かにしゃぶ
季節は初冬、木枯らしが吹き始めたこの日の午後、まだ『前田美海店』の夜の部が開店する前の時間帯に、新料理の試食会が開かれた。
今までよりやや高級で値段が高く、ちょっと贅沢な料理だ。
そのために、この試食会に呼ばれたのは、舌が肥えていると思われる阿東藩元家臣の『井原源ノ助』と、総合卸問屋『阿讃屋』に勤める『啓助』の二人だった。
源ノ助は満年齢でいうと五十六歳。
元とはいえ、阿東藩でもかなり高い地位の人物だったが、引退後は暇に耐えかね、縁あってここで働く少女達の用心棒となっていた。
その温和で気さくな性格から、彼女たちからは家族同然に慕われている。
一方、啓助は満年齢で十八歳。
まだ若いが切れ者で、その商才が認められ、阿讃屋では『手代』、つまり丁稚でっちと番頭の中間の地位を与えられている。
前田美海店としても食材の多くを阿讃屋から仕入れているため、新商品をお品書きに追加する前には、彼に試食してもらう事が多くなっている。
また、彼とはこの前田美海店を開く前、内職を世話してもらっている頃からの知り合いであり、気心が知れているので、この試食会は宴会のように楽しいものになると、ナツ、ユキ、ハルの三姉妹も楽しみにしていた。
また、夜の部担当のお梅も参加することになっており、彼女もはりきって料理の準備を手伝っていた。
いよいよ、試食会開始。
七輪を座敷に置き、そこにあらかじめダシ汁を張った土鍋を置く。
その脇に、ネギや白菜、豆腐といった食材を準備していく。
お膳は、七輪を挟んだ上手に源ノ助と啓助、下手に四人の女性の席だが、やや変則的に、円を描くように配置され、鍋からの距離が遠くなりすぎないように工夫されていた。
実はこの時代、「一つの鍋を座敷に持ち出し、その場で煮込み、みんなで共有する」というだけでも斬新なスタイルで、源ノ助も啓助もすでに興味津々だ。
そして本日の主役である、皿に盛られた蟹のむき身が登場すると、彼等は驚きの声を上げた。
「これが、蟹……想像していたのと違いますな……」
「普段食べているものよりずっと大きい……」
ちなみに、彼等が普通に食べているのはワタリガニだ。
もちろん、これはこれでうまいのだが、身が少ないので、通常は味噌汁や鍋物のダシとして使用される。
この日の皿に載っているのは、蟹の足の部分だ。
特にワタリガニには足に身が少ないので、明らかに別の蟹だと二人とも悟った。
「これ、『ズワイガニ』って言うらしいです。私も初めて見ましたが……」
料理長のナツが、鍋の隣にその綺麗なむき身を置きながら話した。
「越前の方で取れるということですが、蟹は痛みやすいので普段、私達は食べることができません。ですが、仙界の技で長時間、保存できるようになりましたので……」
「……なるほど、それなら合点がいきますな」
源ノ助がうなずく。
ちなみに、二人ともこの店が、仙界、つまり三百年も未来の食材、調理法を用いていることを、開店当時から知っていた。
やがて七輪の火力により、沸々と煮立ち始めるだし汁。
まずナツが、見本を見せる。
殻のついた足の先を菜箸で持って、半透明の美しいカニの身を数回、煮立っただし汁に潜らせる。
そして柚と醤油、みりん、ダシで味を調えた、現代風にいうところの『ポン酢』の入った小皿に入れてその身を浸し、
「では、失礼して……」
と、自分の箸で取り直し、口に入れた。
「……美味しい……」
思わず言葉が出てしまったものだから、みんな笑った。
やり方が分かれば、もうあとはその通りに食べるだけだ。
まず源ノ助、次に啓助が同じようにカニの身を煮立ったダシに潜らせ、ポン酢で食べる。
「旨い……これは……旨いですな……」
「……とても甘みがありますね……それでいて繊細、これは普段食べている蟹とは全然違う……」
二人とも大絶賛、すぐに二つ目、三つ目へと箸を伸ばす。
こうなると、ユキ、ハルの双子も、お梅も我慢できない。
かくして、蟹の身の争奪戦が始まった……といっても、十分な量はあるのだが。
三つ目以降となると、ポン酢にもみじおろしや浅葱を入れて若干、変化を付ける。
または、あえてポン酢を付けずに食べる。
どの食べ方でも極めて旨いと、男性二人は手放しで褒める。
ここでお梅が、準備していた清酒を二人の杯に注ぐ。
特に源ノ助は上機嫌で、それを受けて飲み干し、満面の笑みを浮かべる。
ユキ、ハルの双子は一心不乱に蟹の身を潜らせては食べ、を繰り返していたが、このままでは足りなくなりそうだと悟り、二人して追加分を準備しに行った。
啓助は、冷静にこの料理、値段がいくらなら接待用に用いることができるか、と、早くも商売に結びつけようと考えたが……周りがあまりに楽しそうなので、それは後回しにして、とりあえず味わうことに専念した。
一通り食べ終わったところで、今度は準備しておいた野菜、豆腐も入れて、一煮立ちさせて食べる。
蟹のダシが野菜にしみこみ、普段の水炊きとは別格の旨さで、これも全員、大絶賛。
そしてシメは、蟹と野菜の旨みがたっぷり出ただし汁に白飯を入れ、ふっくらするまで弱火で煮込み、ほぐした卵を回し入れ、器に取った後にざく切りしておいた三つ葉を乗せる。
極上のかに雑炊だ。
源ノ助、啓助とも、そのあまりの旨さに、しばらく言葉が出なかった。
そこにさらに、お梅が酒を勧める。
男性二人は、この世の極楽、といった表情でそのお酌を受ける。
気心の知れた者達の、絶品かにしゃぶを囲んでの試食会。
『前田美海店』が開店に至るまでの大変な苦労を、男性二人も知っている。
その昔話さえも場を盛り上げ、料理をいっそう旨くした。
女性陣もこれが仕事の一環だということを忘れ、心からこの宴会を楽しんだのだった。
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