懸架される軀

 雷雨の丁々発止を演じたイソラ四艇は確かな成果を胸に、深海を渡航していた。


 雷雨の激しさは海面を揺るがすも、一〇〇〇メートルの深渡では穏やか其のものである。戦闘の激しさとは打って変わり、海中のイソラからは囁き声さえも溢れる事はなく、二十代の青年の闊達さは其処からは読み取れぬ。むべなるかな、往きと同じく索敵網の下を潜る凱旋なのだから。


 いや、むしろ、往きよりも厳しい状況での帰還と言えよう。敵から見れば、ミサイル基地を壊滅させたともなれば、正体はわからぬ相手とはいえ、追撃の手を差し向けるは当然の話である。


 皆押し黙りるイソラには潜めた呼吸音、そして時折であぶくだけが全ての音色を占めていた。先ほどまで雷光閃かす刀身を振るっていた大義もまた、完全に闇に閉ざされたを視るばかりだった。黒く塗りつぶされた海は永劫に人には不及の姿で、星が瞬くという宇宙よりも到達不可能な領域だ。


 光届かぬうろたる深淵を覗き見ていると、ふと死について考えさせられる。


 思えば、天体の本を読んだ時、途方もない年月――人の生涯の其れこそ数億、数十億倍……或いは、計り知れぬ尺度に広がる宇宙という世界。其処に、いつも死を感じさせられた。此の海も同じだ。

 イソラに乗る事で存在を許されている深海という舞台。息も出来ぬ、水圧が人体を容易く圧壊する死の世界。いつかは、此の荒涼たる場所へと来るのか――と、感慨にふける。


 熱い熱い生。いつか、いつかはと灼熱を生き、そして――。夢に見たのは、桜花咲き乱れる元、旭日の朱に塗れて染まる事。眩しく、たゞひたすらに輝かしい真っ赤な太陽と、其れに照らされて朱に染まる花びら。秋の紅く染まる葉ではない、旭日が透かして染まる花弁の桜もみじを更に赤く彩る……。


 ふと、足遣い――加藤清顕きよあきがほんの少しだけ身じろぎした。


 ほぼ身体の何処かが誰かの身体に触れられるほどに狭いイソラの操縦席では、其れがつぶさに察せられる。

 三人から成る人形遣いが示し合わせて、一体の人形を生き生きと演ずるに似て、イソラにも三一体の舞いが肝要である。しかも、隠密こそが最も尊ばれる深海での潜航となれば、声に頼らぬ意思疎通が要求されるのは、当然の帰結と言えた。

 となれば、空間の余剰が殆ど残されず肌触れ合う操縦席と声も瞳も交わせぬ状況での以心伝心――畢竟ひっきょうするところが、僅かな身体の動きで、思うところを伝える術だ。


 ――気を弛めるな。


 ぼうと、気もそぞろとなっている自分を悟られたか。心が生み出す在るか無しかの気配からか、肌膚はだえより伝わる得も言われぬ感触からか。盲目の美青年は目が見えぬからこそ、目明きの者には感じられぬ機微を光に頼らずとも察する。


 今も彼は、周囲の幽かな……曖昧に模糊たるゆらめきの中にある、微々の響きに耳を澄ましていた。


 清顕こそがイソラ貳號にごう艇比叡丸の海中での唯一と言っていい感覚器官だ。機械装置は確かに人を遥かに上回る鋭い感覚、未だに人工物と自然物の織りなす音色の聴き分けという機微には鈍い。

 其の為、未だに戦闘地帯の潜航中は人間の繊細な感覚が重宝されている。


 合流地点までは幾許もないが、気を抜いていてよい局面では無い。清顕には見えるヽヽヽのだろうが、大義には一寸先さえも存在しないと思わせる、重い闇のみを瞳に収めていたとなると、致し方ない事ではあるのだが。


 返事の身じろぎを返して、大義は真っ直ぐに前を向く。ぽっかりと口を開いた、死を連想させる闇深を覗き見た。此の世界にも生命が息づいている筈だが、眼に映る暗黒の深さでは安易に受け入れられなかった。


