かに玉丼
昼休みの時間帯、大工の棟梁『吉五郎』と新米大工の『善吉』は、『前田美海店』を訪れた。
「へえ、ここが噂になってる料理屋、ですか……高いんじゃないですか?」
「まあ、他の店よりちょっとばかり、な。その分、味はいいんだ。それに今日は俺のおごりだ、たらふく食いな」
そう言いながら、吉五郎は
「いらっしゃいませーっ! あ、頭領さん、いつもありがとうございます」
と元気な声に、
「おうっ、お春ちゃん、今日も頑張ってるねぇ」
と威勢良く挨拶を返す。
「……あの子、店員さんですか?」
「おう、べっぴんだろう。あと二人いるが、どちらも器量良しだぜ」
と、なぜか吉五郎は上機嫌だ。
それに対して、善吉は
「へえ、そうなんですか!」
と驚いては見せるが、あんな可愛い子があと二人もいるわけがないと、正直信用していなかった。
店はお昼時とあって、かなり混んでいる。
今、座る場所がないのでちょっと待っていると、さっきの店員さんがまたこちらを見て、
「あっ! 親方、いらっしゃい! いつもありがとっ!」
と、もう一回声を掛けてきた。
それに対して吉五郎は、
「ようっ、お雪ちゃん、今日もがんばってるなっ!」
と、またまた挨拶を返した。
『善吉』が不思議そうな顔をしていると、それに気付いた頭領が、少し笑いながら
「……なんだ、俺がおかしくなったとでも思ったのか? あの子はさっきの子とは違う。まっ、双子だから最初は見分けがつかないだろうがな」
と自慢げに語った。
「双子っ? ……なるほど、でも、親方はどっちがどっちか、見分けが付くんですか?」
「いや、正直、俺も見ただけじゃあわかんねえ。けど、話し方が全然違うんだ。元気でちょっと子供っぽいのがお雪、幾分おしとやかなのがお春だ」
「へえ……親方、ずいぶんこの店、贔屓にしてるんですね」
「ああ、まあな。俺に取っちゃ孫みてえなもんだよ」
そう語る吉五郎は、嬉しそうだった。
少し待って、ようやく座敷に上がることができた。
さっきの女の子が、注文を聞きに来る。
「おまたせしました。今日は何にしますか?」
「おうっ、俺はいつもの焼き魚膳をくれ。それと……こいつには、多少高くてもいいから、なんか変わった旨い物、食わせてやってくれ」
「変わった物、ですか……でしたら、ちょうど今日からお品書きに加わった料理があります。『かに玉丼』って言うんですけど……ちょうど最近仕入れたばっかりの蟹と、玉子が合わさった、それはもう絶品の……」
「よし、それだ。善吉、それでいいな?」
「は、はいっ、それでお願いしますっ!」
有無を言わさず、彼の昼飯は決まってしまった。
「ありがとうございますっ!」
と、お春は嬉しそうに厨房に帰っていく。
「……今のは、幾分大人しい方の子ですか?」
「おう、そうだ。それでも十分元気だがな……なんだ、気になるのか?」
「いえ、そんな事は……」
と否定するが、少し赤くなっているのを吉五郎は見逃さなかった。
「……おめえももう、俺のところに来て一年だ。仕事も覚えてきた頃だろう。もう十八、だったか? 大工でやっていけるって思ってるのなら、そろそろ嫁のことも考えなきゃならねえなあ……」
「いや、俺にはまだ早いですよ」
「そうか? でも、興味はあるだろう? ま、あんなべっぴんの子はそうそうお目にかかれねえがな……」
「そうですよねえ……」
「……なんでえ、やっぱり興味、あるんじゃねえか」
と、吉五郎は笑った。
しばらくして、吉五郎が注文した『焼き魚膳』と、『かに玉丼』をお春がお盆に乗せ、運んできた。
最初、善吉はお春の顔を見つめていたが、『かに玉丼』を見た瞬間、興味は一気にそちらに移った。
