怪物の段
怪物
未だ蝉の合唱が耳に焼き付く夏の日差しにあえぎながら、
一旦は探りを入れて、後ほど本格的な調査に入る――そう、大まかな方針を定めた彼は、建築物へと歩を進めだした。総てを熱で溶かす夏の光線に炙られた建物は、だからこそか、何処か空虚な気配を強めていた。『死』を思わせる其の
自動扉を抜けると、空調の効いた空気が出迎えてくる。扉が閉まると夏の気配は急激に遠ざかり、フロアを照らす光だけを残して、身体に溜まった熱が手の届かぬ明け方の夢じみた残り香となって蟠った。
流石に長く外にいたとなれば瞳も感光されきっており、日だまりとなった床面だけがやけにはっきりと像を結んでおり、他は薄闇に包まれている。とはいえ、
磨き上げられた床面に、整然としているが素っ気ない建物の造り……内部は何処か病院に似ていた。眼前にはカウンターがおり、職員とおぼしい女性が二人並んでいる。なるほど、平素の来客の少なさを物語るように、二人は小声で話に興じていたが、すぐに
「いらっしゃいませ。ご予約は承っておりますか?」
工作員は即座の判断を迫られた。おそらくコンピュータか、または台帳かなにかで予約は管理されていると見て、間違いあるまい。此処は『ノー』と答えるべき――いや。
「スミマセン。コチラニ結城幸弘サンハイラッシャイマセンデショウカ?」
問いかけには答えず、あえての片言の日本語で逆に問いかける。
「結城さんですか? ん~。さっきご予約されていた方と関係あるのかしら」
此の国の人間は基本的にガードが甘い。其れは日本語が多少不自由な外国人に対しても、だ。今も、結城幸弘と関係する何かがあると告白したようなものだ。彼女の発した言葉を好機と見た工作員は一挙に畳み掛ける。
「モウシワケアリマセン。私、
「え? え? 待ってください。ご予約されていない方は当館に入場できません」
職務に対する責任感故か、無意識のつぶやきを漏らす迂闊さはあるものゝ、其れ以上は許容できないとみえ、女性は片言の外国人を
「予約? ワカリマセン。私、モウ今日シカ時間アリマセン。香港ニ帰ラナクテハイケマセン」
素性の不確かな外国人を招き入れるなど、本来は不可能だろう。しかし、往々にして此の国では
ならば、此処は圧す。道理を『何も知らぬ外国人』という札で切る――。いわば泣き落としだ。情に訴えかけるのは下策と見えて、其の実、馬鹿が付くお人好しばかりの此の国の人間には効果的だ。
「困ったわ……」
見るからに弱った表情をしている女性を見て、
「此方の外人さんも困っているみたいだし、館長に聞いてみたら?」
先輩らしきもう一人の受付嬢が、渡りに船な提案をする。願ってもない助け船に確信を得る。滅多に無い会心の手応えに――今日中に深いところまで探れる予感を悟った。
後輩とおぼしい受付嬢が内線電話で何やら話している。会話の内容は聴こえぬが、声の調子からすると決して悪くはない。
「わかりました。今回は特別ですよ」
上司が折れたのか、電話を置いた受付嬢は外国人に話しかける。やはり、だ。先程の好感触は期待を裏切らず、結城幸弘への路を切り拓いた。
――此れは、もしかすると今夜は祝杯を上げられるかもな。
捕らぬ狸の皮算用とはよく言ったものだが、既に
「結城さんは……今日は相川さんが付いているわね」
カウンターの内側にメモを貼っているとみえ、視線が其処へと踊る。内線電話に番号を打ち込み、連絡を行う。其の気安さから同僚が相手だろうと推測させられた。
「屋上にいらっしゃるそうです。そちらのエレベータで屋上まで行けますよ」
受付嬢が奥のエレベータの案内をするも、
――結城幸弘が、此処にいる?