 数分後――いや、数十分も経ったのか。余りにも何も見えぬ世界では、時間の経過を知る術は体内時計のみとなるが、其れとてしるべなしでは正確さからは程遠い。


 領海の際で待機していた潜水艦――既に、数十メートル先にまで迫っている筈なのだが、清顕の繊細な感覚と、そして情報精査を担っている赤木いさむの腕前にかかっている。地上戦では身に修めた剣技を遺憾なく発揮し、イソラの主遣いでも抜群の腕前を持つ大義も海中では刀を振るう相手もなく、暇を持て余す事になる。


 突如の震動。気を弛めたまゝでは舌を嚙みかねない其れは、彼らの所属する櫻冑會おうちゅうかいが所有する潜水艦へと着艦した証左だ。


 イソラは艦体固定枠に接続され、抜水後に潜水艦内部へと誘われた。固定枠の動くがまゝに比叡丸他イソラは艦内の蓄電池ユニット区画へと到達。背部の蓄電池が潜水艦と接続され、イソラは潜水艦の蓄電池ユニットと化した。


 待ちわびたと言っていい帰還。


 イソラの操縦席ハッチが開くと、まず左遣いの勲が降り、清顕に手を貸す。イソラと結晶結合している大義は最後だ。後頸部の接続ユニットが外されると、イソラと交換していた情報の混乱からか、瞬間的な頭痛に見舞われた。此の痛みがイソラの呪毒の一端であるのだが、まだ猶予が残されている筈だ、と大義は己に言い聞かせた。


 地上と変わらぬとまでは言い切れぬが、少なくともイソラの操縦席と較べて遥かに快適な潜水艦艦内へと降り立った大義は、大きく伸びをした。強張って筋肉痛に似た鈍い痛みを訴えかけていた脇腹を存分に伸ばしほぐすと、完全には痛みは引かぬが、かなり緩和された。


 振り返ると、電燈の光に照らし出されたイソラの魁偉なる異形が詳らかになっている。暗灰色の巨人はやはり人と較べると、何処か違和を感じる陰翳がある。


 頭部らしい頭部無きイソラには代わりに頭の名残りのような頸部の跡があり、其処には黒い丸く形どられたと呼ばれる、外部不透視加工がされている超硬度強化硝子が象嵌されていた。乗員の情報を漏らさぬという配慮だ。此れにより、イソラの黒い虚たるは主遣いを黒子と化して、正体を包み隠す。


 元来、人形浄瑠璃の人形遣いにあっては主遣いは顔を晒すわけだが、イソラが舞う舞台は華やかな芸能の其れではなく、血飛沫のもみじ降る戦場であり、人間の生存を許さない暗い深海だ。ともなれば、主遣いと言えども迂闊に顔など晒せよう筈もない。


 そして、乗員が収まる胴体部は局面構成の耐圧殻となっている。

 其の肌には存在を秘匿するための様々な技術が投入されていた。レーダー吸収材も其の一つだ。イソラの耐圧殻はレーダー吸収材が採用されており、敵艦から発せられる索敵レーダーの反射を抑える機能がある。


 また、ステルス潜水艦にとって最も必要とされる船体消磁であるが、此れはイソラの持つ結晶――頭脳であり核でもある潮乾珠シホフルタマによって行われる。


 潮乾珠シホフルタマ――未だ謎の多い結晶は一定の電流による刺激と潮盈珠シホミツタマからの信号によって発振し、此れによってイソラの人工筋肉のは稼動している。そして、同時に潮乾珠シホフルタマは、現行の其れよりも正確で規模の制約の小さい消磁システムさえも兼任している。

 リアルタイムに消磁を行う潮乾珠シホフルタマ、並びに其れと対をなす潮盈珠シホミツタマの正体は未だに判然としていない。


 己の後頸部から仄かとはいえ突き出した潮盈珠シホミツタマを撫でる大義の指先に、尖鋭たるもの特有の点が忘れた過去世の記憶が蘇るが如くに刺激した。ともすれば、己の指を傷つけさえする鋭さは、たして青年の持つ、いっそ危険なまでの熱情を意味してのものか。


 艇体固定枠からぶら下がったイソラは吊るされた罪人のようでもあり、しかし、其の脚は頼りなく揺られているわけではなかった。脚部や腕部のゆらめきが、立てる僅かな音色も外の海中では騒々しい雑音と成り得る。イソラの固定枠は全身を余さず固定し、其の様子は一個の塊じみていた。あたかも、宙吊りとなった肉塊を想起させたのは、単なる連想から来るものなのか、またはイソラが物言わぬ軀であるからか。


