すぎる翳が二人の相貌の一切を包み隠し、何処か現実味と生命感の乏しい、空々しさを滲ませているのだ。


 太陽光線に炙られてだる熱を帯びた大気が、揺らめき重なり、景色を歪める膜となる。此の総てを暴き立てるかの如き、熱光線の支配する庭園で生まれた翳と揺らめきが、世界をぼかす。


 熱病に冒されていると錯覚する程に、ヤンは蹌踉めく足取りで彼ら――彼女らに近づく。此の進める歩の不確かさの正体は何か。幾ら熱帯に近い不愉快な暑さに支配されていようとも、其れだけでヤンが此処まで消耗するとは考えられない。


 そう、例えば――此の先に待ち受けている残酷な真実を予感しているのか……。馬鹿な、と一笑に付すのは楽だが、しかし自分自身で説明がつかぬ。


「ほら、結城さん?」


 促す女性の声にようやく反応してか、結城と呼ばれた老人がゆる〳〵と顔を上げる。俯いていた相貌が角度を変えていくと共に、陽が満月に向かう月の如くに照らしていった。歳を重ねた年輪がそうさせるのか、老人は光に照らされてなお男女の区別がつきづらかったが、其れでもなんとか男性である事は見て取れたのだが――。


 ――なっ!


 明らかになった老人の表情に工作員は愕然となった。


 無表情且つ何処を見つめているのかも判然とせぬ虚ろな瞳に、白痴とさえ言える表情は何の感情も映し出してはいない。当然、黒四二二八号ではなく、またヤンの求めるような情報を持っているとは考えられず――むしろ、通常の精神活動が可能であるかも定かではあらぬ。


「ぁ……」


 小さい呟きは耳に届いたが、確かな言霊を成さずに空に溶けた。ある種、其の有り様は工作員の確信を溶かし、今までの行動を水泡に帰するに余りある。


 胸に重く沈んでくる倦怠感は、夏の太陽に眩んでの事も確かにあるだろうが、其れ以上に受け止め難い事実を前にしての自然の反応でもあった。実際に明らかになった事実を全て受け入れるよう訓練は受けてはいたが、其れでも耐えきれなかった衝撃の程は、彼が知らず知らずのうちに皮算用を目論むまでに期待をしていた証左だ。


「結城さん、今日はお客さんが多くてよかったわねぇ」


 女性の声も遠く霞む衝撃に、ヤンは今度こそ蹈鞴たたらを踏んだ。眼前の老人が結城幸弘本人なのだとしたら、結城幸弘とは黒四二二八号ではないのか……。取りも直さず。此の事実はヤンの任務失敗を意味していた。


 とにもかくにも、まずは眼前の老人が本当に黒四二二八号――結城幸弘であるかを確認せねばならぬ。


「モウシワケアリマセン。私、ヤンイイマス。結城玄洋サンニオ世話ニナッタ方カラ調査ヲ依頼サレタ者デス。ソチラノ方ガ幸弘サンデスカ?」

「ええ、結城幸弘さんですよ」


 女性は朗らかな笑みを浮かべながら老人を――結城幸弘を見やった。結城幸弘と呼ばれた老人は曖昧な表情を浮かべたまゝで、全く感情を映さない。


 ――此の老人が、結城幸弘――黒四二二八号……。


 薄々とは感じていた、背中から迫ってくる冷たい感触が襲いかかってくる。一体、彼は何者を探っていたのか、誰の翳を追走してきたのか。足元から肌の内を登っていく蟻走感に、一瞬、身体が振れた。蟻走感の正体は、恐怖、諦観、徒労、不信、そして……疑問。今、安曇野正義を名乗って黒四二二八号として行動している人物とは何者だ……。


 しかし、此の信じ難い事実は、思い返してみれば不思議と納得もできる。組織に相反するような今までの振る舞い、余りにも日本に寄りすぎている思想は、裏切らぬように細心の注意を払って訓練された諜報員の行動にしては、確かに疑問符が付きまとう。二重諜報スパイの疑いも無きにしも非ずだが、其れにしても疑惑を持たれぬ程度の動きをしてくる筈だ。


