尾行
渡辺老人は其の日の内に屋敷に帰ってきた。
流石に老人の一人暮らしとなれば、殆ど盗聴器から聞こえる宅内の音は身じろぎと軋んだ屋敷と言葉にもならぬ老人の息程度しかない。渡辺邸より少々離れた雑木林に停まった軽トラックに潜んだ
既に数日が経過している。元よりピンポイントで情報が与えられるとは思ってはいない。思ってはいないが――。
雑木林では夏の虫が短く暑い季節を謳歌し、盗聴器からの音に耳を澄ましている工作員の鼓膜を容赦なく苛んでいた。余りにも生活音が抑えられた老人の生活を監視するには、お世辞にも良い環境とは言えない。都会ならば適当なマンションの一部屋でも用意して、容易に監視ができるのだが、田園広がる田舎とあっては其れは叶わぬ話だ。
擬態のために軽トラックにかぶせた草木を這う虫を苦々しく睨みながら、夏季をさざめかす合唱から逃れるように、イヤホンの音量を上げる。
蒸し暑い日本の夏は、
熱気でぬるいというよりも、むしろ温まった水をあおって喉を潤す。ほんの僅かとは言え暑気払いの効果を期待したものゝ、飲んだ水の熱さの所為か、暑さは全く弛んだ気配すら感じなかった。
渡辺老人は滅多に外に出歩かない質であるらしく、また、隠居しているとはいえ余りにも静かな、いっそ静寂とさえ言える生活は仙人もかくやといったところだ。世を捨て、ともすれば黒四二二八号の秘密の一端を握った
ふと、
降って湧いた考えを振り払う。結城幸弘が黒四二二八号である事は、自分の勘が告げている。過去から黒四二二八号の足跡を辿る巡礼の旅に、間違いはない――少なくとも、他の者は知りようのない真実を手にできるはずなのだ。
「……そろ〳〵、幸弘様とお会いする日ですね」
「ッ!」
ほゞ〳〵無意識で聞いていた室内の音に、
「明日にでも向かいましょうか」
嘆息の後に漏らした老人の独り言は、
――明日!
老人を監視するのみの退屈な仕事に、ほと〳〵飽き
渡辺老人が何処かへと電話をかける。
昔ながらのダイヤル式電話は、プッシュ音の音階で判別がつくプッシュ式に較べると面倒ではあるが、ダイヤルの巻き戻る長さで番号の判別がつく。即座に番号を脳裏に書き記して、手持ちの携帯端末に入力する……が。
――該当番号無し?
検索サイトで照合するも、登録されていない電話番号とみえ、此れが何処を意味するのかはわからぬ。
場所さえわかれば、事前に情報の
電話機にも仕込んだ盗聴器は明瞭に受け手側の声も拾っている。渡辺老人は電話の向こうにアポイントメントを取ると、受話器を置いた。涼やかな鈴の音色と共に終話した電話の後は、
* * *
明くる日。朝一〇時頃に屋敷を出た渡辺老人を、其れとなく追尾する翳があった。誰と言うに及ばず、
工作員としての当然の心得として、尾行術を修めている彼にとって、枯れた老人の追跡など欠伸が出るほどに容易い仕事だ。しかし、或る種、退屈極まる仕事であるというのに、彼の鼓動は緊張感由来の冷たさに高まっていた。常にはない胸の高まりは、此の尾行劇の先にある期待故だ。
遂に、結城幸弘の――黒四二二八号の尻尾を掴めるのだ。渡辺老人と結城幸弘が会合する場所こそ何らかの意味があるはずであり、更には黒四二二八号の目的を知る上で此れ以上無い手がかりがあって然るべき場所なのだ。
こめかみから顎にかけて虫の這うような感覚を憶え、手で擦る。ぬめった感触は、此の感触が汗の滴るものだったと物語っていた。無色透明な炎が揺らめくアスファルトを歩く老人と工作員。老齢にも関わらず、渡辺は意外にも
渡辺の辿り着いたローカル線の無人駅には、数少ない学生が数人と渡辺と同じ年頃の老人がいた。電車を待つ彼らに混じりたいのは山々だったが、
此処は、電車が発車する寸前に駆け込む腹か。
寂れた駅を訪れる列車の数は限られている。一本でも乗り遅れれば、此処数日の苦労が水泡と化すだけに、
じり〳〵と焦がす太陽と青い空に高く昇る雲、恨めしい程に真夏の光景。線路をなめて、綺羅〳〵しく日光を複雑に反射する日本海が、やけに眼に焼き付く。かつて、国家による拉致により此の海を渡った少年の面影が、今の彼が追っている謎と重なる。其れ故なのか、鱗めいた海の燦めきが一層強まった気がしたのは……。
ところどころ雑草が生えた線路を震わせて、列車が訪れた。都会ではもう稀な古めかしい意匠の電車は、年号を遡ったような
――此のタイミングだッ!
