茶碗蒸し
お菊とお静の母子は、「そこそこの値段でうまい料理を食べさせてくれる」と噂の『前田美海店』を訪れていた。
お昼を過ぎ、二人とも空腹であったが、武家に嫁いだ嫁として、はしたない真似はできない。
――いや、もう武家の嫁ではないのだった、と、お菊は顔をしかめた。
「さあ、お静、入りますよ……くれぐれも下品な行いだけはしないように」
「はい、母上……」
少し不安げに返事をするお静は、数え年で十七歳、満年齢ならまだ十五歳だ。
それでもこの時代では、そろそろ嫁入りを考えなければならない年頃だ。
しかし、武士の娘として良家に嫁ぐ夢はもう潰えてしまっているのだが……。
それでもお静は、武家の娘の誇りなのか、あるいは隣の母親が怖いのか、背筋をぴんと伸ばして前に進み、その暖簾を潜った。
「いらっしゃいませっ!」
元気な娘の声に、二人はちょと驚く。
店内はそれほど広くはないが、今の時間帯でも十人近い客が居て、そこそこ混んでいる印象だ。
ちょうど座敷の隅の方に二人が座れるだけの空間があり、そこに座ることにした。
それにしても……やはり、「そこそこの値段でうまい料理」とは聞いていたが、客層としてはあまり身分の高い者はいないようだ。
なにやら丼物をかき込む職人風の男、見たことのない揚げ物を大口を開けて食らいつき、その後に豪快に白米を口に運ぶ大男……。
店としては、活気があるのはいいのだが、あまり上品な印象は受けない。
それでもまあ、店内は小綺麗な作りではあるし、不快感を覚える事はなかった。
そして手渡されたお品書きを見て、二人は顔を見合わせた。
今までに見たこともないような料理名が並んでいたからだ。
簡単な説明文が付いている物もあるが、どうもピンとこない。
「タコ焼き……タコを小麦の粉でくるんで、焼く?」
「焼き飯……白米を焼くのかしら?」
二人が望み、求めていた『上品でおいしい料理』とはかけ離れている気がした。
その他には、聞いた事もないような丼物があるが、先程男がかき込むように食べているのを見てしまったので、ちょっと注文は躊躇してしまう。
普通に焼き魚や味噌汁なんかもあるのだが、先程この店を紹介してくれた者は、変わった料理ほど旨いと言ってくれていたし、それに二人とも、出来る事なら今まで食べた事のない料理にしたいという思いもあった。
母親のお菊は、先程の店員が近くを通りかかったときに声をかけ、
「私共はこの店に来るのは初めてなのですが、何かお上品で美味しい料理はないでしょうか」
と質問してみた。
「お上品、ですか……でしたら、『茶碗蒸し』などはいかがでしょうか?」
「……茶碗蒸し?」
「はい、ちょっと深いお茶碗に椎茸やかまぼこ、海老、ネギなどの具材を入れて、溶き卵とお出汁を合わせた物を入れて、蒸して固めたお料理です。熱くて美味しいですよ」
にっこりと微笑むその娘の、朗らかな口調の説明を聞くと、確かにそれだけで美味しそうに感じられた。
「美味しそうですわね……じゃあ、それを二つ、頂けますか?」
「はい、ありがとうございます!」
満面の笑みを浮かべて、深いお辞儀をする彼女。
思わず自分達も会釈を返す。
お涼という名のその店員が厨房に戻った後、二人は小声で会話を始めた。
「……はきはきして、丁寧な口調の娘さんね。きちんと
「はい、母上。私も見習わなければいけませんね。こういうお仕事なら、私もしてみたいです」
一人娘の積極的な発言に、お菊は目を細めた。
二人は、岸部藩の武士の嫁と娘だった。
岸部藩は財政的に苦しい状況が続いており、現代でいえば中間管理職の立場にあった一家の
それでも、贅沢さえしなければ何とか生活はしていられた。
その上、領内に金の鉱脈が見つかったということで明るい兆しも見えていたのだが、その採掘権を幕府に認めてもらうための査察に於いて、上層部が大失態を演じてしまったという。
採掘権の話は保留となり、藩全体が追い込まれた。
財政は行き詰まり、多くの藩士が人員削減の憂き目に遭ってしまった。
お菊の夫も、その一人だった。
元々家柄がそんなに良いわけではなく、下級武士からのたたき上げで出世していた。
そして藩内においてその身分保護が優先されたのは、やはり元々家柄の良い者達だった。
彼は浪人となってしまった。
幸いにも、隣接するこの阿東藩は金鉱脈の採掘権が幕府に認められ、今、人員を募集しているところで、体の頑強は彼はすぐに採用された。
しかし、その働く場所は山奥で、お菊とお静の母子を連れて行くわけにもいかない。
また、まだ金鉱石が本格的に採れている訳でもないので、給金も安い。
諸々の事情が重なり、彼女たちはこの阿東藩の街中で住み込み、自分達も働いて少しでも家計を助けながら何とか生活して行こうと決めたのだった。
しかし母親のお菊は体が弱く、内職ぐらいしかできない。
そこで娘のお静をどこかに奉公させようと考えていたのだ。
仙人と噂されるお金持ちがこの町には住んでいて、特に若い女性を雇って働かせているという。
それだけ聞くと、なにか怪しい仕事の様に思えてしまうが、実際は給仕や
とはいえ、娘のお静には
「女は家庭に入り、夫の助けをするもの」
と教育していたし、花嫁修業ぐらいしかさせていない。
不安を抱え、手持ちの資金も少なく……。
せめて、この阿東藩にやってきた初日、少しぐらい贅沢に美味しい物を食べたいと立ち寄ったのが、この『前田美海店』だったのだ。
