それぞれの空

サトミサラ

第1話 黄色いヘッドホン

 窓の外では蝉が鳴いていて、部室の中ではパタパタとうちわを扇ぐ音が続いていた。カーテンの隙間から照りつける陽の光は、暖かいのを通り越してうだるような暑さを部室に招き入れる。俺はシャツをパタパタと動かして空気をどうにか取り込もうとする健人を横目に、体育館から勝手にもらってきたビニール袋に入れた氷を首に当てた。冷たくて気持ちいいけれど、制服に垂れる水滴が気持ち悪い。

「あっつぅ……」

 その瞬間にまた、肩で黄色いヘッドホンが揺れた。健人の首には、毎日ヘッドホンがかかっている。黄色いヘッドホンが。それは決して音楽を聴くために下がっていたものではなかったし、実際、それで音楽を聴いているところは見たことがない。必ず誰かと喋っていたというのもあるし、きっとそのヘッドホンは飾りなんだと思う。俺は肩で揺れるヘッドホンをいつものように目で追っていた。隣にいるようになった今でも、それは変わらずに。高校二年生の夏、窓の外に広がる空は、今日も青く澄み切っていた。

 俺と健人が出逢ったあの高校一年生の頃の夏の日も、同じ色をしていた。

 あの日俺は、柵にもたれかかって、空を見上げていた。するとふいに、後ろから誰かにイヤホンを引っ張られた。

「ねえ、名前なんていうの?」

 それが自分に向けられた言葉であると気づいたのは、声をかけられた数秒後だった。俺は彼を知っている。だけど、彼はオレのことを知らない。一ノ瀬健人。彼の名前を口に出すと、健人は悲しそうに笑った。

「一人で寂しくないの?」

 そう訊かれても、俺は好んで一人でいるわけだから、答えは決まっている。

「別に」

 すると健人は無言で俺の隣に並び、屋上の柵にもたれかかった。高校一年生の夏、俺はこいつと出会う。

 昼休みになると、俺は毎日屋上に出て昼食のパンを食べ、イヤホンで音楽を聴きながらただ流れる雲を眺めていた。それは中学生の頃も同じようなことをしていたけれど、誰にも気づかれなかった。俺はそうやって、一人で空を眺めるのが好きだった。それなのにあの日から、なぜか俺の隣には健人がいるようになったのだ。もちろん、この日も。

「翔は空を見るのが好きなの?」

 肩で揺れるヘッドホン、ブレザーのボタンなんかは当たり前のように一つも締まっていない。漆黒を連想させる髪は、おそらく一度染めたのを黒に戻したのだろう。校則破りの常習犯で、クラスの中心。そんな健人が、どうして自分に構ってくるのか、はっきり言って分からなかった。俺は彼に対して興味なんて微塵もなかったし、どちらかと言えば悪目立ちするくらいなら近寄りたくなかった。俺が答えない理由なんてそんなものだ。別に答える必要がなかった、だけだ。俺が答えないのを見て、健人は笑ったのだ。それから空を見上げた。一瞬。ほんの一瞬だけ、その表情は悲しそうな色を見せた。それでも俺は何も言わない。だって、俺が何か言ったところでどうなるんだ。仲良くなる予定なんてないくせに。

 ただ、彼を追い払うことはしなかった。健人は俺に何かを求めたりしない。俺は健人の質問に答える必要はないし、健人はそんな俺の態度を気に留めやしない。

「俺は星空が好きだな。夜学習に参加しないで、毎晩ここから空見てるんだ」

 この学校の生徒の七割は、夜学習に参加している。俺は親にそれを強制されていたし、担任にもテストが終わるたび、もっと伸びると言い聞かせられてきた。要するに俺は、自分を持たない人だった。この高校も中三の頃の担任に言われるがまま入ったのだ。自分のやりたいことだって当然あったけれど、俺はまだ自分に自信を持てなかった。

「ヘッドホンをすると、世界から音が消えたみたいな感覚になる。そういう世界の中で星を見上げると、なんか、すごい孤独な気分になる」

 俺の印象で、健人は一人を好むような人じゃなかった。男女、年齢に関係なく、誰にでも愛想を振りまいているような、そんな人だった。この間は廊下ですれ違った先輩に敬語を使わないで話しかけていたから、はっきり言っていい印象はない。

 初めは正直しつこかったし、一人の時間を邪魔された気分だった。それでも俺が屋上にいることを選んだのは、健人が話しかけてくることをほとんどしなかったからだ。だけど不思議と、気まずい雰囲気はそこになく、俺は相も変わらず空を眺めていた。そんな静かな屋上に、ある日変化が訪れる。俺と健人が出逢って、二週間経ったころだった。