そも〳〵、
訝しい気持ちを、しかし工作員は噛み殺した。どちらにせよ、前に進むしかあるまい。後退したところで真実は落ちてはいない。真相を得るにはとにもかくにも前に進んで、眼の前にぶら下がっている其れに手を伸ばす事こそ肝要なのだ。ならば、躊躇っている意味なぞ何処にも無い。
答えを知る為に歩を進める事が、仕事なればこそ
工作員はエレベータに乗り、Rのボタンを押し込んだ。途端、静かに昇降機がかごを持ち上げていく。緩やかにかかる重力は、確かにエレベータが稼働している何よりの証左だ。
持ち上がっていく方向とは真逆のベクトルが身体を下へと押しつけるのは、彼を押し留めようとする運命の見えざる手か。上昇しているというのに、何処か
白を基調としたエレベータ内部はうすら寒い印象を受け、
他に乗客もなく、屋上階に到着したエレベータの扉が左右に開かれる。隙間から眼を刺すのは、先程遠くに感じていた夏の日差しだ。眩い明け透けな日光に顔をしかめつゝ、工作員はエレベータ籠から出た。
エレベータ施設部分以外を庭園へと変えた屋上は芝や植樹が季節を謳歌し、光を浴びて生き〳〵とした瑞々しい青さを殊更に主張している。季節の草花が色とり〴〵の絢爛たる姿を見せ、此の暑さが自らの為にあるものだと合唱しているのだ。今更、草木に心奪われる程純粋ではない
建屋を出ると忘れてかけいた熱が蘇り、またも
やがて、彼は二人の翳を捉えた。一人は看護師か介護士を思わせる女性、もう一人は車椅子に坐った老人らしき人影だ。二人とも山間から覗く海の、散らばる
「結城さん、お客さんですよ?」
「…………」
付き添いの女性が、老人に話しかける。彼女の、垣間見えそうだった表情は逆光の陽が生んだ翳に隠されていた。結城幸弘とおぼしい老人は振り返ろうともせずに、沈黙を保った
老人は男女の区別がつかず、例えるなら人型の樹木が枯れて
総てを詳らかにしようとする太陽の下、翳は何処までも深くなり、却って真実を隠す。濃すぎる翳が二人の相貌の一切を包み隠し、何処か現実味と生命感の乏しい、空々しさを滲ませているのだ。
太陽光線に炙られて
熱病に冒されていると錯覚する程に、
そう、例えば――此の先に待ち受けている残酷な真実を予感しているのか……。馬鹿な、と一笑に付すのは楽だが、しかし自分自身で説明がつかぬ。
「ほら、結城さん?」
促す女性の声にようやく反応してか、結城と呼ばれた老人がゆる〳〵と顔を上げる。俯いていた相貌が角度を変えていくと共に、陽が満月に向かう月の如くに照らしていった。歳を重ねた年輪がそうさせるのか、老人は光に照らされてなお男女の区別がつきづらかったが、其れでもなんとか男性である事は見て取れたのだが――。
――なっ!
明らかになった老人の表情に工作員は愕然となった。
無表情且つ何処を見つめているのかも判然とせぬ虚ろな瞳に、白痴とさえ言える表情は何の感情も映し出してはいない。当然、黒四二二八号ではなく、また
「ぁ……」
小さい呟きは耳に届いたが、確かな言霊を成さずに空に溶けた。ある種、其の有り様は工作員の確信を溶かし、今までの行動を水泡に帰するに余りある。
胸に重く沈んでくる倦怠感は、夏の太陽に眩んでの事も確かにあるだろうが、其れ以上に受け止め難い事実を前にしての自然の反応でもあった。実際に明らかになった事実を全て受け入れるよう訓練は受けてはいたが、其れでも耐えきれなかった衝撃の程は、彼が知らず知らずのうちに皮算用を目論むまでに期待をしていた証左だ。
「結城さん、今日はお客さんが多くてよかったわねぇ」
女性の声も遠く霞む衝撃に、
とにもかくにも、まずは眼前の老人が本当に黒四二二八号――結城幸弘であるかを確認せねばならぬ。
「モウシワケアリマセン。私、
「ええ、結城幸弘さんですよ」
女性は朗らかな笑みを浮かべながら老人を――結城幸弘を見やった。結城幸弘と呼ばれた老人は曖昧な表情を浮かべた
――此の老人が、結城幸弘――黒四二二八号……。
薄々とは感じていた、背中から迫ってくる冷たい感触が襲いかかってくる。一体、彼は何者を探っていたのか、誰の翳を追走してきたのか。足元から肌の内を登っていく蟻走感に、一瞬、身体が振れた。蟻走感の正体は、恐怖、諦観、徒労、不信、そして……疑問。今、安曇野正義を名乗って黒四二二八号として行動している人物とは何者だ……。
しかし、此の信じ難い事実は、思い返してみれば不思議と納得もできる。組織に相反するような今までの振る舞い、余りにも日本に寄りすぎている思想は、裏切らぬように細心の注意を払って訓練された諜報員の行動にしては、確かに疑問符が付きまとう。二重
霞がかった蝉の喚く声が、