最後の学生が片足を踏み入れた時機を見定めて、
三両編成の列車の内、渡辺老人が乗り込んだ二両目を避けて、末尾の車輛へと乗り込んだ。背中で扉が閉まる音がした。際どいところだった。
駆け込み乗車を咎める車内アナウンスを聞き流して、
視界の隅で相手を観察する術は心得ていた。流石に、色境の真芯で捉えているように判然とはしないものゝ、其れでも標的が動き始めたのなら、即座に感じ取れる。視界の隅で渡辺の動向を観察しつゝ、あくまで視線は真っ直ぐに……先程の海が強烈に乱反射する様を眺めていた。
朧気ながら、渡辺老人が椅子に座っている姿が捉えられる。田舎ならではの乗客の少なさか、老人の他には男子学生が二人会話に花を咲かせているのみであった。時間が緩やかに流れる景色の中、線路の繋ぎ目が奏でる心地よい震動と身体の火照りを空調の涼やかな風が拭い去り、にわかに睡魔をおびき寄せてくる。此処数日、うんざりする熱気に晒されてきた工作員の肉体が、暑気からくる緊張感から解き放たれた瞬間だった。
瞼を揉み、油断すると一挙に眠りの淵へと追いやられそうな意識を繋ぎ止める。暑さから解放された快適な環境は、待ち望んでいたものだが、しかし此の尾行を行っている状況では如何にも拙い。どうやら、日本の湿気をたっぷり孕んだ暑さは、工作員の体力を知らず〳〵の内に奪っていたとみえる。
抗い難い眠りの誘惑をなんとか追い払い、
散漫となった意識では、降って湧いた益体もない思考に引きずられている内に眠りの海に溺れてしまう。額に浮かんできた汗は、先程までの熱気由来のものではなく、ともすれば眠りに落ちそうな意識を現世に繋ぎ止めるべく、頭に過負荷を与えられている故だ。とはいえ、存在の迷彩化の為に軽トラックの空調も使えず、迂闊に窓を全開放する事も躊躇われた状況下で監視を続けていたとなれば、肉体に見えぬ疲労が溜まっていても不思議ではない。
数十分も経っただろうか。平素なら容易い尾行ではあるが、下手に動けず、標的を視界の隅で注視し続けるとなれば、実時間よりも遥かに長い体感時間を甘受するしかできぬ。甘やかな誘いを否み続ける忍耐を続けた先、ようやく渡辺老人は席を立った。当然、
乗り込んだ駅と較べると幾らかは都会的とはいえ、其れでも田舎の情景には違いない駅。都会育ちから見れば違いの判らぬ程度でしか無い。
渡辺老人は幾度も通った路だと思われ、寸程の躊躇もなく歩き出す。老人らしかぬ足取りの確かさと見た目に違う歩行速度は相変わらずで、眠気覚ましの意味でも
――? どういう事だ?
日本では、久しい者と会う際には贈り物をするという風習があるとは聞いているが、
極力気配を消し、怪しまれぬ程度に距離を置いた上で老人の跡を追う。希薄になった工作員の気配は、老人には何も感じ取れぬ程とみえ、渡辺は一度も振り返る事もなく、或る建物の前で立ち止まった。建物はまだ新しい気配に満ちており、採光性を意識してか大判の硝子が内側の広間をよく映していた。近代的な建築物は、少なくとも外見上は渡辺邸とは正反対である。二~三階建てと思われる建築物は、小規模のホールにも似ていた。
――此処が目的地か。
しかし、彼は文字を黙殺していた。もう答えは眼前の建物の中なのだ。何を訝しる必要があろうか。
彼は未だ弛まぬ日光から、己の身を程近くに見つけた木陰で翳した。やはり、此の日差しは身に堪える……。此の数日で、シャツの内側へと風を送り込むのがすっかり癖になった。
陽炎立つアスファルトを憂鬱に眺めながら、
木陰に自然に身を隠しながら、
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