 固定された脚部には先ほどまでの務めを果たし、今は眠った推進装置が備え付けられている。此の推進装置のためイソラの脚部には、人の其れに似た複雑な関節駆動を採用できないという大きな制約が出来た。

 元々ヽヽのイソラの動力がなんであったのか、推進装置がなんだったのか、今では知るすべは無い。しかし、現在の科学力で再現するとなった場合、推進装置と脚部構造には矛盾が出来たのは間違いない。


 そこで、競技用義足の板撥条構造が着眼された。此れにより、推進装置を備えたままで歩行と走行の能力が確保された。反面、一定角度以外の圧力からは脆弱性を露呈する事になり、左右各脚部に予備を含めた三本の特殊カーボン性接地棒が備えられた。


 そして、何よりも腰にある武器……。大和男子の魂たる、日本刀。今は鞘に収まり、重く冷厳な輝り返しは見えないものゝ、身を震わせる程に匂い立つ気配は、刃という心に置くべき決意の色に似ている。


 美しく壮烈な優美な姿で、そして武器の本懐たる血を散らす野蛮性。なるほど、安曇野が以前語っていた単純であるからこその二律相反の逆説の美とは、日本刀にも通ずる論説なのやもしれぬ。


 此の、イソラ――七メートルの耐圧殻の鎧纏う異形の巨人に誂えられた巨刀は、無論イソラが鍛え上げたものではない。此れは刀匠が通常の刀の数倍の歳月をかけて鍛え上げた、其の存在だけで金剛石よりも尊い価値もつ神聖な武器なのだ。

 優美さと裏腹の、恐ろしき刃の鋭利さはまさしく散る覚悟、そして散るべき覚悟に必要とされる熱情の中にある峻烈の形と言えた。


 腕部は筋骨逞しく、イソラが決して隠密性からの情報収取だけに留まらぬ兵器運用を目的とされている証左と言えた。人を同寸法に拡大させても尚余りある巨人の膂力は人工筋肉に支えられているが、其れが強力なだけの木偶かと言えば、勿論、否だ。

 大義の後頸部にも生える潮盈珠シホミツタマと結晶結合した潮乾珠シホフルタマは、玄妙な体捌きや指遣いのことごとくを再現し切る繊細さを併せ持つ。イソラの持つ精妙な動きが、剣術の冴えを生身以上に引き出し、剣舞というを成立させるのだ。


 一部〳〵に現行技術が使用されているとはいえ、其れでも現代では再現できぬ技術体系から来る海よりの巨人――一七〇〇年程遡った神話かこから来た、深海を征く荒神、或いは海底に眠っていた悪夢。


 ――いずれにしても、動き出したんだ。もう、逃げられはしない。俺が望んでいたんだ。後戻りは許されない。たゞひたすらに前に進むのみだ。


 そう、ある意味では戦友である、巨人を見上げる大義は、感嘆の溜息をついていた。


 よく傷らしい傷なく帰還できたものだ。暗い水圧に耐えるための耐圧殻も、地上で被った時は些細な損傷でも、深海では重篤な――或いは致命の損傷へと変貌してもおかしくないのだ。


 まず〳〵の成果だと言っていい。祖国に戻るまでは完全な安寧に身を任す事など許されぬが、其れでも目標を沈める事が出来、イソラの存在を秘匿したまゝ帰還できた意味も大きい。


 完全に楽観は出来ぬものゝ、正体不明の襲撃で基地を壊滅状態にされ、更に其の敵が不明であるとなれば、行き先が無くなったかの指導者は、何処の国にも報復行動に移れぬ。証拠不十分のまゝで報復したのならば、其れこそ国際社会が黙ってはおらず、祖父が統治し、自らまで継がれてきた国が亡びる未来に独裁者も気づく筈だ。


 そう、第一の目的はたされたのだ。だが、此れは先触れだ。憧れた真っ赤な旭日と染まる桜吹雪の情景を脳裏に浮かべて、大義はイソラの間から姿を消す。残った、四艇のヒト型潜水艇は物言わず、ただ虚なを黒く染めるばかりであった。

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