工作員が与えられた役目は、あくまで黒四二二八号の目的を探る事にあり、其の過程に彼のルーツを探っていたのだが、事態は急展開を迎えた。こうなっては、此の情報を素早く依頼主へと流さなければならない。
黒四二二八号に――別人の疑いあり、と。
しかしながら、此処で不用意な行動はできぬ。何と言っても、
「ソノ方ハ余命幾許モナイノデスガ、亡クナル前ニオ世話ニナッタ結城玄洋サンニオ礼ガイイタイ、モシ亡クナッテイルノナラセメテゴ親族ニ……ト」
あらかじめ用意していた
「そうでしたか。結城さん、此の方は結城さんのお父様にお礼がしたくて、日本にやっていらっしゃったそうですよ?」
「…………ぅ」
結城幸弘は胡乱な瞳の映すが
暫く待っても、老人からは意味のある言の葉を吐き出しはしない。たゞ、風の通る窟の如き唸りに似た声を、幽かに鳴くのみである。其の様子を女性は慣れているのだろうが、もはや早々に立ち去る算段をしている
「……アノ、結城幸弘サンハ何カゴ病気ナノデスカ?」
意を決した言葉に女性は戸惑いを見せつゝも、首を縦に振る。
「何処までお知りなのかわかりませんが、結城幸弘さんは輸入雑貨などを扱う業者さんだったそうです。ですが、或る時、乗り合わせていた飛行機が墜落して……頭を強打されてからは、今のように……」
――そんな。
呆然となり今にも折れそうな意識を、度重なる訓練が培った工作員としての矜持が押しとどめていた。其れが無ければ、彼の身体は張力を失って、膝をついていたのは想像に難くない。
黒四二二八号はかつての黒四二二八号ではなく、別人に摩り替わっている……。もう疑いの余地のないと思われる真実は、此れまでの調査が徒労に終わった事実で
そう、摩り替わったとなれば、いつ、結城幸弘と
「ソノ事故ハイツニ……」
「二~三〇年ほど前、と聞いています」
三〇年……。いや、年齢的に鑑みて、彼女も事の顛末を体験しているわけではなく、聞き覚えているに過ぎない。此の情報も正しいとは限りはしないのだが、おそらくどう見積もっても三〇年よりも近い過去ではあるまい。
――やられた……。
一体、いつから準備していたのか。人の記憶も記録も曖昧になってくるほどの年月。ゆうに人の人生のほゞ半分という途方もない期間を要した準備は、彼の追跡を振りほどいたのだ。
おそらく、黒四二二八号――安曇野正義は、己のルーツから目的を探る工作員が現れるであろうと、其れこそ数十年前に対策を講じていたのだ。取りも直さず、其れは過去からの追走が、自らの目的を探る事に有効であると認めての行動ではあるが、おそらくは此の線での追跡はもう諦めざるを得ないだろう。
何故なら、こうまで美事に罠を張り巡らせているという事は、工作員が動いた事実を安曇野正義の元に伝える手段も存在している事を意味している。
此れからどう動こうとも、既に看破された工作員など、もはや何ほどの意味も、価値もありはしない。時の波に浚われずに留まっていたであろう仄僅かな足跡の残滓も、今頃は完全に拭い去られているに違いない。
結局、
――介護施設 日だまりの家――
思えば、あの時の彼は、其の施設名が想像させる結末に耳を塞いでいたのだ。見たくない事実も、目を見開くべき工作員が……成功報酬の多寡で其の鉄則を暫し忘れていた……。何処か、安全な
這うような心持ちで雑木林に隠匿していた軽トラックに戻ると、座席には機材が乱雑に置かれていた。彼が出て行く時にはなかった光景である。機材は殆どが盗聴器、そしてカメラで、其の全てに見覚えがあった。見覚えがあって当然だ。他ならぬ彼が、渡辺邸に仕掛けていた
血の気が失せるとは此の事か。既に、
夕刻を迎えた渡辺邸は、背景に
内部に侵入するも、既に人気は絶えている。もう伽藍堂となった屋敷には、生物の気配が無く、たゞ〳〵朽ちていくだけの静寂が沈みつゝあった。思えば、道具の仕込みを行った際、生活感の無さに若干訝しくは思ったが、居住者の性格所以のものだろうと黙殺していたが……。
鮮やかなる渡辺老人の消失は、彼の此処での役目が終わった故であろう。恐ろしく徹底して清掃された居室を見るにに、塵一つの痕跡も残さず立ち去ったと思われ、
もはや、己にできる事は何も残ってはいない。
恐るべきは安曇野正義。そして、恐るべきは渡辺。好々爺と見せかけて、其の表情の下で細緻な算段を講じていたのだ。虚偽の匂いに敏感な工作員さえも騙し切るなど、並の人物ではあるまい……。
――ッ!
幽鬼の如き足取りで渡辺邸から出た
初めから
――怪物め!
まだ暑い日本の空の下、飽きる程にしとどに流れる瀧の汗に喘いでいた筈が、
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