あさりの酒蒸し、バター焼き
『前田美海店』は、夜になると酒も提供し、居酒屋となって昼間とはまた違った趣となる。
長時間滞在する客が多くなるので回転率は落ちるが、その分一人ずつが使う金額も大きくなるので、むしろ夜の方が稼ぎ多い。
最近では常連客も増え、休む暇がないほど忙しくなってきており、夜だけ従業員を一人雇って接客を手伝ってもらっているほどだ。
お梅という名のこの女性、以前も夜の仕事をしていたことがあり、お酌をしたりといった「媚びた」接客も得意で、そういう事が苦手な若い三姉妹にとっては大変助かる存在だ。
ちなみに彼女は満年齢で二十二歳。妖美な雰囲気を漂わせる女性で、お梅目当てに足繁く通う客もいるほどだった。
もちろん、純粋に『前田美海店』の味が気に入り、常連となった者もいる。
その一人が、徳治郎と名乗る一人の初老の男だ。
身なりはあまり小綺麗な感じではないが、それなりにお金は持っているようで、今まで各地でさんざん名物料理を食べてきた事を自慢している。
そんな彼がいつも決まって食べるのが、『あさりの酒蒸し』だ。
砂抜きしたアサリを軽く炒めた後、酒を加え、蓋をして蒸し焼きにし、刻んだ青ネギを加える。仕上げに醤油で味を調える。
シンプルだが、日本酒にも合う人気料理だ。
しかし徳治郎は、これを食べるとき、決まって
「江戸の『月星楼』で食べる酒蒸しは、絶品だったんだがなあ……」
と、余計な一言を言うのだ。
これがこの店の料理長、ナツのプライドに火を付けていた。
いつかこの徳治郎にうまいと言わせようと、酒の種類や醤油の量、火の通し方やかくし味など、いろいろと試行錯誤していたのだ。
武士の娘で負けん気の強い彼女、徳治郎に酒蒸しを出す時だけは自分で運び、感想を聞くようになっていた。
そしてその日、彼にいつものようにあさりの酒蒸しを食べてもらい、
「江戸の『月星楼』で食べる酒蒸しは……」
との不満を聞いた後で、
「徳治郎さん、今日は特別に試作品を持ってきました。この料理は今回、お勘定はいりませんので、どうか感想を聞かせてください」
と切り出し、その料理の小皿を彼のお膳に置いた。
「……ほう、なんか色が違うな……妙な物もって来やがって……」
と文句を言いながらも、興味津々といった様子だ。
見た目は酒蒸しとさほど変わらないが、若干黄色みを帯びている。
彼はまず匂いを嗅ぎ、首をひねった後、そのアサリの身を一つ食べ、数回咀嚼し、一瞬動きを止めた。
さらに二つ目、三つ目と口にする。
「こりゃあ一体、味付けに何を使ったんだ……」
「秘密の食材を使っています。手に入れるのに苦労したんですよ」
と、ナツはすまし顔で答える。
彼女は、試作品を食べた段階でその味に自信を持っていた。
『バター』という食材を加える事によりコクが増し、アサリの食感と相まって、酒蒸しとはまた違った濃厚な旨みが生まれる。
ただ、人には好みがある。
酒蒸しが好きな彼に、この濃い味が受け入れられるかどうか……。
それに、もう一つ味わってもらいたいものがあった。
彼女はそっとさじを添えた。
「この煮汁がまたお勧めなんです。白飯に良く合いますよ」
と言うと、彼は
「ふむ……」
と一言唸り、意外と素直にナツの言う通りにその煮汁を少量すくって口に入れた。
そして数秒後、白飯を一口食べる。
「……いかがですか?」
ナツが少し緊張の面持ちで尋ねた。
「こりゃあ、なかなかいける。なんていう料理なんだ?」
「これは、『アサリのバター焼き』と言います」
「ばたー焼き……」
彼はしばし、その新料理を見つめた。
「今まで食ったことのない味で、面白い。けど、江戸の『月星楼』で食べる酒蒸しに比べたら……」
「……そうですか、残念です。それでは、この料理を新しくお品書きに追加することはやめます」
と、ナツがやや演技がかった落胆の表情を見せた。
「……そんなことされたらこの料理、これから食えんじゃないか。まいった、わしの負けだ。こんなうまいもん、食ったことない。それに酒蒸しだって、もう江戸の『月星楼』に負けとらんわい」
と、手を広げて絶賛した。
次の瞬間……。
「おおっ、徳さんが降参したぞっ!」
「こりゃ大事件だっ! 徳さんが褒めるなんてっ!」
と、一斉に歓声があがった。
常連客たちはみんな、ナツと徳治郎のやりとり、いや、勝負を、毎夜の恒例行事として注目していたのだ。
さらに、いくらで売るつもりなのか値段を聞かれ、酒蒸しと同じだと答えると、
「お夏ちゃん、俺にもその『あさりのばたー焼き』、おくれっ!」
「こっちの膳にも、二つ持ってきてくれっ!」
一斉に注文が飛び交った。
「はっ、はいっ、少々お待ちをっ!」
事の成り行きに驚いたナツだったが、褒めてもらった上にこれだけ注文をもらって嬉しくないわけがない。
満面の笑顔で、少し涙さえ浮かべて、ユキ、ハルの双子と共に新料理『あさりのバター焼き』の調理に取りかかったのだった。
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