「翔は、どうしていつも一人でいたがるの」

 健人は空を見上げたまま口を開いた。俺はそれに答える代わりに質問をぶつけた。

「じゃあ逆に聞くけど、おまえはなんでいつも誰かといたがるんだよ」

 俺は健人の名前を呼ばない。名前を呼び合うような仲じゃない。彼が一人でいる俺を理解できないのと同じように、俺はきっと彼を理解できない。誰かといることは、そんなに楽しいだろうか。面白いだろうか。

「一人ぼっちじゃ、寂しいじゃん」

 そのときの健人の表情は本当に寂しそうで、俺は思わず目を逸らした。視界の隅、いつもよりも声が小さかった。微かな振動で、それでもはっきりと言葉を紡いでいる。

「俺、お父さんいないんだ。だからかな、昔からずっと一人だった。母さんは仕事で家にいなかったし」

 俺の隣で、空気が動いた。見ると、健人は柵にもたれながら空を見上げていた。健人はいつも突然だった。突然俺の前に現れて、それで突然、とんでもない秘密を吐き出す。そんなことを話されてしまったら、後に引き返せない。俺は質問を返したのを、ひどく後悔した。

「だから休みの日は誰かといようって、ずっと思ってた」

 健人の隣に並び、同じように空を見上げる。澄んだ青に、絵の具を滲ませたみたいな、溶けそうな白い雲。

「それで俺、中学生の頃、交通事故に遭って」

 小さく息を吐きながら、視線はプールの方を向いていた。

「別に大したことはなかったんだけど、俺は何でか夢を捨てちゃったんだよね。水泳のさ、部活、サボって遊びにいって、それで事故に遭った」

 俺が悪かったの。そうやって悲しそうに笑って、健人は俺を見た。風が吹いて、少し長めの髪がさらりと揺れた。つくりもの、みたいだ。きれいなのか、そうじゃないのか、わからない、そんな感覚だ。それは、芸術作品と一緒で、きっときれいなのに、その作品を知らない人にしてみれば、小さな落書きにしか見えない。ああ、それか、その感覚に似ているのだ。

「俺はそんな理由で事故に遭ったから、部活に戻りづらくなった。長い間、幽霊部員だったかな。エースって呼ばれてたのも、すっかり過去の栄光。進級のときに手続きしないで、部活辞めちゃった。友達を見失ったのも、その頃」

 こいつが今まで見てきた景色を、俺は知らない。当然、昔のこいつだって知るはずがない。今ここにいる、「人気者の健人」しか、俺は知ることができない。

 だけど、きっとおまえはきれいなんだ、それを、俺はまだ知らないけど。

 それでも、健人は他の人と違うことだけは、なんとなく分かった。


 そんな話をしたあとも、健人は何ら変わらない表情で屋上に顔を出した。柵にもたれていつも空を見ていた。そうでないときも、いつも決まった場所を見ていた。その視線の先には、いつだって校庭で遊ぶ同級生がいた。名前は知らないけれど、健人の周りにいつもいるやつら。俺は、ああいう風に誰かの周りに固まって大声で話しているやつらを理解できない。違う生き方をしている人だと思う。

「……そんなに気になるなら行けば」

 俺が言うと、声をかけられたのがよほど意外だったのか、健人は驚いたように目を見開き俺を見たあと、少し笑って首を横に振った。その動作が何を示していたのか、俺はよく分からなかった。「行かないよ」という意味なのか、それとも「そういう意味で見てたわけじゃない」なのか、あるいは「行きたくない」なのか。まあ、最後のはないと思うけど、俺は健人の考えていることが分からなかった。健人はまた視線を校庭の方に戻す。そのときに、ふわりとヘッドホンが揺れ、また俺の視線をそこに引きつけた。仮に健人がいつも一緒にいるやつらといるのが好きでないのならば、どうして一緒にいるのだろう。そして、どうして俺の隣に今、いるんだろう。風で髪が揺れ、顔が見えるようになったとき、俺は初めて気づく。校庭を見ているときも、健人は何やら口を動かしていた。それが曲を口ずさんでいると分かったのは、聞き覚えのあるメロディが聞こえてきたからだ。教室の隅で、俺がイヤホンをして聴いてる曲。インディーズのソロアーティストで、まだ曲は十曲もないけれど、どれも天気や空に関する曲で、俺は気に入っている。空を見上げると、雲はただ流れてそっぽを向いている。俺たちのことなんか、きっと誰も知らない。そんなちっぽけな空間が、俺は嫌いではなかった。やがてチャイムが昼休みの終わりを告げ、俺は屋上のドアを引く。健人はまだ、校庭を見下ろしていた。