それにしても……この阿東藩、自分達が今まで住んでいた岸部藩より、ずいぶんと活気があると、二人は感じていた。
先程の娘もそうだが、とにかく笑顔が多く、明るい。
この店で飯を食べる人々も、特に深刻そうな表情の者はおらず、作法はともかく、皆純粋に食事を楽しんでいるようだった。
しばらくすると、盆に載せられた、筒上の長細い茶碗が運ばれてきた。
蓋が付いており、なるほど、見た目は上品だ。
「熱いので、気をつけてくださいね……あと、お箸だけでは食べにくいようでしたら、こちらの
と、朱色に塗られた小さな木製のそれを渡してくれた。
このような小さな心遣いに、お菊は感心した。
二人は、その長細い茶碗の蓋を、ちょっと熱いのを我慢しながら取り除いた。
途端に沸き上がる、湯気と豊潤な香り。
「うわぁ……」
まだ若干あどけなさの残るお静が、その色白で端麗な顔を思わずほころばせた。
それを見て、母親のお菊も笑顔になる。
茶碗の中身は薄い黄色で、乗せられた緑色の三つ葉が映える。
なるほど、これは上品な印象だ。
二人は手を合わせて頂きますを言い、まず箸で三つ葉をつまむ。
口に運ぶと、三つ葉自身のわずかな渋みと、出汁の旨み、甘みが混じり合う。
「……おいしい……」
お静の口から、素直な感想が漏れる。
お菊も、想像以上に上品な味わいにうっとりする。
次に、薄黄色の、豆腐のような具を箸で掬おうとしたが、思った以上に柔らかく、上手くいかない。
そこでさっきの匙を思い出し、持ち替えて使ってみると簡単に掬うことができる。
お菊のその仕草を真似て、お静は薄黄色のその具をふうふうと冷ましてから口に含んだ。
「……これも美味しい!」
今度はさっきよりもはっきりと口に出した。
母も、娘のその表情を喜びながら同じように食べ、同じように感想を漏らした。
椎茸や鰹節の旨みの効いた出し汁に、コクのある、しかしやや控えめで柔らかな味わいの玉子。なめらかな舌触りで、口の中で溶けるように崩れる、今までにない食感だった。
夢中で、けれど下品にならないよう気をつけながら食べ進めていくと、今度は鮮やかな赤を纏った海老に辿り着いた。
殻としっぽは取り除かれ、食べやすくなっている。
お菊は、海老のその背わたも綺麗に取り除かれていることを確認して、やはりきちんとした仕事をする店だと感心する。
そして口に入れると、ぷりっとした食感の後、すぐに海老本来の甘みと旨みが広がる。
出し汁との相性も抜群。
娘を見ると、もう笑みが止まらないほどの幸せそうな表情だ。
さらにその後、高級食材であるはずの椎茸まで出てきた。
これも、きちんと下味がつけられているようで、その手間のかけ方と味付けの巧みさに驚きを覚えた。
そして隠れていたネギ、蒲鉾も登場。
最初は見えていない食材を発見し、その正体を知り、そして口に運んだあとの、期待を裏切らぬ味。一種の、宝探しをしているような楽しさも感じた。
しかも、これほどの様々な食材が、個性を発揮しつつも見事に調和しているのだ。
これだけの手の込んだ、しかし上品ですばらしく美味しい料理が、わずか十八文だという。
二人は、噂通りの本当に美味しい店だと大満足だった。
それに、店員の接客も良かった。
こういうお店なら、できることなら私も働いてみたいと、お静は目を輝かせている。
母のお菊は、思わず先程の店員を呼び止めた。
「あの……お涼さん、と言いましたよね……貴方はここに来て、どのぐらいですか?」
「私ですか? 十日ほどになります」
「十日? そんな短期間でこんなに上手に接客できるものですか?」
お菊は少し驚いて尋ねた。
「え、いえ……そんな上手だなんてことは無いですよ」
少し照れ笑いのお涼。
「いえ、本当に、礼儀正しいですし……ひょっとして、武家の娘さん、ですか?」
まさか、と思いながら尋ねてみる。
「あ、はい、そうです。父親から、『お前は世間知らずだから、この店で奉公して修行しなさい』と言われまして……」
「修行……なるほど、そういうことだったんですね……お静、やっぱり武家の娘さんですって。見なさい、こんなに立派にお仕事しているんですよ」
と、なぜかお涼のことを自慢げに娘に紹介する母親。
「はい……勉強になります!」
と素直な娘。さっきの食べた茶碗蒸しがあまりに美味しかったせいか、二人ともちょっと興奮しているようだった。
「いえ、あの……お二人とも、武家の方ですか? このお店の料理長も、店員も……元々、武家の娘さんなのですよ」
「ええっ、料理長が武家の娘さん? あそこで給仕をしている、あの子も?」
お菊が思わず声をあげて、それを少し恥ずかしがり、顔を赤らめた。
「ええ、そうですよ。 この町では、武家の娘であっても、働く人は多いですよ」
と、笑顔で返すお涼。
「私とこの娘、お静も元々武家の女なのですが……」
と、そこでお菊は言葉を濁した。
それだけで、聡いお涼は何かを察した。
「……なにか事情がおありのようですね……よろしければ、後でお話、お伺いしましょうか?」
思わぬ展開に、顔を見合わせる母子。
後に、この店の主人が仙人と噂される若者だという事実を知って、十五歳のお静はさらに驚き、憧れ、そして雇われる事を志願するのだった。
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