「なっ……この玉子の量……それに、この赤いの、蟹なんですか?」
「そうですよ。本当にお勧めなんです。四十文と、ちょっと高いですが……」
「かまわねえよ、今日はこいつが一年勤めた記念で、俺のおごりなんだ……それにしても、旨そうだな……」
と、頭領もまじまじと見つめている。
早速、箸でその玉子と蟹を、下の飯と一緒に掬ってみる。
何か、とろみの付いただし汁が掛けてあるようで、それがまた見た目にも旨そうだ。
口に運んで、咀嚼する。
最初、その熱さにちょっと驚いたが、すぐに酸味と甘みが、次に玉子の濃厚なコクと蟹の豊かな風味が口の中に広がり、渾然一体となって、彼に衝撃を与えた。
「旨い……なんだ、この旨さ……」
一言そうつぶやき、二口、三口と、取り憑かれたように箸を動かす。
「……善吉、ちょっとだけ分けてくれないか?」
彼があまりに旨そうに食うものだから、吉五郎が思わずそう口にした。
それではっと我に返った善吉は、
「もちろんです、どうぞっ!」
と、丼ごと師匠に渡す。
「すまねえな……」
と、ちょっと恥ずかしそうに、頭領は玉子と蟹、飯を混ぜて口に運んだ。
「……うめえ……」
「でしょう? ほんとにこれ、旨いっす!」
善吉は、なんだか自分が褒められたような気分になって、自慢げに声を出した。
その後、もう一口だけ師匠が食べ、残りを貪るように、善吉が完食した。
と、そこに先程の二人とは別に、やや年上で、凛々しく、美しい顔の女性が現れた。
「お客さん、『かに玉丼』、どうでしたか?」
「あっ……はい、ものすごく旨かったです、こんな旨いの、初めてですっ!」
善吉の素直な感想に、少女の表情も緩む。
「おうっ、お夏ちゃん、また腕上げたな。こんな料理作れるようになるなんて、相当頑張ったんだな」
「いえ、旨いって言ってくれるお客さんがいるからこそ、張り切って作れるんですよ。……こちらの方は、お弟子さんですか?」
「ああ、『善吉』っていうんだ。まだ大工になって一年の新米だが、なかなかスジはいい。ま、贔屓にしてやってくれ」
「ええ、善吉さん、ですね。こちらこそ、ご贔屓に」
と挨拶をして、お夏は颯爽と厨房に帰っていった。
どうやら、はじめて『かに玉丼』を客に出したようで、その感想を聞きたかったらしい。
「……あの子が、親方の言ってた娘の、最後の一人ですか?」
「ああ、そうだ。あの双子の姉で、ここの板前をやっているんだ」
「えっ……あの女の子が、板前っ!」
「そうだ。おめえより若いのに、こんな旨い料理を作れる、一人前の板前だぜ」
善吉は、ちょっと衝撃を受けた。
(自分より若い、しかも女の子が、一人前の職人として活躍している。これだけ繁盛している店の、板前だ。それに……綺麗だ……)
吉五郎は、そんな彼の姿を見て、連れてきて良かったとほくそ笑んだ。
「親方……ありがとうございます、いろいろ勉強になりました」
「勉強? 俺はただ、飯をおごっただけだぜ」
「いえ、お心遣い、感謝します……俺、早く一人前になります……」
そのセリフを聞いて、吉五郎は直感した。
やっぱりこいつは、頭が良いし、スジも良い。良い職人になる……。
「早く、一人前になって、あんな綺麗な嫁さん、もらいたいっす……」
「……なんだ、そっちか」
吉五郎は、声を上げて、笑った。
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この店で登場した『かに玉丼』は、丼に玉子と蟹を乗せた『和風かに玉丼』、お値段四十文(約千円)となります。
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