 健人が屋上に来るようになってから、一ヶ月は経っただろうか。それでも俺たちが親しくなったりはしない。話しかけることだって、あれ以来一度もしなかった。

 俺は今も、健人をよく知らない。そんな人と一緒に、よくもこいつは一緒にいれたなと思うけれど、自分も大概だと言うことに気がついた。それは俺たちが似ていることを示すのか、あるいは健人がここにいるのは、何か意味を持つのか、俺はやはり分からなかった。そもそも人の感情を理解するなんてのは到底できないことで、そんなわけで俺はただぼんやりと空を眺めるだけだった。

 何の関係もない、おかしな関係だった。

 何の関係もないやつの、重大な秘密を知っている。もうすでに何てことない過去かもしれないけれど、それを話す健人は宝物を抱えるようだった。捨てられない重みがあるのだろう。そしてこいつも賢いから、俺が考えていることなんてとっくに筒抜けになっているのかもしれない。


 その日、俺はカメラを手に持っていた。写真部は交友関係が面倒で入らなかったが、俺は写真を撮るのが好きだった。

「翔、ちょっと雰囲気変わったよね」

 急に隣から声がして、思わず視線を向ける。すると、健人が俺の音楽プレイヤーを覗き込んでいた。

「……別に」

 俺と健人はたった一ヶ月前に出会ったのに、健人は俺のことを分かりきった風に話す。

「なあ」

「うん?」

 健人は遠くを見ていた。遠くの、彼の友人を、見ていた。

「おまえ、なんで俺にあんなこと話したんだ」

 同じクラスでもない。特に目立ったこともしていない。それなのに、名乗らなかった俺の名前を、健人はその日のうちに声にしていた。そして何の関係もなかったはずの俺に、大きな秘密を話した。

「なんでかって……うーん、そうだな」

 健人は考え込むように唸ったあと、空を一瞥して、それから俺を見た。

「写真が好きな翔は知ってると思うけどさ」

 そして、大きく手を広げて、こんなことを言うのだ。

「世界はこんなにも広いよ!」

 言葉が出なかった。それと、俺に過去を明かした理由が、つながらない。そんな俺の反応は健人の期待通りではなかったのだろう、不満げに手を下ろして、少しだけ、健人は眉を上げた。大きく広げられた腕と、晴れ渡る青い空はどうにも美しくて、翼のようだった。のに、もったいない。写真にでも残して置けばよかっただろうか。

「つまりさ、俺は夢をひとつなくしたし、それで同時に居場所も無くしたし、大切な俺の父さんも亡くしたし、心の一部も失くしちゃったわけなんだけど」

 悲しい言葉、なのだろう、それは。それでも健人は笑う。無邪気に、子供みたいに。風で揺れた髪は、真っ黒で、それが余計に幼く見える。雲の純白とは反対の黒。それが余計に映えるから、俺はまたカメラを握りしめた。

「それでも今はこんなにも楽しいんだ。あいつら、くだらないけど面白いし、部活のみんなも信頼してる。そんで、翔とまた出会えた! 大げさって笑われちゃうかもしれないけどさ、俺はそんな今が最高に楽しくて好きなわけよ。俺は翔に、そんな世界もあるんだって知って欲しいな」

 すると健人は大きく息を吸った。

「世界はもっと美しくて、もっと優しいものだよ!」

 随分と大げさに話すんだなと思った。なんてやつだ、と思った。恥ずかしくないのか、とも思った。もう、おかしくてしかたなかった。

「……いいんじゃないの。俺は、おまえのそういう考え方、嫌いじゃない」

 健人は得意げに笑った。

「ちなみに俺は、一年B組、一ノ瀬健人!」

 そうやって、にい、と嬉しそうに笑った。何でそんな嬉しそうにするんだ。

「有名だから知ってる」

 すると健人は、あれっ、と言葉をこぼした。

「もしかして覚えてない? 俺たち昔、同じ小学校だったよ」

 そう言われても、全然ピンと来なかった。大体、こんなに顔の整ってる人がいただろうか。少なくとも、はっきりと覚えている小学校高学年の頃にはいなかったはずだ。卒業アルバムにもいなかった気がする。きちんと見たわけでもないから、なんとも言えないけれど。