 霞がかった蝉の喚く声が、ヤンの埋没していた意識を現実へと引き戻す。或いは、工作員としての本能が茫然自失になる心の動きに歯止めをかけたのやもしれぬ。


 工作員が与えられた役目は、あくまで黒四二二八号の目的を探る事にあり、其の過程に彼のルーツを探っていたのだが、事態は急展開を迎えた。こうなっては、此の情報を素早く依頼主へと流さなければならない。


 黒四二二八号に――別人の疑いあり、と。


 しかしながら、此処で不用意な行動はできぬ。何と言っても、ヤンのような職業は疑いを持たれては成り立たぬ。そう、失敗した時こそ胸を張り、あくまでスマートに立ち去らねばならないのだ。そして、違和感なく立ち去る為には、無為とは悟りつゝも彼らと一定以上の会話が必要となってくる。


「ソノ方ハ余命幾許モナイノデスガ、亡クナル前ニオ世話ニナッタ結城玄洋サンニオ礼ガイイタイ、モシ亡クナッテイルノナラセメテゴ親族ニ……ト」


 あらかじめ用意していた設定ヽヽを咄嗟に話す。こういった根回しはこういった、頭の廻転が追いつかぬ不測の事態に非常に役に立つ。一から設定を練りながら話す事も時には要求されるが、今回のように白日のもとに晒された真実が容易に受け入れ難く思考を阻害する場合には、事前準備が奏功される。


「そうでしたか。結城さん、此の方は結城さんのお父様にお礼がしたくて、日本にやっていらっしゃったそうですよ?」

「…………ぅ」


 結城幸弘は胡乱な瞳の映すがまゝに、たゞ幻界ゆめ現界うつつか其のしきいを漂っている。女性の言葉の意味を認識していないかのようで……そして、其の印象はおそらくは正しい、当然の反応さえも瞳の奥に沈めた老人は虚とも実ともつかぬ、此処ではない何処かの情景を眺めている。


 暫く待っても、老人からは意味のある言の葉を吐き出しはしない。たゞ、風の通る窟の如き唸りに似た声を、幽かに鳴くのみである。其の様子を女性は慣れているのだろうが、もはや早々に立ち去る算段をしているヤンには焦れる間隔が空いていた。


「……アノ、結城幸弘サンハ何カゴ病気ナノデスカ?」


 意を決した言葉に女性は戸惑いを見せつゝも、首を縦に振る。


「何処までお知りなのかわかりませんが、結城幸弘さんは輸入雑貨などを扱う業者さんだったそうです。ですが、或る時、乗り合わせていた飛行機が墜落して……頭を強打されてからは、今のように……」


 ――そんな。


 呆然となり今にも折れそうな意識を、度重なる訓練が培った工作員としての矜持が押しとどめていた。其れが無ければ、彼の身体は張力を失って、膝をついていたのは想像に難くない。


 黒四二二八号はかつての黒四二二八号ではなく、別人に摩り替わっている……。もう疑いの余地のないと思われる真実は、此れまでの調査が徒労に終わった事実でヤンを打ちのめしはしたものゝ、しかし彼は最後に確認すべき事を聞き出そうとした。


 そう、摩り替わったとなれば、いつ、結城幸弘と現在のヽヽヽ黒四二二八号が入れ替わったのか。


「ソノ事故ハイツニ……」

「二~三〇年ほど前、と聞いています」


 三〇年……。いや、年齢的に鑑みて、彼女も事の顛末を体験しているわけではなく、聞き覚えているに過ぎない。此の情報も正しいとは限りはしないのだが、おそらくどう見積もっても三〇年よりも近い過去ではあるまい。


 ――やられた……。


 一体、いつから準備していたのか。人の記憶も記録も曖昧になってくるほどの年月。ゆうに人の人生のほゞ半分という途方もない期間を要した準備は、彼の追跡を振りほどいたのだ。


 おそらく、黒四二二八号――安曇野正義は、己のルーツから目的を探る工作員が現れるであろうと、其れこそ数十年前に対策を講じていたのだ。取りも直さず、其れは過去からの追走が、自らの目的を探る事に有効であると認めての行動ではあるが、おそらくは此の線での追跡はもう諦めざるを得ないだろう。