「あ、そっか。俺、二年生で転校したから。えーっと、ほら、これ」

 健人は話についていけない俺に構わず、スマートフォンを差し出す。そこには見覚えのある小学校の校庭で撮った写真があった。体操服だから、恐らく運動会か何か。

「俺は短距離走で二位。翔が一位。勉強はいつも俺が勝ってた。翔がいない学校に行っちゃってからは、運動で俺と張り合えるやつがいなくてさあ」

 そうやって健人はべらべらと思い出話を始めた。俺は健人の、こういうところが面倒だったはずなのに。見せられた写真の中、幼い俺が強引に肩を組まれていた。これがきっと、健人だ。俺はたぶん、この写真みたいに健人に振り回されることになるんだろう。根拠もないくせに、そう思ってみる。するとつい、口元が緩んだ。

 次の日から、教室の中でも健人は俺にくっ付いてくるようになった。違うクラスなのに、十分休みも弁当の時間も、俺を探しに来る。健人は学年でも有名だから、最初に教室に来たときは何事かと女子が騒いでいた。イヤホンをして窓の外を眺めていた俺は気づかなかったけど、急にイヤホンを抜かれたのだ。顔を上げると、黄色いヘッドホンが視界に飛び込んできて、すぐに誰だか分かった。

「……健人」

 健人はついさっき俺の耳から抜いたイヤホンを自分の耳にはめる。

「あ、俺このアーティスト好き。声、いいよね」

 共通の話題もあったからか、健人といることは全然苦痛じゃなかった。健人はイメージ通り、一方的に喋る癖があったけど、その話も何だかんだ面白かった。俺は自然と、健人と打ち解けていった。予想していた通り振り回されてばかりで、買い物に付き合わされたり、無理やり部室に連れて行かれたり、されるがままだった。そのときに初めて、健人が歴史研究部なんて存在すら知らなかった部活に所属していることを知った。そこで知り合った瀬戸真一を、健人は転校してから親しくなった親友と紹介した。口下手そうに話す真一を親友と話すのを見て、やはり俺は健人を誤解していたように思った。ただうるさいのではない。健人が騒ぐのは、きっと彼が話す美しくて優しい世界を手に入れる手段なのだ。一人が好きだったはずの俺は、気づけばいつも健人といた。だけどある日、俺は一人で屋上に向かった。その日健人は昼休みに先生から呼び出しを食らっていたのだ。ドアを開け、カメラを取り出して空に向ける。そのとき、下の方から話し声が聞こえてきた。

「最近健人ノリ悪いよな」

 その声が一番初めだった。それから続く声は、全て健人のことだった。

 そうそう、なんか誘っても来ないよな。休み時間も気づいたらいないし。そういえばこの前なんか地味そうなやつに声かけてなかったっけ。ああ、なんだっけ、名前。モリサワじゃなくて、ええと、ああ、そうだ。

「守崎翔だ。健人と一緒にいるやつ」

 その一言に、心臓が揺れた。俺は健人たちの関係性をよく知らない。だけど、その言葉は、確かに健人の評価を下げるもので。そして、俺がそれに関係している。

 次の瞬間、ガシャンという音と同時に人影が視界に飛び込んできた。勢いに任せ、柵に足を掛ける。その姿勢で動きが止まって、俺はやっとそれが健人だと気がついた。黄色いヘッドホンが肩で揺れる。それが落ちないよう、右手で押さえながら健人は口を開いた。

「バーカ! 誰と仲良くしたいかぐらい、自分で決めるっつーの!」

 突然屋上から聞こえてきた声に、校庭に向かう途中だった人たちが一斉に上を向く。

「人の友達勝手に決め付けんなーっ!」

 慌ててとめようと腕を引っ張ると、健人は振り返って笑った。

「まかせといて。言われっぱなしなんて悔しいでしょ」

 そりゃ、そうだけど……。健人はまた身を乗り出して大きく息を吸う。

「言っとくけどな、翔はおまえらよりはるかに面白いからな! おまえらみたいな薄っぺらい関係とは違うんだよ!」

 それから笑ったままバーカバーカと連呼する健人は、子供のように無邪気だった。思わず首を傾げる。こいつの年齢、本当に十五なのか? 俺も同じように柵に足を掛けて見下ろしてみる。下にいる目立つグループの人たちは、ポカン、と口を開いたまま健人を見ていたが、やがて誰からともなく笑い出した。

「バーカ」

 中の一人が健人に向かって笑うと、健人は言葉を止めて、だけど笑顔のまま下のグループのみんなに手を振っていた。こいつらの関係はどうやってできているんだろう。あんなこと言われたのに、関係が壊れないのはどういうことなのだろうか。

「あー! 健人いた!」

 振り返ると、そこには真一が立っていた。散々校内を探し回ったのか、肩で息をしている。

「翔くんも一緒だったんだ。健人、呼び出しの途中で抜け出して……。先生、困ってたんだよ」

 未だに俺のことを翔くんと呼ぶのは、第一印象が無口で怖い人だったかららしい。そう言われたとき、意外とそういうことを口にするんだと思ったのを覚えている。健人は確か隣でおかしそうにケラケラ笑っていた。

 真一は健人の腕を引っ張って行くが、健人に力で勝てるはずもなくなかなか柵から離れない。

「ちょっと、健人……。翔くん、手伝ってくれない?」

「そんなことしたら俺はここから飛び降りる!」

 すかさず健人が口を挟む。そんなことをするはずがないのも分かっているけれど、俺はなんとなく真一を手伝う気にはならなかった。その時間が、きっと楽しかった。

「……って言ってるから」

 健人はへらりと笑って、ぷいっと校庭の方を見た。そこではいつものように目立つグループのみんながサッカーをしていた。健人はそれを見ると、少し笑った。その不意を狙って、両腕をつかまれ、柵から無理やり引きずりおろされる。

「うわっ、真一が俺を連行する理由なんてないじゃん!」

「僕だって、先生から頼まれてるんだよ」

 健人はやっぱり不思議なやつだ。何かを見え透いているようなときもあるし、こんな風に子供っぽかったりもする。たまに、妙に言葉が乱暴になることもある。まあ、それも特定の人の前だけど。そうやってころころと表情を変え、素直に自分の気持ちを表に出す健人だから、俺は健人を信用しようと思ったのかもしれない。

「健人」

 呼び止めると、健人は振り返ってきょとんと首を傾げた。

「なんであんなことしたんだよ。俺は別に、良かったのに」

 健人は、にい、と口角を上げて

「だって俺たち友達じゃん。友達のためだもん、無理なんかしてないよ。嫌われても、俺には翔や部員がいるから。だから、あいつらに嫌われることは怖くない。それに、あいつらそんなことじゃ嫌ったりしないよ」

 俺は今までに味わったことがない気分だった。屋上から叫んだ健人を見るのが、気持ちよかったのだ。そんなさわやかな季節を、俺は知らない。

「あのさ、俺」

 俺はずっと、誰かといることを面倒だと思っていた。だけど、健人や真一と出会ってから、学校に来るのが楽しみでしたかない。もしもこの部員の中に入れるのなら。

「歴史研究部、入ってもいいかな?」

 健人は驚いたように目を見開いたあと、満面の笑みを浮かべた。

「大歓迎だよ!」

「だけどその前に」

 真一は少しだけ申し訳なさそうな顔で笑った。

「先生にバレちゃってるから、翔くんも、職員室ね」

 このあと健人と二人で職員室に連れて行かれ、長々と説教された挙句、屋上には鍵をかけられてしまった。しかも放課後は、歴史研究部の先輩に説教を受ける羽目になってしまった。部長に怒られるのは慣れているのか、健人はまったく反省する様子もなくにこにこしながら説教を受けている。正座までさせられているのに、よく笑ってられるな……。もっとも、正座させられたのも怒鳴られたのも健人だけだったけど。廊下でよく健人と親しげに話している小原先輩はそんな二人の隣でオロオロしながら止めようとしていた。廊下で見かけていたときのイメージもそうだったけど、小原先輩はあまり先輩らしくなくて、ずっと健人をかばっているようだった。健ちゃん健ちゃん言っていて、健人はうっとうしそうに左手で追い払っていた。

「あの二人、いつもあんな感じだよ。仲、いいよね。小原先輩が健人のこと、大好きで、なんていうか、兄弟みたいでしょ?」

 確かに、例えるならば兄弟かもしれない。兄の方が子供っぽくも見えるけど。

「そうだな」

 俺はこんな風になれるのだろうか。先輩と、健人みたいに打ち解けることができるのだろうか。不安なのに、俺は真一に向かって小さく笑った。


 夏休みに入ってから数日、夏祭りの日のことだった。

「翔くんは、健人みたいな人、苦手かと思ってた」

 真一にそう言われた。はっきり言って、それは俺も思っていた。自分は健人のようなタイプとは絶対に仲良くなれないと思っていたのだ。健人があの日屋上に来なければ俺は一生このようなタイプの人と関わることもなかった気がする。

「そうだよな。苦手だった」

 真一の方を向くと、健人に、動かないでよ、と怒られてしまった。健人にしばらく帯をいじられたあと、背中をドン、と押された。

「サイズ大丈夫っぽいね。じゃあ、翔はこの浴衣で」

 そもそも夏祭りに行くとも言ってない。確かに今日家に来いとは言われたけど、夏祭りのためだというのは初耳だ。

「うん、似合う。翔くん、かっこいいからね」

 真一はたぶん、誰に対してもかっこいいと言うのではないだろうか。健人や小原先輩、それから部長にも言っているのを聞いたことがある。恐らくどこかで副部長にも言っているのだろう。