 何故なら、こうまで美事に罠を張り巡らせているという事は、工作員が動いた事実を安曇野正義の元に伝える手段も存在している事を意味している。


 此れからどう動こうとも、既に看破された工作員など、もはや何ほどの意味も、価値もありはしない。時の波に浚われずに留まっていたであろう仄僅かな足跡の残滓も、今頃は完全に拭い去られているに違いない。


 結局、ヤンは其れからどのように建物から立ち去ったのか、覚えてはいなかった。たゞ、建物に入る際に無意識に――或いは作為的に――看過していた、施設名の表記を思い出した。


 ――介護施設 日だまりの家――


 思えば、あの時の彼は、其の施設名が想像させる結末に耳を塞いでいたのだ。見たくない事実も、目を見開くべき工作員が……成功報酬の多寡で其の鉄則を暫し忘れていた……。何処か、安全な間諜スパイ天国とさえ言われている国での調査に気が弛んでいたのだろうが、例えそうであっても度し難い失態を侵していた。そう、相手は半世紀の時を生きた、時に怪物とさえ称された男なのだから。


 這うような心持ちで雑木林に隠匿していた軽トラックに戻ると、座席には機材が乱雑に置かれていた。彼が出て行く時にはなかった光景である。機材は殆どが盗聴器、そしてカメラで、其の全てに見覚えがあった。見覚えがあって当然だ。他ならぬ彼が、渡辺邸に仕掛けていた道具ヽヽだったのだから。


 血の気が失せるとは此の事か。既に、ヤンの存在が察知されていて然るべきではあるが、余りに其れと行動が拙速に過ぎた。焦燥感に駆られた彼は、渡辺邸へと走る。


 夕刻を迎えた渡辺邸は、背景にひぐらしの鳴く声を背負っていた。空恐ろしい橙に染まった渡辺邸は、何処か伏魔殿を思わせる瘴気さえ感じさせられる。日本では、逢魔が刻と呼ぶらしい、此の昼光と夜陰が交錯する時刻……ならば、なるほど、魔なるものが其の正体を明かすには最適の時間やもしれぬ。


 内部に侵入するも、既に人気は絶えている。もう伽藍堂となった屋敷には、生物の気配が無く、たゞ〳〵朽ちていくだけの静寂が沈みつゝあった。思えば、道具の仕込みを行った際、生活感の無さに若干訝しくは思ったが、居住者の性格所以のものだろうと黙殺していたが……。


 鮮やかなる渡辺老人の消失は、彼の此処での役目が終わった故であろう。恐ろしく徹底して清掃された居室を見るにに、塵一つの痕跡も残さず立ち去ったと思われ、ヤンは科学的調査からの追跡も断念した。絶望的なまでの敗北感に、工作員は自らをせせら笑った。自嘲の笑いは高笑いとなり、狂笑となる。


 もはや、己にできる事は何も残ってはいない。


 恐るべきは安曇野正義。そして、恐るべきは渡辺。好々爺と見せかけて、其の表情の下で細緻な算段を講じていたのだ。虚偽の匂いに敏感な工作員さえも騙し切るなど、並の人物ではあるまい……。


 ――ッ!


 幽鬼の如き足取りで渡辺邸から出たヤンに、突如開花した一つの考え……。顔以外の渡辺老人の背格好は――安曇野正義の其れと似通っていた。まさか……と、背筋が氷柱に挿げ替えられたかと紛う感触に、工作員は身の芯から震える。戦慄……彼は、確かにそういうべき感情を味わっていた。


 初めからヤンは孫悟空よろしく、安曇野の掌で弄ばれているのも気づかなかったというのか。


 ――怪物め!


 まだ暑い日本の空の下、飽きる程にしとどに流れる瀧の汗に喘いでいた筈が、ヤンの身体からはいつしか汗が引き、代わりにもたらされた戦慄から来る摩訶鉢特摩まかはどまからの風に凍えていた。

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