「お、いいじゃん。まあ、俺の方がかっこいいと思うけど」

 二人に押され、鏡の前に立たされる。いつも適当な前髪も健人によって整えられている。健人は本当に器用だ。浴衣の着付けもできるなんて知らなかった。どう考えても普通の高校生ができることじゃないだろ。

「それで、なんで、健人と仲良くなったの?」

 真一は興味津々のようで、身を乗り出して聞いてくる。その服を引っ張って、健人が浴衣を着付けようとしていた。

「なんでだったっけな」

 忘れるはずもない、あの日のこと。だけど、それは理由というよりもきっかけという感じで答えにはならない気がした。でも、仲良くなるって、そんなもんだろ。

「翔くんは、そういうの、覚えてるタイプかと思ってた」

 真一がそうやって俺の方を向くと、健人がまた真一を引っ張る。

「あのさ、いいかげん落ち着いてくれないと着付けできないんだよね」

 俺と真一よりも少し高い位置から冷たい声が降ってきて、さすがに真一も諦めて大人しくなった。

「俺、たぶん健人がヘッドホンかけてなかったら、興味持たなかったと思う」

 親が厳しくて、俺はルールを破ることを知らなかった。守るためにあるのだと、ずっと思っていた。だけど健人はルールなんて関係ないかのように、そこにいた。ヘッドホンもそうだし、制服の着方も、ルールなんて関係ないと言っているようだった。

「すごいって思ったんだよ。俺はルールを破るなんて、できないから」

 健人は笑っていた。

「そういうこと? でも、このヘッドホンは、抗うための道具じゃないからね。死んだお父さんのヘッドホン。だから離せないんだよね」

 右手でそのヘッドホンに触れながら、健人はそう言った。その表情は少し寂しそうで、俺はなんだか、健人が俺の隣にいてくれた理由が分かった気がした。健人はお父さんを亡くしているから、一人でいることの辛さが分かるのだ。一人でいる俺を見て、隣にいてくれたのはそういうことだったのだ、きっと。

「健人、中学生の頃は手提げの中に隠し持ってたっけ。すごかったよね。体操服で、一生懸命隠して。見つかっても、取り返すまで職員室から出なかったし。お母さんは仕事だからって、いつも俺の親が迎えに行って」

 真一は楽しそうに話している。止めろよ、と健人が言いながら真一の背中を叩く。よく見たら、少し耳が赤く染まっている。

「そういうところ、健気だよね」

 真一がからかうように言うたび、健人の耳は赤く染まっていく。

「もう真一うるさいよ! 話題脱線しまくってるじゃん」

「あ、そうだった。なんで?」

 真一の視線がまた俺に向けられた。仲良くなった理由、か。

「強いて言うなら、同じアーティストが好きだったからじゃない?」

 俺が言うと、健人はうなずいた。

「メジャーデビューしたよね、ついこの間」

 俺はベッドに腰をかけ、健人を見上げた。

「へえ。健人がずっと聴いてた、インディーズの? 翔くんも好きなんだ」

「真一も聴けば? 本当にいいよ」

 言いながら音楽プレイヤーを操作してイヤホンの片方を差し出した。

「あ、翔。着付け終わってからにして」

 あっさりつき返されてしまった。健人は一人でせっせと手を動かしている。そういえばと思って、俺は用意されたお菓子に手を伸ばしながら真一に問う。

「真一はなんで健人と仲良くなったの? 俺から見て、健人みたいなやつ苦手そうだけど」

 すると、真一は笑顔で健人を見た。

「幼馴染だからね。二年生の頃から、小学校はずっと同じクラス。健人、あのときから話すの大好きで、帰り道はしつこかったんだよ。慣れるよ、さすがに」

「なんかひどいんだけど」

 そう言いながら、健人は楽しそうに笑っている。やっぱり幼馴染の真一といる時間は特別楽しいのか、部室でもずっと笑っている。

三人分の着付けを終えて外に出たときには、外は既ににぎわっていた。いかん、出遅れた、なんて健人は言いながら足早に神社の方へ向かっていく。相変わらずヘッドホンを揺らしながら、俺と真一の前を歩く。浴衣とヘッドホンはどう考えても似合わないだろ、と思っていたけれど、健人はそれをさらりと着こなした。真一によると、去年の夏祭りは浴衣の中にパーカを着ていたというから、健人の服の趣味はよく分からない。それでも似合っているのは才能としか言えない。チョコバナナを売っているお兄さん――とはお世辞にも言えないけれど、健人がお兄さんと呼んでいる。そのお兄さんと楽しそうに話す健人は、やはり話すのが好きなようで、俺はたまに自分の隣に健人がいるのを不思議に思ってしまう。もちろん、歴史研究部の部員がいることも。歴史研究部はいつも大騒ぎしていて、みんなが対等な関係にあった。初めて部員のみんなとまともに言葉を交わしたときも、健人や真一と同じ態度だった。新入部員だから少しは気を使われるかと思っていたのに。扱いが違うといえば、俺や真一に比べて、健人は小さいことをするだけでも怒られるということぐらいだろうか。普段の態度から見て、健人は今までも何かやらかしているのだろう。だから好きじゃなかったはずなのに。ルールは守るためにあるものだ。親が厳しかった俺は、ルール違反なんて、先輩に敬語を使わないなんて、考えたことがなかった。健人のことだから何も考えずにやってるんだろうけど。

「あれー! 健ちゃーん!」

 急にそんな声がして思わず視線を向けると、小原先輩が立っていた。一瞬一人かと思ったけど、後ろから部長と副部長も顔をのぞかせた。

「守崎と瀬戸も! へえ、三人とも浴衣なんだ!」

「小原くんうるさいよ」

 そう言いながら健人は隠し持っていた扇子で、小原先輩の頭をはたいた。小原先輩は怒るどころかにこにこして健人に話しかけている。やっぱり、俺はこうなれないような気がする。

「ねえ、六人で回らない? ここで会ったのも運命!」

「バカか」

 なんというか、みんな小原先輩に対してためらうことを知らないようだ。部長は迷わずうちわで小原先輩の頭をはたいた。

「大体俺は約束があるって言ってるだろ。勝手についてきやがって」

 部長は眉をひそめて小原先輩と副部長を見る。言われてみれば、Tシャツ姿の二人の間に一人で浴衣姿は妙だった。最初から一緒だったわけではないらしい。

「聞いてよ、この人、彼女とデートなんだよ!」

「裏切り者め!」

 副部長と小原先輩が二人で部長をからかう。健人も一緒になって笑っていた。部長がその言葉を無視して、人ごみの中に紛れていくのを見届けると、小原先輩は俺たちの方に向き直った。

「じゃあここで二人と三人に分かれよう。うん、そうしよう」

 小原先輩は既に右手を出している。それを聞いて、なぜか健人は急に乗り気になっている。早速小原先輩の隣に並び、右手を差し出す。

「グーとパーだけだからね」

 こうなるともう、俺には止められない。健人はこういうとき妙に頑固になる。しかたなく、俺と真一、副部長も手を出した。

 ……どうしてこうなるんだろう。健人か真一のどっちかは一緒になると思っていたのに。二対三。俺は小原先輩と二人で回ることになってしまった。思ったとおり、小原先輩はにぎやかな人で、俺が喋らないのを見て一人でずっと喋っていた。健人もそうだけど、よく話が尽きないなと思う。

「ね、守崎!」

 急に名前を呼ばれて顔を上げると、小原先輩がにこにこしながら俺を見ていた。何も聞いてなかった。

「あの、先輩はなんでそんな話が上手いんですか。普段だって、いつも部室盛り上げてるじゃないですか。ああいうの、すごいっていうか、俺にはできないことだから」

 何を聞いてるんだ、俺は。小原先輩は目を見開いて俺を見ていた。

「あれは、俺が好きなの。俺は盛り上げたいからじゃなくて、自分の好きなことやってるだけ。守崎だって趣味とかあるでしょ。あんな感じ。人生楽しんだ者勝ちって言うじゃん」

 小原先輩は言いながら、前を向いて歩き出した。俺はずっと一人で殻にこもって、誰とも関わらずに学校生活を過ごそうと思っていた。だから、他人のすることを理解しようとも思わなかったけど、小原先輩みたいな生き方も、俺には少し難しいけど、いいなと思った。

「あ、金魚すくいやろうよ! 負けた方が……そうだな、焼きそばおごるってことで!」

「……いいですよ」

 そう言って笑って見せると、小原先輩は嬉しそうに金魚すくいがある方へ走っていった。小原先輩は少し変な先輩だ。先輩のくせに、健人にバカにされてるし、後輩を相手に真剣に勝負をしたりする。しかも自分から勝負しようと言い出したのに、負ける。もう一回が何度か続き、結局最後まで小原先輩は勝てなかった。大雑把なのだろう。最初の方でポイが破れ、勝負にならなかった。

「ごめん、焼きそばおごるお金なくなっちゃった」

 小原先輩は財布をひっくり返し、俺に見せる。出てきたのは、たった一枚の百円玉。これにはつい笑ってしまった。俺たち、何回勝負したんだろう。

「負けず嫌いにもほどがありますよ。健人が小原くんって呼んでるの、なんとなく分かります」

「なんだそれ!」

 言いながらも小原先輩は楽しそうだ。健人はたぶん、こういう小原先輩だからあんな風に楽しそうなのだ。

「先輩、焼きそば食べたかったんでしょ。おごりますよ。二人で食べた方が楽しいし」

 言いながら財布を出すと、ちょうど百円足りなかった。本当に何やってるんだろう、俺たち。焼きそばも買えなくなってしまうほど金魚すくいに夢中になって。たぶん、楽しかったからだ、なんて思ってみる。小原先輩はそういうところがすごい。どんなにくだらないことでも真面目にやるから、こっちまでムキになってしまう。一度勝ったのに、二回目で負けるのは少しかっこ悪いから、負けたくなかったのだ。

「小原先輩。その百円、くれません?」

「え、守崎も使い切ったの?」

「三百円しか残ってないです」

 二人のを合わせて、やっと一人分だ。小原先輩はその金額を聞くと、おかしそうに笑った。俺もなんだかおかしくなってきて、一緒になって笑った。

 一段落笑って、二人で焼きそばを買いに向かいの屋台へ向かった。

「兄ちゃんたち、さっき向かいで金魚すくいやってた二人でしょ。サービスしてやるよ」

 そう言われて、俺は小原先輩と顔を見合わせて笑った。結局、二人分の焼きそばを受け取って、二人で食べることができた。夏祭りも悪くない、小原先輩と打ち解けられたし。俺は思い切って口を開いた。

「小原くん」

 今まで、ルールは守ってきたし、生活の態度だってきちんとやってきた。だったら少しぐらい。俺は少しぐらい、自分に甘くたっていいんじゃないか。振り向いた小原くんは、驚いたように目を見開いたあと、俺を小突いた。

「先輩を敬え」

 だけど、その表情は嬉しそうにも見えた。

 高校一年の夏休み、俺は一つ悪くなった。


 真一が苦手な数学の問題を一生懸命解いている隣で、健人は既に宿題の範囲のワークの一回目を終えて口笛を吹いていた。慌てて自分のワークに視線を落とすと、一問も解いていなかった。

「あれ、翔こんなのも分かんないの?」

 相変わらず勝手に先輩のお菓子を食べながら、健人は笑顔で聞いてくる。どうやら頼ってほしいようだ。

「数学が分からないなら俺に聞くが良い!」

 健人の後ろから、小原くんが顔を出す。わざと無視してワークの問題を解き始める。

「えっ、無視かよ」

 小原くんがわざとらしく泣いたふりをする。健人は慰めるふりをしながらばしばしと背中を叩いていた。その様子を見ながら俺も横から口を挟む。いつの間に、こんな普通に話すようになったんだろう。少し不思議だ。

「だいたい小原くん数学赤点スレスレなんでしょ」

「そこまで低くないから! 人並みに点数取れてるから! ていうか、なんで守崎まで敬語使ってないんだよ!」

 俺はそう言われて、何でだろうと思った。健人といて自然とそうなったのかもしれない。俺は健人と顔を見合わせる。

「小原くんがバカだからじゃないの?」

 健人の言葉に、小原くんは椅子から落ちた。

 ケラケラと笑う健人の肩では、相変わらず黄色いヘッドホンが揺れていた。この黄色いヘッドホンとの出会いが、俺を変えてくれた。ずっと誰かと関わろうとしなかった俺を。俺はこの出会いをきっと忘れないだろう。黄色いヘッドホンのおかげで、この部室という居場所を、部員という仲間を俺は見つけることができたのだ。なんて、照れくさいから絶対に言ってやらないけど。

 健人は今日も、黄色いヘッドホンを肩で揺らしながら笑っている。去年の夏、屋上で見たあの楽しそうな笑顔で。

 あの日以来、俺のカメラの中には、たくさんの笑顔が溢れるようになった。

 窓の外の青空の中、うるさいくらいに蝉が鳴いていた。

 今年の夏も過ぎていく。

 やがて俺たちはありふれた大人になっていくけど、あの夏のことはきっと忘れないだろう。いつでも、あの夏に戻れる扉が、きっとそこにはあって。そしてきっと、俺たちが前に進めるよう、背中を押してくれる。

 俺はふと、今年の夏祭りも楽しみになった。

「夏休み、みんなで海行きませんか?」

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